座間コミニティー

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レビ記20章6-9節

2012年07月04日 09時05分10秒 | 聖書

20:6 「霊媒や口寄せのところにおもむき、彼らを慕って淫行を行なう者があれば、わたしはその者から顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。」
  断罪されているのは、霊媒や口寄せのことです。
霊媒というのは、超自然的な存在と人とが直接に連絡が取れると考えて、語りかけを行うことです。
又、口寄せというのは、霊を自分の内に下らせて、その霊によって、亡くなった人の意志を告げようとしたりする行為のことです。
昔から人が亡くなった時に、残された人は、死んだ人との交流を求めて、霊媒や口寄せが出来ると称する人々の所にいったのです。
主は、こうした行為をする人の所に行くことを厳しく禁じています。
こうした行為により頼む人を、主は拒んでおられるのです。
 何故かと言いますと、人が携わることが出来る世界は、この世のことのみであって、死んだ人の後の世界のことは、神の側に属することであるからです。
従って、その世界に寄り頼んでいこうとする事は、それが不可能であるのみか、主の御支配を無視する行為であるのです。
これは、今でも同じです。
神の前における、罪の姿勢です。


◆悟  り  は  宝

2012年07月04日 08時58分00秒 | 聖書

悟りのある者を一度責めることは、
愚かな者を百度むち打つよりもききめがある。(箴言一七10)

「悟りのある者」とは、けっして頭のいい利口者ということではありません。
アウグスティヌスは、一流の少壮学者として修辞学では令名をはせていました。しかし当時の風潮のまま、ある女性と道ならぬ関係を続けていたのです。ところがある日、イチジクの木の下でふと聖書を手にして、ローマ人への手紙一三章から読みました。「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか」(12―13節)。ひとことが、ぐさっと深く魂の底まで届き、彼は神の前に悔い改めて、まわれ右をして神に従いました。その日から、アウグスティヌスは新しい人になりました。
神のことばは、失敗を通して語りかけることも、友やいろいろの事件を通して語りかけることもあります。それに対して柔らかい心を持つ人こそ、悟りある人ではないでしょうか。大分前のこと、私の職場である老牧師が、愛に満ち、しかも私たちの心を探る鋭いメッセージをしてくださいました。その聖書のことばの語りかけに対して、私たちはみな、涙にくれながら神のみ前にひれ伏し、悔い改めて祈りました。ところが、中に一人だけ、平気な人、いいえ、私たちを見て嘲笑っていた人がいました。しばらくして、その人は大きな罪を犯していたことが明るみに出て、職場を去らなければなりませんでした。利口な人でした。しかし、心のからが硬く、神のことばも人のことばも、その人の心の奥底まで届かなかったのです。
心が柔らかくて、神の叱責も人の叱責も心の底で受け止めて悔い改める人は、それゆえ、愛に成長する人です。そんな悟りのある人となりたいと思います。

 


◆真理によって彼らを聖め別ってください。

2012年07月04日 08時56分39秒 | 聖書

(ヨハネ一七・一七)

聖潔は新生に始まる。神の御霊は人のうちに新しい生活の原則を注ぎ込み、それにより彼は、キリスト・イエスにあって「新しく造られた者」となる。新生に始まるこの聖潔の働きは、二つの方法によってなされる。――一つは克己であり、肉の欲を制してこれを従わせること。他の一つは霊的生命の付与である。つまり、神が私たちのうちに置かれたいのちが泉となってわきいで、永遠のいのちにまで至る。これは、日々神の「永遠の保証」によって行われ、これによりクリスチャンは恵みの状態に保たれ、神を賛美し、神の栄光を現す良いわざに富む者とされる。さらにこれは「栄光」の中にあって絶頂に達し、完成されるのである。全く聖められたたましいは、その時いと高くいます大能者の右に、聖なる方とともに住むために上げられる。
このように神の御霊は聖潔の導き手であられるのだが、そこには目に見える仲保者が必要であることを忘れてはならない。イエスは、「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です」と言われた。私たちを聖める手段が神のみことばであることを証しする聖句はきわめて多い。聖霊は私たちの心に真理の教えをもたらし、力強く迫られる。それを私たちは耳で聞き、心に受け入れる。そしてそれは私たちのうちに神のお喜びになることをしようとする思いを起こし、かつ実行にまで至らせる。真理は聖めるものである。しかし、もし私たちが真理に目や耳を貸さないならば、聖潔における成長は見られないであろう。私たちがこのことを深く悟ってこそ、生活においても進歩が可能になるのである。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」との聖句について「そんな意見もあるのだ」というような誤った考えを抱いてはならない。判断が誤っているならば、行為もいつしか誤ったものとなる。真理を堅く保て。真理を堅く保つことによってこそ、あなたは神の御霊によって聖められるのである。