座間コミニティー

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民数記23章11-16節

2012年10月02日 07時36分37秒 | 聖書

23:12 バラムは答えて言った。「主が私の口に置かれること、それを私は忠実に語らなければなりません。」


バラムは、先のロバの経験から、誠に主が生きておられてすべてのことを知り、導いておられることを理解しました。

また、自分の心の内までも見抜いておられるお方であるということを知りました。

 そこで彼が覚えたことは、このようなお方が神であれば、自分のつとめは何かと言えば、それは自分が報酬を得たいために相手の人の思いにかなったようなことを告げることではない。

自分がどうなろうとも語るべきことは、この誠の神の語られたこと、それを告げる以外に自分のなすべきことはないと知らされたのです。

それは、彼に与えた主の指示に寄ったことでした。

そこでバラムがバラクに語ったことは、バラクがどのように自分を接待しようとも、自分が語るべきことはこの方が語られることであって、それを「忠実に」語ることが、自分に託された使命であると告げたのです。

主が遣わされた預言者も同じです。

主の御心のみが実現するのですから、彼らはその御言葉のみを語るのです。


民数記23章7-10節

2012年10月02日 07時34分20秒 | 聖書

23:8 「神がのろわない者を、私がどうしてのろえようか。主が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか。」


さて、主はこのバラムを通して、御心を告げてくださいました。

そのことが、ここに語られています。

バラムは語りました。

まず、神が呪わない者をどうして私が呪えようかと告げました。

神と自分とは、比較の全くできない存在です。

その権威といい、力といい、また清さといい、何も比較することができ得るものではないことを知るというのです。

従って、そのような方が呪うことをされない者に対して、どうしてこの私の方から呪うとことができ得ましょうかというのです。

呪うことは神の業であって、神が望まれないのに、人である自分ができようはずがないというのです。

 また、同じように、主が滅びを宣言されないような民に、どうして自分が滅びを宣言できるのかと語りました。

人の命を握り、民の歩みを支配しておられる方は主であられる。

そのお方が滅ぼすと言われないのに、なぜ自分が滅びを宣言する力があるのかというのです。


◆敵が倒れる時喜ぶな

2012年10月02日 07時30分08秒 | 聖書

あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。
彼がつまずくとき、
あなたは心から楽しんではならない。(箴言二四17)

きのうは、神を信じる人・神を喜び神に従う人は、「七ころび八起き」だというところでした。きょうは、「たとえ、人がつまずき倒れても、けっして喜んだり楽しんだりしてはならない」ということです。私たちの心のどこかに、やはり、そんな気持ちが巣くっているのではないでしょうか。ある高校生に、「高校時代に一番、心の友が得られるのではないのですか」と話しかけたら、「いいえ、とんでもない。ぼくたちはみんなライバルです」と答えました。
私たちも、自分の心を正直にふりかえってみると、夫婦でありながら、配偶者が自分より評判がよいと、それをねたんだり、子どもが自分よりほめられると、ひがんだりするようなところがないでしょうか。キリスト教の牧師でありながら、ほかの牧師が自分より人を集め、成功していると心が晴れない。友人の牧師が、なかなか教会に人を集められないでいると、心の奥底のどこかで優越感を感じる。そのことを楽しんでいる。――人の心というものは、したたかに自分勝手な罪深いものです。
私がつまずき倒れているのを心から悲しみ、憂い、私を救うためにいのちまで投げ出してくださった方がおられます。――その方こそ、私の主、私の救い主キリストであったのです。私がつまずき倒れたのは、九九・九九%まで自業自得というか、自分自身の罪のせいだったと思います。それにもかかわらずキリストは、私が倒れてもつまずいても、それを喜んだり楽しんだりするようなことは少しもされませんでした。私と共に、いいえ、私以上に悲しみ、私が知らない先に、私の罪の身代わりとして十字架にのぼってくださったのです。

 


◆あなたがたのために天にたくわえられてある望み……。

2012年10月02日 07時28分27秒 | 聖書

(コロサイ一・五)

私たちがキリストにあってもつ将来への希望は、地上における私たちの喜びの要因となり支柱となる。天国を思うことで、私たちの心には力があふれる。私たちの望み得るすべては、天国において約束されているからである。この地上で私たちはうみ疲れている。しかし、あの天国は安息の場所であり、働く者の汗が額に流れることはなく、決して疲れ果てることもない。
「安息」ということばは、天国を覚えさせる。常に私たちは戦場にあり、内には誘惑、外には敵がいる。そしてほとんど平安がない。しかし、天国で私たちは勝利を楽しむ。その時勝利の旗は高くひるがえり、剣はさやに収められ、将軍が「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言うのを聞く。私たちは死別に次ぐ死別の悲哀を味わっている。しかし、私たちは決して死ぬことのない国へ行こうとしている。そこでは墓は全く知られていない。この地上では、私たちは罪のために不断に苦しんでいるが、あの国では、私たちは完全に聖なるものとされる。なぜなら、汚れたものは決してその国へ入ることができないからである。
天国にある畑には毒草は生じない。おお、あなたがたが永遠の流刑にされず、また、永遠にこの荒野に住むことを余儀なくされるのでもなく、まもなく約束の地カナンを受け継ごうとしているとは、なんという喜びであろうか。しかし、将来を夢見て、現在をなおざりにしているとの非難を、決して受けることのないようにしようではないか。将来が現在を聖化し、かつ最も有用なものとするようにしたい。
聖霊の働きによって、天国の希望は徳性を作る最も有力な要素となる。それは喜びに満ちた努力の泉であり、楽しい聖潔の礎石である。この希望をもつ人は、その働きも活発になる。それは主を喜ぶことがその人の力となっているからである。彼は熱烈に誘惑と戦う。そして来世の希望が敵の放つ火矢を撃退するのである。彼は現在の報いをあてにしないで働く。なぜなら、来るべき世に報いを期待しているからである。