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●派遣労働者の従事業務と雇用申込義務●

2013年01月08日 08時09分29秒 | 労働法

 労働者派遣という就労形態は、派遣先会社と派遣元会社との労働者派遣契約に基づいて、派遣元会社が雇用する労働者を派遣先で就労させるという、複雑な契約関係があります。そもそも労働者派遣は労働者派遣法の施行前は、職業安定法で禁止されている「労働者供給」に当たるものでしたが、高度な専門的業務に従事する人材を柔軟に活用するために、一定の業務に限定した厳格な要件の元で、特別に認められたものでした。
 その後、こうした高度の専門的な業務のほかにも、一時的、臨時的な人材ニーズにも対応できるよう、一定の業務を除いたあらゆる業務に労働者派遣が可能となりました。ただし専門業務以外の労働者派遣については、一時的、臨時的に対応することが建前であることから、派遣期間が限定されています。
 このように派遣労働については、派遣労働者がどのような業務に従事するのかは、極めて重要です。しかし実際の就労に当たっては、予定された業務だけを行うことが困難なこともあり、専門的な業務のほかに、専門的ではないが付随的な業務が必要とされる場合もあります。こうした専門業務とその他の業務の双方を行う場合には、派遣期間の限定の問題がでてきます。
 このような派遣期間の制限のない業務と派遣期間の制限のある業務が混在する場合には、制限のある業務が労働時間の1割を超える場合には、派遣期間に制限ある場合として扱われます。逆に言えば、専門外の業務が労働時間の1割以下であれば、派遣期間に制限のない専門業務として扱われることになります。
 もし専門外の業務が労働時間の1割を超える場合で、派遣期間が3年を超えるときには、派遣先会社は、その派遣労働者に対して直接雇用の申込み義務が生じることになります。特に改正派遣法では、すでに派遣期間が3年を超えた場合には、直接雇用の申込みをしたものとみなされることになりますから、業務ごとの労働時間は極めて重要な意味を持つことになります。

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申命記10章10-11節

2013年01月08日 08時07分29秒 | 聖書

10:10 「私は最初のときのように、四十日四十夜、山にとどまった。主はそのときも、私の願いを聞き入れ、主はあなたを滅ぼすことを思いとどまられた。」


イスラエルの民は特別な民でした。

それは多くの人々が誠の神様を知らなかった時に、彼らは天と地を造られた誠の神様を知ることができるようにされました。

その方がどのような御本質を持っておられ、また、その御心が何であるのかということを知らされた民でした。

このような恵みに預かったのは、彼らが他の民に比べて優れた民であるからではなく、ただ神様の憐れみに預かって、神様は彼らに対してのみ御自分のことを明らかにされ、その御心を告げてくださったからです。

それは全く、神様からの一方的な恵みでありました。

 このような恵みに預かったのですから、彼らは喜んでその神の御心に従うべきでした。

しかし彼らは、自分たちの内から指導者が見えなくなると、神と神の戒めを忘れ、偶像礼拝にすぐ陥ってしまいました。

こうした滅び行くべき民を救ったのは、モ-セの執り成しの祈りでした。

人は、執り成しがないと生きられないのです。

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◆叫ぶ声が聞こえない時

2013年01月08日 08時01分51秒 | 聖書

恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、
災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、
苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、
そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、
わたしは答えない。
わたしを捜し求めるが、
彼らはわたしを見つけることができない。(箴言一27―28)

きのうに続いて悲しいことばです。
第二次世界大戦前後に、「呼べば答えるめんこいぞ」という軍馬の歌がありました。「あなーた なーんだい 空は青空 二人は若い」なんて、流行歌もありました。呼べば答える。それこそ、愛の姿・幸福のしるしです。
神は聖書の中ではっきりと何回も、「わたしを呼び求めよ、そうすればわたしは答える」と約束していらっしゃいます。イエス・キリストも、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ七7)、こうおっしゃいました。これこそ、いま与えられている確かな福音です。
死と滅びの恐怖・災難・苦難がつむじ風のようにあなたを連れ去る時が来ます。それは、永遠の暗黒のかなたで「神さま、助けてください」と叫ぶ声も、もはや神の耳に聞こえない時なのです。この警告を、けっしてむなしくしてはいけません。今、罪を悔い改め、くだかれた魂となって「神さま」と呼び求めなさい。そうしたら、わたしはあなたに耳を傾け、あなたに手をさし伸べるのだと、神はおっしゃっているのではないでしょうか。
神は、心くだけた魂にいと近くいてくださいます。うめき声や小さな叫びにも、耳を傾けてくださる方です。
「わたしは、……心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(イザヤ五七15)。

 

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◆聖なるささげ物に関しての咎……。

2013年01月08日 08時00分06秒 | 聖書

(出エジプト二八・三八)

このみことばによって、どれほど驚くべき事実が暴露されたことだろう。この悲しい現実を見つめるなら、私たちは謙遜にされ、また、教訓を与えられる。
礼拝における罪、偽善、形式主義、不熱心、不敬虔。礼拝の時、私たちの心は迷い、神を忘れている。なんと多くの罪が存在することか。主のためになす私たちの働きのうちに、尊大さ、利己心、不注意、怠慢、不信仰などの驚くべき多くの汚れがある。私たちの個人的な礼拝にあっても、放縦、冷淡、怠慢、不活発、虚栄など、まるで泥が山のように積み重なっているようだ。これらのものをよく観察すると、見かけよりさらに悪いことがわかる。
ペイソン博士は、弟に送った手紙でこう述べている。「私の伝道地は、ちょうど私の心のように、まるで怠け者の庭だ。さらに悪いことは、その両者をきよめようとする私の思いが、高慢か、虚栄か、または怠惰から出ていることである。私はこの庭に繁茂した雑草を見て、それを取り除こうと熱烈に願っている。だが、なぜそう願うのか。動機は何であろうか。庭を散歩しながら、『うちの庭は、なんとまあ手入れが行きとどいているのだろう』とひとり言を言うためかもしれない。これは高慢である。あるいは、隣人が垣根越しにのぞいた時、『お宅の庭は立派ですね』と言ってもらいたいためかもしれない。これは虚栄である。または雑草取りに手がかかるから、根絶やしにしたいと思っているのかもしれない。これは怠惰である。私たちが聖潔を願う時すら、その思いは悪しき動機により汚されがちである。少し眺めていると、美しい緑の芝生の陰に毛虫が隠れていることがすぐにわかる。」
大祭司が聖なるささげ物に関しての罪を担った時、その額には「主への聖なるもの」と書いてあった。このことはなんと喜ぶべきことか。そのように、主イエスは、私たちの罪を担われる時、私たちの汚れを神の御前に提出されず、ご自身の聖潔をささげてくださるのである。ああ、信仰の目をもって、私たちの偉大な大祭司を見る恵みが与えられますように。

 

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