「問題は,わが連邦憲法の下で,本件で採用されたごとき強制が,その目的達成のために許容された手段であるか否かである…。少数意見を強制的に排除しようとする人たちは,やがてすぐ彼ら自身が少数者を皆殺しにしようとしていることに気づくであろう。意見の強制的な画一化はたんに墓場の一致を達成するにすぎない。…憲法修正第1条はそうした事態が始まるのを避けることによってそうした帰結を回避するために考案されものだと述べることは,陳腐ではあるが必要であるように思われる。国家もしくはその権力の性質ないし起源についてのアメリカ的観念にはいかなる神秘主義も存在しない。われわれは被治者の同意によって政府を設立したのであり,権利章典(連邦憲法の最初の修正10か条)は,権力をもつ人々がその同意を強制するいかなる法的な機会を持つことも認めていない。公権力は世論による統制を受けるべきものであって,世論が公権力によって統制されてはならないのである。…もし,わが憲法の星座に不動の星があるとするならば,それは,地位の高低にかかわらず,公権力は,政治やナショナリズム,宗教やその他意見が関わる事項について何が正統であるかを述べ,あるいは市民に対し,言葉や行動によってその信条の告白を強制することができない,ということである。当法廷は,国旗への敬礼と忠誠を強制する州当局の行為は,その権限に課せられた憲法上の限界を超えるものであって,憲法修正第1条の目的であり,あらゆる権力的統制から守られるべき知性と精神の領域を侵害するものである」(ウエスト・バージニア州 vs エホバの証人事件ジャクソン裁判官意見。ジャクソン裁判官は同事件で法廷意見を書いた。参照元は【「日の丸・君が代」と「内心の自由」】新日本出版)。これは1943年,すなわち,ガダルカナル攻防戦などが行われていたときに出された判決である。国をあげた戦時でさえ,このような判決を出せる国もあるのに…。
上記著作によると,この判決の趣旨は,同じ1943年の「国旗への敬礼,表敬,尊重を拒否する知アドを作り出す傾向がある文書・図画等により合衆国及び州政府に対する暴力,サボタージュ,不忠誠を企図した者の処罰を規定したミシシッピー州法違反による有罪判決を破棄したテイラー事件でも,同様に踏まえられている」という。
さらに,上記著作は,この判決について,「第2次大戦中にもかかわらず,思想の自由を理由に国旗への敬礼の強制を退けたものであり,自由と民主主義を擁護した判決として高く評価され,今日でも確立した判例法理として維持されている」という。
日本もようやく60年以上前の米国並みの判決が出るようになったっていうこと。これが高裁で覆されるようなことがあったら,日本は60年以上前の米国以下のレベルってことだ。
米国のそのほかの判決や諸外国での国旗国歌の取扱いについては,News for the people in Japan(←クリック)の資料欄の「国旗掲揚、国歌斉唱に関する諸外国の判例・事例」をご参照下さい。
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上記著作によると,この判決の趣旨は,同じ1943年の「国旗への敬礼,表敬,尊重を拒否する知アドを作り出す傾向がある文書・図画等により合衆国及び州政府に対する暴力,サボタージュ,不忠誠を企図した者の処罰を規定したミシシッピー州法違反による有罪判決を破棄したテイラー事件でも,同様に踏まえられている」という。
さらに,上記著作は,この判決について,「第2次大戦中にもかかわらず,思想の自由を理由に国旗への敬礼の強制を退けたものであり,自由と民主主義を擁護した判決として高く評価され,今日でも確立した判例法理として維持されている」という。
日本もようやく60年以上前の米国並みの判決が出るようになったっていうこと。これが高裁で覆されるようなことがあったら,日本は60年以上前の米国以下のレベルってことだ。
米国のそのほかの判決や諸外国での国旗国歌の取扱いについては,News for the people in Japan(←クリック)の資料欄の「国旗掲揚、国歌斉唱に関する諸外国の判例・事例」をご参照下さい。
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「ハイル・ヒットラー!」と言うか「天皇陛下万歳!」と言うか...。
でも、平成天皇は「強制でない事が好ましい」と明言したけど。
まぁ、どこまで「公共性」を提示しえるのか?という問題も含めて、議論する余地はあるとは思いますけどね。
せっかくなので、自由論の名著であるミルの「自由論」でも記事にしてTBしてみます
ちなみに、ヤメ氏。このコメント投稿で名前、URLが保存されないのは、デフォルトなのでしょうか?自分が悪いのですが、でいれば、残るようにしてもらえると、助かります。よろしくご検討ください(=゜ω゜)
リベラルというのはいい意味でも悪い意味でも自由なわけです。銃社会アメリカの自由というのは、自決権を大きく認める自由なわけです。歴史的自己保存の慣習なども精査して考えるべきなのでしょうが、「自分の自由のためには、なんでもする」的リベラリズムがあるんだと思います。ちなみに、スイスはアメリカ以上に銃社会なのですが、殺傷事件などはほとんど起らないのですけど、ここらも社会学的に自由主義の解釈の差異を考えるのもいいことだと思います。
ちなみに極論してみますが、アメリカには真性のリベラリストはマッカーシズム時代とその前の人民党の時代に消滅したと思っています。あぁ、その前に指摘起きますが、アメリカは国内治安事情などで不安要素を抱える監視社会なわけです。そういう部分で考えるといいかもしれません。ちなみに、日本は地方では地域組合の監視体制だったりしますけど、不便なようで便利だと感じますけどね
駄文失礼しました。ちなみに、プログ内にJSミルの「自由論」を話題にしてまして、自由の射程論などを踏まえて記事にしております。記事はさておき、名著なので参考になされると、「リベラリズムとかは?」という問題に多少ながら、琴線を触れることができるとは思います。日本で尊敬できるリベラリストは、五百旗頭真(いおさべ まこと)さんですね。
”良心的兵役拒否”については現状ではOECD諸国では日本、フランスの外国人部隊のみらしいです。
この記事をあんまり見てない人多いのがちょっと寂しいですが、まぁ、想定内といえば想定内になりますでしょうね。(*´ェ`*)
二極化も原因のように思います。戦争に行くのは貧乏人,金持ちは儲けるだけ…。これでは,戦争もただのゲームになりますから…。
あちらのコメント欄が自宅でないと確認出来ませんので、国旗・国歌関係については後に改めてコメントさせていただくことに致します。
アメリカのケーブルテレビについては、それもまた必要なのではないかと思います。
批判というフィルターを通さなければ、それだけ事実に近い情報を得る事が出来ます。
もちろん、『映す・映さない、流す・流さない』といった取捨選択が行われているであろう事は意識しなければなりませんが。
事実に対する批判は必要でしょうが、それはまず各個人が事実を確認した上で『それについて専門家はどのように見ているのだろう?』と調べる方がよいのではないでしょうか?
少なくとも『世論はマスコミが作る』と揶揄されるような状況よりもはるかに民主的ではないかと思うのですが。
それに「批判」といっても必ずしも「否定」することではありません。
メディアの役割は、個人では知りえない情報を提供すること。一定の価値判断無しには成り立たないと思います。