尖閣諸島問題について、中国の市民からどう映りうるかについて書いたところ、論点が落ちているとの指摘をいただいた。そこで、日本領有の根拠とされる①感謝状の存在と②第二次大戦後(1945年)から1970年までの中国側の抗議の存否についてのみ、補足しておきます。
まず、①については、【1920年(大正9年):中華民国駐長崎領事・馮冕より魚釣島に漂着した遭難者(福建省恵安の漁民)の救護に対し、当時の石垣村長・豊川善佐、石垣村衛生係雇・富田孫伴こと玉代勢孫伴(たまよせそんばん)、尖閣諸島を開拓した古賀辰四郎の子息の古賀善次らに感謝状が贈られる。 それには尖閣諸島の事を「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記されていた】というもの(wiki)。
中華民国が魚釣島を日本の領土として認めていた根拠とされる。
しかし、当時の「中華民国」はどのようなものだったのか?
【袁世凱死後の政局(1916年~1920年)
袁の死後、北京政府の実権を掌握したのは国務総理となった段祺瑞であった。段は当初国会[6]の国民党議員などと提携し、調整的な政策をとっていた。しかし、第一次世界戦に対独参戦しようとしたため徐々に国会と対立した。段は日本の援助の下に強硬な政策を断行した。1917年8月14日第一次世界大戦に対独参戦。軍備を拡張して国内の統一を進めた。また鉄道や通信などの業界を背景とする利権集団が段を支えた。1918年には国会議員改定選挙を強行した。国民党はこれに激しく対立し、南方の地方軍とともに孫文を首班とする広東軍政府をつくった。5月には日本と日中軍事協定[7]を結んだ。寺内正毅内閣失脚後に日本の外交方針が転回すると、段は急速に没落した。段の安徽派と対立関係にあった直隷派の馮国璋は徐世昌を大総統に推薦し、段もこれを受け入れた。親日的な安徽派は徐々に影響力を失っていった。1919年5月4日、山東半島での主権回復と反日を訴えるデモ行進が始まった。これを五・四運動という。なお山東半島は1922年に返還された。1920年7月の安直戦争で直隷派に敗れたことで段は失脚した。】(wiki)
当時、中国は、欧州各国と日本に領土の割譲を余儀なくされ、さらなる侵略にいかに耐え、国内統一を図るかで国内が対立している状態であり、感謝状を贈った1920年5月の「中華民国」は、日本との間で軍事協定を締結した親日派の段祺瑞が率いる安徽派が運営していた。
したがって、この感謝状は、中国が統一政府と言えるものが存在していない混乱の中、日本を頼りに危機を乗り越えようとした政権(中国の全土でなく一部を支配していたのみ)が発行したものであり、それを根拠にされても、中国の市民としては納得いかないだろう。
現に、同じ1920年の7月、つまり、感謝状を発行した2ヶ月後には、安直戦争によって、親日派の段祺瑞は失脚し、安徽派の主要メンバーの徐樹錚は、なんと日本に亡命しているのだ。
あなたが中国の市民だった場合、親日的な地方政権が発行した感謝状に領土問題を決する効果があると考えることができるでしょうか?
参考【1911年の辛亥革命を契機として翌1912年に中華民国が成立(直後に清朝は消滅)した。なお、中華民国は東アジア初の共和国である。
しかし、その後も日本やイギリス、フランスやドイツなどの列強による中国大陸の局地的な支配が続いた他、軍閥による群雄割拠が続いた上に、統一国家の体をなさない混乱状態がしばらく続いた。】(wiki)
次に②については、そもそも、日本は、1945年の敗戦時に、【日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ】ということが記載されたポツダム宣言を受諾している。
つまり、米国、英国、中国(中華民国政府。共産党勢力とは対日抗戦のため休戦中。それゆえ、正統性は高い)の3国に、本州、北海道、九州、四国以外の領土をゆだねたわけだ。
ここで日本は本州、北海島、九州、四国以外の領土については自ら領有権の主張を放棄したとみることもできる。
そして、日本が主権回復を果たしたサンフランシスコ条約(1951年署名)においては、
【日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする】(3条)とされている(冒頭画像 http://www.chukai.ne.jp/~masago/sanfran.html)。
ちょっとややこしい内容だが、簡単に言うと、米国が国連に沖縄を信託統治とすることを提案するまでは、沖縄の施政権を米国が行使するというものだ。
信託統治とは、独立を果たしていない地域を国連から委託を受けた国が統治するというものであり、将来的には、独立が予定されるというものだ。
そもそも、沖縄は、連合国の間では、信託統治(つまり、将来、沖縄国として独立することが予定されているもの)となる予定であった。そうなれば、沖縄は独立国となり、当然、尖閣諸島も日本の領土ではなくなっていたはずであった(この信託統治案に中国がどのような姿勢であったかは未調査です)。
ところが、米国が東西冷戦(米国対ソ連+中華人民共和国)の激化で、沖縄をそのまま基地として利用したかったため、攻撃的な軍隊を置くことができない信託統治とすることをよしとせず、建前として信託統治とする可能性を残しつつも、米国が信託統治を国連に提案するまでは、信託統治とせず、米国が施政権を行使することを認めるというものであった。
つまり、形式的には、信託統治の可能性を残したものだが、実際には、米国は、沖縄を自国の東アジアにおける拠点として使うことを世界的に認めさせた形になる。
これに対し、ソ連や中国は反発し、サンフランシスコ条約には参加せず(中国については、代表政権についての米英の意見が一致しなかったのが直接の原因)、中華人民共和国政府はサンフランシスコ平和条約を強く批判した。
周恩来外相は、
【アメリカ政府がサンフランシスコ会議において調印を強制した、中華人民共祁国の参加しない対日単独平和条約は、全面講和条約でないばかりか、まったく真の平和条約でもない。これは日本の軍国主義を復活させ、中ソを敵視し、アジアを威嚇し、新しい侵略戦争を準備する条約に他ならない。中華人民共和国中央人民政府はここに再び声明する。サンフランシスコ対日平和条約は、中華人民共和国の参加なくして準備され、起草され、調印されたものであるゆえに、中央人民政府はこれを不法・無効と考える。したがって絶対に承認することはできない】(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2001/010525.html)
との声明を発表している。
つまり、日本の領土の範囲についても認めていないということになる。
さらに、1953年には、人民日報は、米国の沖縄(尖閣諸島を含む)に対する支配を批判する記事を掲載している(http://www.peacehall.com/news/gb/pubvp/2005/04/200504162322.shtml)。
この記事は、尖閣諸島を沖縄の一部という書き方をしているが、そもそも沖縄の米国支配そのものを批判するために書かれたものであり、尖閣諸島が日本に帰属することを認めたものではない。
むしろ、尖閣諸島の帰属を認めないものということもできる。
………このように、立場を変えてみれば、日本の領有の根拠は、大して説得力のないものになってしまう。
10月2日、日本では1500人(主催者発表)が参加して、尖閣諸島は日本の領有だとするデモが行われたという。
1945年当時、10才以上だった中国の市民(現在75歳以上)は、日本軍による侵略を直接体験し、記憶しているはずだ。
その人たちがいま何人くらい生存しているでしょうか。
中国の推計では、2010年に3000万人近く生存しているようだ(http://geo.cersp.com/sJxzy/sc/200706/2658.html)。
3000万人が日本の侵略の痛みを覚えている国に対して、なぜ、傲慢な態度をとることができるのだろうか…。
小平副首相は、1978年の来日時、次のように語ったという。
【尖閣列島は、われわれは釣魚島という。名前、呼び方がちがうのだから、たしかにこの点については双方に食い違った見方がある。こういう問題は一時タナ上げしてかまわない(この部分の中国語は「這様的問題放一下不要緊、等十年也没有関係」。直訳すれば「こういう問題は放っておいていい、十年経とうがかまわない」)。われわれのこの話合いはまとまらないが、次の世代はわれわれよりもっと智慧があろう】(http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-1322.html)
次の世代である我々は、傲慢さではなく、互譲による解決をするべきではないだろうか。
日本にすれば、戦後間もなくは、尖閣諸島を含む沖縄全体が独立していたかもしれない情勢だったのだから…。
【ツイッターアカウント】yamebun
●沖縄への連帯ツイッターキャンぺーン●
【ツイッターアカウント】@BarackObama
【メール】→http://www.whitehouse.gov/contactから
【ツイッター例文】
JAPAN IS NOT US'S COLONY! We won't support US BASE. All US BASE OUT! from our country.
Please HELP Okinawa. 75% of the American bases in JP is in the islands, only 0.6% of JP land. Relocate #Futenma base outside.
Marine in Futenma must go back to your country. There is no place where the base of Marine is acceptable in Japan.
Okinawa and a lot of Japanese oppose the transfer of the Futenma base to Henoko
At least180 MPs of ruling parties say NO to Futenma relocation within Okinawa. Check this http://bit.ly/9jQIW8
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★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて:Gilbert's Nuremberg Diary)
★「News for the People in Japanを広めることこそ日本の民主化実現への有効な手段だ(笑)」(ヤメ蚊)
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まず、①については、【1920年(大正9年):中華民国駐長崎領事・馮冕より魚釣島に漂着した遭難者(福建省恵安の漁民)の救護に対し、当時の石垣村長・豊川善佐、石垣村衛生係雇・富田孫伴こと玉代勢孫伴(たまよせそんばん)、尖閣諸島を開拓した古賀辰四郎の子息の古賀善次らに感謝状が贈られる。 それには尖閣諸島の事を「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記されていた】というもの(wiki)。
中華民国が魚釣島を日本の領土として認めていた根拠とされる。
しかし、当時の「中華民国」はどのようなものだったのか?
【袁世凱死後の政局(1916年~1920年)
袁の死後、北京政府の実権を掌握したのは国務総理となった段祺瑞であった。段は当初国会[6]の国民党議員などと提携し、調整的な政策をとっていた。しかし、第一次世界戦に対独参戦しようとしたため徐々に国会と対立した。段は日本の援助の下に強硬な政策を断行した。1917年8月14日第一次世界大戦に対独参戦。軍備を拡張して国内の統一を進めた。また鉄道や通信などの業界を背景とする利権集団が段を支えた。1918年には国会議員改定選挙を強行した。国民党はこれに激しく対立し、南方の地方軍とともに孫文を首班とする広東軍政府をつくった。5月には日本と日中軍事協定[7]を結んだ。寺内正毅内閣失脚後に日本の外交方針が転回すると、段は急速に没落した。段の安徽派と対立関係にあった直隷派の馮国璋は徐世昌を大総統に推薦し、段もこれを受け入れた。親日的な安徽派は徐々に影響力を失っていった。1919年5月4日、山東半島での主権回復と反日を訴えるデモ行進が始まった。これを五・四運動という。なお山東半島は1922年に返還された。1920年7月の安直戦争で直隷派に敗れたことで段は失脚した。】(wiki)
当時、中国は、欧州各国と日本に領土の割譲を余儀なくされ、さらなる侵略にいかに耐え、国内統一を図るかで国内が対立している状態であり、感謝状を贈った1920年5月の「中華民国」は、日本との間で軍事協定を締結した親日派の段祺瑞が率いる安徽派が運営していた。
したがって、この感謝状は、中国が統一政府と言えるものが存在していない混乱の中、日本を頼りに危機を乗り越えようとした政権(中国の全土でなく一部を支配していたのみ)が発行したものであり、それを根拠にされても、中国の市民としては納得いかないだろう。
現に、同じ1920年の7月、つまり、感謝状を発行した2ヶ月後には、安直戦争によって、親日派の段祺瑞は失脚し、安徽派の主要メンバーの徐樹錚は、なんと日本に亡命しているのだ。
あなたが中国の市民だった場合、親日的な地方政権が発行した感謝状に領土問題を決する効果があると考えることができるでしょうか?
参考【1911年の辛亥革命を契機として翌1912年に中華民国が成立(直後に清朝は消滅)した。なお、中華民国は東アジア初の共和国である。
しかし、その後も日本やイギリス、フランスやドイツなどの列強による中国大陸の局地的な支配が続いた他、軍閥による群雄割拠が続いた上に、統一国家の体をなさない混乱状態がしばらく続いた。】(wiki)
次に②については、そもそも、日本は、1945年の敗戦時に、【日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ】ということが記載されたポツダム宣言を受諾している。
つまり、米国、英国、中国(中華民国政府。共産党勢力とは対日抗戦のため休戦中。それゆえ、正統性は高い)の3国に、本州、北海道、九州、四国以外の領土をゆだねたわけだ。
ここで日本は本州、北海島、九州、四国以外の領土については自ら領有権の主張を放棄したとみることもできる。
そして、日本が主権回復を果たしたサンフランシスコ条約(1951年署名)においては、
【日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする】(3条)とされている(冒頭画像 http://www.chukai.ne.jp/~masago/sanfran.html)。
ちょっとややこしい内容だが、簡単に言うと、米国が国連に沖縄を信託統治とすることを提案するまでは、沖縄の施政権を米国が行使するというものだ。
信託統治とは、独立を果たしていない地域を国連から委託を受けた国が統治するというものであり、将来的には、独立が予定されるというものだ。
そもそも、沖縄は、連合国の間では、信託統治(つまり、将来、沖縄国として独立することが予定されているもの)となる予定であった。そうなれば、沖縄は独立国となり、当然、尖閣諸島も日本の領土ではなくなっていたはずであった(この信託統治案に中国がどのような姿勢であったかは未調査です)。
ところが、米国が東西冷戦(米国対ソ連+中華人民共和国)の激化で、沖縄をそのまま基地として利用したかったため、攻撃的な軍隊を置くことができない信託統治とすることをよしとせず、建前として信託統治とする可能性を残しつつも、米国が信託統治を国連に提案するまでは、信託統治とせず、米国が施政権を行使することを認めるというものであった。
つまり、形式的には、信託統治の可能性を残したものだが、実際には、米国は、沖縄を自国の東アジアにおける拠点として使うことを世界的に認めさせた形になる。
これに対し、ソ連や中国は反発し、サンフランシスコ条約には参加せず(中国については、代表政権についての米英の意見が一致しなかったのが直接の原因)、中華人民共和国政府はサンフランシスコ平和条約を強く批判した。
周恩来外相は、
【アメリカ政府がサンフランシスコ会議において調印を強制した、中華人民共祁国の参加しない対日単独平和条約は、全面講和条約でないばかりか、まったく真の平和条約でもない。これは日本の軍国主義を復活させ、中ソを敵視し、アジアを威嚇し、新しい侵略戦争を準備する条約に他ならない。中華人民共和国中央人民政府はここに再び声明する。サンフランシスコ対日平和条約は、中華人民共和国の参加なくして準備され、起草され、調印されたものであるゆえに、中央人民政府はこれを不法・無効と考える。したがって絶対に承認することはできない】(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2001/010525.html)
との声明を発表している。
つまり、日本の領土の範囲についても認めていないということになる。
さらに、1953年には、人民日報は、米国の沖縄(尖閣諸島を含む)に対する支配を批判する記事を掲載している(http://www.peacehall.com/news/gb/pubvp/2005/04/200504162322.shtml)。
この記事は、尖閣諸島を沖縄の一部という書き方をしているが、そもそも沖縄の米国支配そのものを批判するために書かれたものであり、尖閣諸島が日本に帰属することを認めたものではない。
むしろ、尖閣諸島の帰属を認めないものということもできる。
………このように、立場を変えてみれば、日本の領有の根拠は、大して説得力のないものになってしまう。
10月2日、日本では1500人(主催者発表)が参加して、尖閣諸島は日本の領有だとするデモが行われたという。
1945年当時、10才以上だった中国の市民(現在75歳以上)は、日本軍による侵略を直接体験し、記憶しているはずだ。
その人たちがいま何人くらい生存しているでしょうか。
中国の推計では、2010年に3000万人近く生存しているようだ(http://geo.cersp.com/sJxzy/sc/200706/2658.html)。
3000万人が日本の侵略の痛みを覚えている国に対して、なぜ、傲慢な態度をとることができるのだろうか…。
小平副首相は、1978年の来日時、次のように語ったという。
【尖閣列島は、われわれは釣魚島という。名前、呼び方がちがうのだから、たしかにこの点については双方に食い違った見方がある。こういう問題は一時タナ上げしてかまわない(この部分の中国語は「這様的問題放一下不要緊、等十年也没有関係」。直訳すれば「こういう問題は放っておいていい、十年経とうがかまわない」)。われわれのこの話合いはまとまらないが、次の世代はわれわれよりもっと智慧があろう】(http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-1322.html)
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