座間コミニティー

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◆子にしていただくこと……

2014年06月23日 16時12分06秒 | 聖書

を待ち望んでいます。(ローマ八・二三)

聖徒たちは、この世にあっても神の子どもである。しかし人々は、彼らのある道徳的性格を除いては、それを発見することができない。子としての身分を授けられていることは、まだ公然と宣言されていない。
ローマでは子どもを養子にしても、そのことを長い間個人のことにしておく。しかしその子どもを養子にしたことを公にする時が来る。役人の前に子どもが連れて行かれて、古い着物を脱がされ、その子を養子にした父が、新しい境遇にふさわしい着物を着せるのである。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。」私たちはまだ、天の王族にふさわしい服装を着けず、アダムの子どもとして着ていた血肉をなお着ている。しかし、私たちは知っている。「多くの兄弟たちの中で長子」である「キリストが現われたなら」、私たちはキリストに似た者となり、キリストのありのままの姿を見ることを。
社会の最下層から拾い上げられ、ローマの元老院議員の養子とされた子どもが、次のひとり言を言うのを、あなたは想像できないであろうか。「私は公に養子とされる日を待ち望んでいる。その時私は平民の服を脱いで、元老としての地位にふさわしい服を着るであろう」と。彼は自分の受けたものを喜ぶ。そのゆえにこそ、自分に対する約束の成就を求めてうめくのである。
今日の私たちの場合も、これと同様である。私たちは自分にふさわしい服を着せられ、神の子どもであることが明らかにされるのを待つ。私は若い貴族であり、まだ冠をいただいていない。そして私たちの婚約者のゆえに、結婚の朝を嘆息しながら待ち望む。現在の幸福のゆえに、私たちはさらにうめくのである。私たちの喜びは、わき上がる泉のようであり、アイスランドの間欠泉のように、天に向かってほとばしり出ることを熱望し、公然と人々の前に自らを表す時を、嘆きもだえながら待っている。

 


『「あなたの神である主を試みてはならない」』

2014年06月23日 16時11分03秒 | 聖書

(マタイ4:7)

ある人が「神が今すぐに○○してくれたら、神を信じる」と祈った。
○○は答えられず、成らなかった。
しかし、その祈りは、○○をしてくれたら信じるが、そうでなければ信じないという、自分が従うのではなく、自分を神の上に置いた神を試す恐るべき高慢な態度だと気づかされた。
○○してくれたなら 神を信じる。
これは不信仰以外の何ものでもない。
神が自分の思い通りに動くかどうか、神を試そうとする態度だ。
しるしを求めることは、つまりは、御言葉だけでは疑わしいから、信じれないから、納得できるものが欲しいという事だ。
自分の不信仰を棚上げして、自分を納得させろとの要求だ。
自らの「不信仰」が問題なのだ。
人間はどうしても、自己中心なので、自分の願い通りに叶えられないと納得できない。
神を信じるというのは、神が自分の思い通りになるから信じるという事だ。
自分中心の心は、神がどんなに大きなみわざをして下さっても、自分の願い通りでないなら、決して納得する事はない。
自分の思いがすべてであり、自分の願い通りになる事が、神に愛されているという事だ。
だから神の愛がわからない。
他人ごとではない、自分自身の姿はどうだろう。
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もしかして自己中心な見方しかできていないのでは、とよく振り返ってみよう。
御霊に心探って頂こう。
それに気づいて行く時、初めて今まで見えなかった神が見えて来る。
自分への深い愛、奇跡のみわざが見えて来る。


今日の聖人の記念日

2014年06月23日 07時08分09秒 | キリスト教

聖エテルドレダ

630年-679年

 エテルドレダは、ノーサンブリアのアンナ王の王女として生まれた。15歳のとき結婚するが、夫に先立たれ、すぐ政略のために再婚させられた。しかし、かねてから彼女は修道生活をしたいという望みをもち続けていたので、夫婦生活もないまま、純潔を守りとおし、とうとう12年目に夫からも理解されて結婚が無効とされた。

 672年に、エテルドレダはエテエリ島に女子と男子の修道院を創立し、院長として2つの修道院を治めた。修道女となってからは貧しさに徹し、つつましい衣服を着け、病気のときを除いては、日に1度だけの食事をした。

 彼女が亡くなったとき、一時の虚栄心の償いのしるしとしてできたといわれる首の腫瘍が、没後16年たって、棺を開いたときにはすっかり治っていたと伝えられる。そのため、エテルドレダは、のどや首の病気で苦しむ人々の守護の聖人として知られ、イギリスでも有名な聖人として親しまれ、聖オードレーとも呼ばれている。


◆高ぶりと破滅

2014年06月23日 07時06分47秒 | 聖書

高ぶりは破滅に先立ち、
心の高慢は倒れに先立つ。     (箴言一六18)

人の高ぶりや高慢は手にとるように分かっても、自分の高ぶりや高慢は見えないものです。高ぶりや高慢は見えない、いいえ、見ようとしないところから来ます。自分の弱点や欠点を見ようとせず、強い点やすぐれている点だけを見て、自分はすぐれていると思います。他人のすぐれた点やうるわしい点は見えない、いいえ、見ようとしません。そして、他人の弱点や欠点ばかり見て、自分と比べるのです。これは、心の弱さ・狭さともいえましょう。そんな人は、仕事をして成功すると自分のせいだと思い、失敗すると他人のせいにします。これでは、部下も家族もつきあいきれません。
高慢な人や高ぶった人でも、しばらくはうまくいく時があります。上役にごまをすり、友人にもうまく立ちまわれば、あなたを実力者だなどと思いこんでくれるでしょう。しかし、世の中の多くの人は見抜いているし、神をごまかすことはできません。神の目の前に、高慢な人とは自分の墓穴を掘っている人と見えるに違いありません。「ごうまんと高ぶりは、私の性質だ。自尊心があるのだ」などと思ってはいけません。それは、あなたのすべてを知りながら、あなたを愛し、あなたを導こうとしている神を締め出し、拒否し、認めない罪なのです。このまま神に締め出されたら、人生は破滅ではないでしょうか。
ほんとうに聖書のあちらこちらに、神は高ぶる者を退け、へりくだる者を恵むと書いてあります。神の求めたもうものは、悔いたくだけた心だとも記されています。へりくだったくだけた心にだけ、人の愛の交わりの手はさし伸ばされ、神の愛と恵みが注がれるのです。ほんとうのへりくだりを真実に教え与えてくださるのは、神でありながら人となり、人のためにくだかれたまいしイエス・キリストです。

 


◆エフライムは生焼けのパン菓子となる。

2014年06月23日 07時05分49秒 | 聖書

(ホセア七・八)

「生焼けのパン菓子」は「裏返さないパン菓子」であって、片面しか料理されない。すなわち、エフライムは多くの点においての神の恵みを受けていなかった。いくらか服従はしていたが、かなり反抗する心が残っていた。
私のたましいよ。おまえに命じる。これがおまえ自身にとってはどうであるかを省みよ。すべてを神にゆだねているか。また恵みが自らの中心を貫き、おまえのすべての力、行動、ことば、思いのうちに神のご支配を感じているか。自分の霊もたましいもからだも、すべてきよめられることがおまえの目的であり、祈りでなければならない。そしておまえの聖潔は、あらゆる面において完全の域に達しないとしても、あたりまえのものでなければならない。この面には聖潔が現れているが、あの面では罪が勢力をもっているということであってはならない。もしそうなら、おまえもまた「生焼けのパン菓子」となるであろう。
裏返さないパン菓子は、火に最も近い部分がすぐにこげる。信仰がありすぎるという人はいないが、それでも自分の受けた真理の一面に固執してまっ黒にこげている人、パリサイ人的な、見せびらかしの宗教行為によってこげくさくなっている人々がいる。外見上の聖潔を誇る人には、生きた信仰が全くないことがある。人前の聖徒は陰での悪魔である。昼間まっ白な粉の中にいる人は、夜はまっ黒なすすの中にいる。一方がこげた菓子は、他の面はねり粉である。
主よ。もし私がこのようであるならば、裏返してください。私のきよめられていない性質をあなたの愛の火のほうに向けて聖なる熱を感じさせ、一方こげた側を少し冷やしてください。私があなたの天の炎から隔てられた時は弱くなり、熱を必要とすることを学ばせてください。二心の者となさず、あなたの恵みの強力な支配のもとにある者としてください。もし私が裏返さないパン菓子のようになり、両面にあなたの恵みを受けないなら、私はついには尽きない火で永遠に焼かれなければならないことを知っているからです。

 


第1サムエル記30章11-15節

2014年06月23日 07時04分16秒 | 聖書

30:15 ダビデは彼に言った。「その略奪隊のところに案内できるか。」彼は答えた。「私を殺さず、主人の手に私を渡さないと、神かけて私に誓ってください。そうすれば、あなたをあの略奪隊のところに案内いたしましょう。」



 ダビデが、アマレク人を追っていった時に、途中で一人のエジプト人を野原で見つけました。

倒れていて、ひもじい思いをしている人でした。

彼はアマレク人の奴隷であって、ダビデが住んでいた所を襲った人々の一員であったことを語ったのです。

また、何故彼がここにいたかというと、病気になったために、主人がここに置いていったというのです。

人々は彼に飲み物を与え、また食べ物を食べさせました。

そこで元気を取り戻した時に、ダビデは彼にアマレク人の所に案内できるかと尋ねました。

彼は、自分を元の主人に引き渡すようなことがなければ案内をすると答えました。

こうしてダビデは、荒れ野の旅で疲れが多く、探すのに無駄が多いと思われる所で、最も適した案内人に遭遇することが出来たのです。

まさに神様の導きがあったのです。


申命記13章18節(ローマ人への手紙 13章)

2014年06月23日 07時00分33秒 | 聖書

  ★  あなたは、必ずあなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、主が正しいと見られることを行わなければならない。

■O:今日のコラム

ヨハネの手紙 第一 には、
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」とあります。

主の命令を守ることは皆さんにとって苦痛でしょうか?
それとも喜びでしょうか?

ときに神様の命令を守ることは私たちにとって苦痛になるときもあります。

それでも神様はなぜ私たちに神様の命令である律法を与えたのでしょうか?

申命記5章33節にはこう書かれています。

「あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。」

神様は決して私たちから自由を奪い、いたずらに人生を制限している訳ではありません。

罪によって堕落した私たちが誤った選択をしないように、また神様から離れて迷ってしまうことがないように、私たちを守るために与えてくれた神様の愛の命令なのです。

神様は私たちがしあわせに生きることを願っておられます。
私たちが神様の願う生き方をすることが神を愛することにつながるのです。

そのためには、神様の命令である御言葉を深く味わい、よく知る必要があります。

御言葉は主の臨在の中で聖霊様により開かれていきます。

私たちの日々の祈りの生活の中で御言葉を黙想していきましょう。

神様の御心が少しずつ見えてくるでしょう。

■A:考えてみよう

神様を愛するとはどういうことでしょうか?
もう一度考えてみましょう。

■P:祈り

神様、あなたの命令を守ることがあなたを愛することだと言う事が解りました。

心と思いを尽くしてあなたを愛することができるように助けてください。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。


6月22日(日)のつぶやき

2014年06月23日 01時50分41秒 | キリスト教

ローマ人への手紙12章1-2節(申命記12章) goo.gl/BtSaAh


第1サムエル記30章7-10節 goo.gl/BgV5oN


「国権の最高機関」を攻撃/財界の策動? 変貌する経済・・・ goo.gl/gLRpZz


「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、 goo.gl/wZxG4r


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