今回から始めました「わが地元」シリーズ。「ああ、とうとう格闘技のほうでネタ切れ起こしやがったか」という批判もあるとおもいますが(;^ω^)、もともと弊ページの話題は「武道&格闘技・野球・弊社・地元山口県」の4つしかありませんので、その一環ということでご寛恕頂ければ幸いでございます。
種田山頭火(明治15(1882)~昭和15(1940)・山口県防府市出身)といえば、国語の教科書や副読本にも出てくる、自由律俳句の立役者でありますが、ご存じのとおり、私生活で不幸が打ち続いたことから酒浸りの暮らしを送り、晩年は句作を武器に、あちこちのパトロンのところを渡り歩いたことでも知られています。
そんなパトロンのひとりに、わが山口県柳井市が誇る俳人にして実業家であった、村上磐太郎(明治31(1898)~昭和55(1980)。俳号は可卿)がいます。
村上は何代も続く造り酒屋を経営していた、地域屈指の富豪。
そのかたわら詩作・句作もものしており、若山牧水(明治18(1885)~昭和3(1928))の門下生。
ちなみに師匠の若山牧水は山頭火に負けず劣らずの大酒飲みで、この造り酒屋兼弟子兼パトロンのところに、生活が窮すればチョコチョコ顔を出していたというのが、なんとも言えません(;^ω^)。
なおその村上磐太郎氏、ワタクシの卒業した小学校の校歌も作詞しております(メッチャ格調高い歌詞で、いまも感心しています)。
そんな村上家に、同じ山口県出身者で俳人、しかも酒好きの山頭火が出入りするようになるのはごく自然ななりゆきでございまいして(;^ω^)、たとえば、最晩年あたりの山頭火日記に、こんな記載があります。
まず、昭和13年6月4日分。
「(中略)藤生(ふじゅう。山口県岩国市にある駅)から汽車で柳井へ、バスで伊保庄(山口県柳井市南部にある集落。村上家がある)へ。Mさんに面接する。白船(同じ山口県で自由律俳句で名をはせていた久保白船(くぼ・はくせん)のこと)を通じ知ってはいたけれど旧知の友達のような気がした。話すほどに飲むほどに酔うてしまうて、すすめられるままに泊めてもらった。近来にない楽しい晩酌であった」
その翌日、6月5日分。
「朝から酒、それもよろしい。Mさんのところ造り酒屋で、Mさんはその主人で、しかも相当の左党だ。お土産として生一本を頂戴する。酒銘として「幾山河」は好いでないこともないが、牧水の門人としてのMさんの心意気が見えてうれしい。殊に傍書の「白玉」の歌はうれしい(後略)。」
なお、文中の「Mさん」が村上磐太郎を指すのは、説明するまでもないでしょう。
「幾山河」は、ワタクシがガキの時分まで、村上酒造で作っていた日本酒。由来は無論、村上磐太郎の師匠・若山牧水の「幾山河 越えさり行かば寂しさの 終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく」であり、山頭火がお酒の傍書として絶賛していた「白玉」は、あの有名な「白玉の 歯にしみとほる秋の夜の 酒はしづかに 飲むべかりけり」のことですね。
ちなみに村上磐太郎側は、山頭火が訪ねてきたときのことを、地元の句会誌に、このように回想しています。
「(次男が)『お父さん、乞食(ホイトー)が店に入ってきて腰をかけてるよ、と告げたので出てみるとそれが山頭火であったのには驚いた。早速銭湯姫田湯に案内した。戻りて夕餉のあい間に、句作や旅の話は酒と豆腐があれば、何もいりませんと大いに飲み語らい句作に時を過ごした。」
その村上さんのところの酒場は酒造をやめて久しく、わが郷土もさびれて久しいのですが、かつてこのような文豪たちが実家からわずか数キロのところに集い、飲み、句をひねっていたという歴史は驚くべきものであり、未来永劫語り継ぐべきものだと思っております。
ちなみに、村上さんのところに立ち寄った際、山頭火がひねった句はこちら。
「起きるより酒屋へ駈け付けて 一杯また一杯」
…酒飲みとしては、聞くだけでなんだかこう、ムズムズするというか嬉しくなるというか…名句!ですね。
※本文中の「山頭火日記」につきましては「周東歴史物語 柳井周辺いまむかし」(瀬戸内出版)より引用しました。
種田山頭火(明治15(1882)~昭和15(1940)・山口県防府市出身)といえば、国語の教科書や副読本にも出てくる、自由律俳句の立役者でありますが、ご存じのとおり、私生活で不幸が打ち続いたことから酒浸りの暮らしを送り、晩年は句作を武器に、あちこちのパトロンのところを渡り歩いたことでも知られています。
そんなパトロンのひとりに、わが山口県柳井市が誇る俳人にして実業家であった、村上磐太郎(明治31(1898)~昭和55(1980)。俳号は可卿)がいます。
村上は何代も続く造り酒屋を経営していた、地域屈指の富豪。
そのかたわら詩作・句作もものしており、若山牧水(明治18(1885)~昭和3(1928))の門下生。
ちなみに師匠の若山牧水は山頭火に負けず劣らずの大酒飲みで、この造り酒屋兼弟子兼パトロンのところに、生活が窮すればチョコチョコ顔を出していたというのが、なんとも言えません(;^ω^)。
なおその村上磐太郎氏、ワタクシの卒業した小学校の校歌も作詞しております(メッチャ格調高い歌詞で、いまも感心しています)。
そんな村上家に、同じ山口県出身者で俳人、しかも酒好きの山頭火が出入りするようになるのはごく自然ななりゆきでございまいして(;^ω^)、たとえば、最晩年あたりの山頭火日記に、こんな記載があります。
まず、昭和13年6月4日分。
「(中略)藤生(ふじゅう。山口県岩国市にある駅)から汽車で柳井へ、バスで伊保庄(山口県柳井市南部にある集落。村上家がある)へ。Mさんに面接する。白船(同じ山口県で自由律俳句で名をはせていた久保白船(くぼ・はくせん)のこと)を通じ知ってはいたけれど旧知の友達のような気がした。話すほどに飲むほどに酔うてしまうて、すすめられるままに泊めてもらった。近来にない楽しい晩酌であった」
その翌日、6月5日分。
「朝から酒、それもよろしい。Mさんのところ造り酒屋で、Mさんはその主人で、しかも相当の左党だ。お土産として生一本を頂戴する。酒銘として「幾山河」は好いでないこともないが、牧水の門人としてのMさんの心意気が見えてうれしい。殊に傍書の「白玉」の歌はうれしい(後略)。」
なお、文中の「Mさん」が村上磐太郎を指すのは、説明するまでもないでしょう。
「幾山河」は、ワタクシがガキの時分まで、村上酒造で作っていた日本酒。由来は無論、村上磐太郎の師匠・若山牧水の「幾山河 越えさり行かば寂しさの 終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく」であり、山頭火がお酒の傍書として絶賛していた「白玉」は、あの有名な「白玉の 歯にしみとほる秋の夜の 酒はしづかに 飲むべかりけり」のことですね。
ちなみに村上磐太郎側は、山頭火が訪ねてきたときのことを、地元の句会誌に、このように回想しています。
「(次男が)『お父さん、乞食(ホイトー)が店に入ってきて腰をかけてるよ、と告げたので出てみるとそれが山頭火であったのには驚いた。早速銭湯姫田湯に案内した。戻りて夕餉のあい間に、句作や旅の話は酒と豆腐があれば、何もいりませんと大いに飲み語らい句作に時を過ごした。」
その村上さんのところの酒場は酒造をやめて久しく、わが郷土もさびれて久しいのですが、かつてこのような文豪たちが実家からわずか数キロのところに集い、飲み、句をひねっていたという歴史は驚くべきものであり、未来永劫語り継ぐべきものだと思っております。
ちなみに、村上さんのところに立ち寄った際、山頭火がひねった句はこちら。
「起きるより酒屋へ駈け付けて 一杯また一杯」
…酒飲みとしては、聞くだけでなんだかこう、ムズムズするというか嬉しくなるというか…名句!ですね。
※本文中の「山頭火日記」につきましては「周東歴史物語 柳井周辺いまむかし」(瀬戸内出版)より引用しました。
先代の芦原館長は「八幡浜の道場ができるまでは、自分の技をじっくり考える余裕がなかった」といったことをおっしゃられていましたが、「1技いくら」で流浪していた武田惣角先生がその技を維持向上できたモチベーションは一体何だったのか…というのは、たしかに大いに気になるところでございます。
現在、弊ブログには大東流修行者の方の書き込みはございませんが、当方はあまり「合気」には詳しくないので、とりあえず看過頂ければと思っております(;^ω^)。