座間コミニティー

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レビ記20章22-26節

2012年07月09日 16時10分31秒 | 聖書

20:22 「あなたがたが、わたしのすべてのおきてと、すべての定めとを守り、これを行なうなら、わたしがあなたがたを住まわせようと導き入れるその地は、あなたがたを吐き出さない。」
  律法というのは、イエス様がおいで下さったことによって、祭りに関する戒めや裁きに関する戒めは、その目的を達しましたので、今は、廃棄されました。
しかし、倫理的な戒めである主の十戒は、神様の変わらない御心を示しているものとして、変わらずに効力を持っています。
このレビ記の律法というのは、この十戒に含まれている戒めの詳細が、どのようなことであるのかを解説しているのです。
ですから、この説明を意味がないといって、放棄をすることは出来ないのです。
 旧約聖書に記されていることは、イエス様によって救いに預かった者達が、この地上でどう生きるのかということの指針なのです。
そこに、旧約聖書における戒めを学ぶ意義があります。
この時代の人々の考えに習って自由に生きるのではなく、主の御心を大事にして生きることに、私たちの心の目を向けさせてくれるのです。


◆冷静な心の祝福  Ⅱ

2012年07月09日 16時03分14秒 | 聖書


自分のことばを控える者は知識に富む者。
心の冷静な人は英知のある者。    (箴言一七27)

「沈黙は愚者の知恵」と、何を聞かれても自分のしたことは言わず、そのほかのことはぺらぺらとしゃべっていた元防衛庁長官の政治家がいました。
こういう人はどうかと思います。しかしその場の感情からすぐに結論や判断を出さず、冷静な心で物事を判断できる人は、人生の成功者です。自分の好ききらいや目の前の損得勘定によって、いらいらした心でたちまち最後のことばを言ってしまう人がいます。私たちすべてに、そういう危険な傾向があります。
パウロは、こう言っています。「私にとって、あなたがたの批判や、人の毀誉褒貶のことばは、非常に小さなことです。自分で自分をさばいてきめつけることすら、私はしません。私にやましいことは一つもないと考えても、そのことが私を潔白だ、正しい、無罪だということにはしません。私をさばく方は神です」(Ⅰコリント四3―4参照)。
いらいらした自分にとらわれた心では、正しい判断はできません。役に立たない間違った判断をして、人間関係を損ね、事を壊してしまいます。冷静な心は、じっくりとほんとうの価値・目標・役立つことを見極めます。人の心の真の姿・必要・要求が分かるのです。カエサルは、気がいらだつ時には、アルファベットを初めから終わりまで何回も口ずさんだといいます。それも、一時的には役立ちましょう。深呼吸一つでもいいのです。しかし、根本は何なのでしょうか。
キリストは「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。……あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ヨハネ一四27)と言われました。神を心に宿して、初めて正しい見通しが持てるし、忍耐もできるのです。その心から、愛・信頼・期待・希望がわいてくるのです。

 


◆主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

2012年07月09日 16時02分01秒 | 聖書

(詩篇一〇三・二)

昔の聖徒たちの生涯の中に神の御手の働きを見、彼らを救い出された神の慈愛と、彼らを赦された神のあわれみと、彼らとの契約を守られた神の忠実さを考えることは、喜ばしくまた有益なことである。しかし私たち自身の生活の中での神の御手の働きに注目することは、さらに興味深く、さらに有益なことではないだろうか。私たちは自らを顧みる時、昔の聖徒のように、神とその慈愛、真理に満たされている過去を発見し、そこに神の忠実さと真実の証拠を見いださないであろうか。
神は昔、大いなるわざをなしてその力を示されたが、現在、この地上にいる私たちに対しては、不思議をなされることも、力を現されることもないと考えるのは誤っている。私たち自身の生活を見てみようではないか。必ずや私たちを力づけ、神の栄光をたたえさせる幸いな出来事を発見するであろう。
あなたは一度も救い出されたことがなかったか。神のご臨在に支えられて川を渡ったことはなかったか。あなたは神の顕現に接したことはなかったか。また特別の恵みに浴したことはなかったか。ソロモンには求めるままに与えられた神が、あなたには耳を傾けず、求めに答えられなかったことがあったか。ダビデをして、「あなたの一生を良いもので満たされる」と歌わしめた、惜しみなく与えられる恵み深い神が、脂肪であなたを飽かせられなかったことがあるか。かつてあなたは緑の牧場に伏させられたことが一度もなかったのか。いこいの水のほとりに伴われたことがなかったのか。
たしかに神は私たちに、昔の聖徒たちに注がれたと同じ慈愛を注いでおられる。それゆえ、神のあわれみを歌に歌おうではないか。感謝の純金と賛美の宝石とをもってイエスの頭にささげる王冠を作ろうではないか。私たちのたましいに、ダビデの琴から出るような妙なる音楽を奏でさせ、永遠に変わることのない主の恵みをたたえようではないか。