集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

大昔のボクシングと、ピストン堀口の「逮捕術における風景」

2023-08-26 09:18:26 | 雑な歴史シリーズ
 タイトルは、元ボクシングマガジン編集長にして、日本一のボクシング・ノンフィクション作家である山本茂氏の著書「ピストン堀口の風景」(ベースボールマガジン社 初版昭和63年)のパクリです(;^_^A。

 以前「長い長い歴史」において、逮捕術の初代制定委員のなかに、戦前~終戦直後までその名を広く知られた名ボクサー・ピストン堀口が入っていたことをお話ししました。
 逮捕術の制定において、ボクシングパンチの研究が必須であったことは既に「長い長い歴史」で触れた通りなのですが、今回はその点をもっと掘り下げ、終戦直後、つまり逮捕術制定委員になったころのピストン堀口のあれこれと、なぜピストン堀口が逮捕術制定委員に名を連ねたのか?という疑問についてまとめてみたいと思います。
 なお本稿の執筆に当たりましては前掲「ピストン堀口の風景」のほか、わが国初のボクシング雑誌「ボクシング・ガゼット」編集長にして、日本ボクシング界の生き字引と呼ばれた郡司信夫(1908~1999)の「拳闘五十年」(時事通信社・初版昭和30年)を参考としました。

 大東亜戦争によって統括団体が休眠状態(昭和19年3月、大日本拳闘協会は活動休止・自主解散)となり、空襲でジムが消失し、選手が戦死し…と散々な目に遭った日本ボクシングは、終戦とともにすぐ息を吹き返します。
 終戦からわずか1か月後の昭和20年9月中旬、横須賀に進駐した米軍に対し、平居浩(日東拳)などが慰問ボクシング大会を開催。これが日本ボクシング戦後復興第1弾とされています。この「慰問ボクシング」は試合後のギャラや食事、はては基地PXのシュガーポットから砂糖をまるごとかっぱらうこと( ゚Д゚)を目当てに盛んに行われたそうですが、郡司信夫によると、選手自身が栄養失調気味であったうえ、「乱脈を極めた試合方法」(拳闘五十年より)であったため、肉体に重篤なダメージを負った選手も少なくなかったそうです。

 「慰問」ではなく、公式記録に残る戦後復興第1号となった興行は12月5日、西宮球場で行われたもの。主催は在日本朝鮮人連盟大阪本部。のちに「朝鮮総連」(!)となる、あの団体(;^ω^)です。
 終戦後わずか4か月、しかも統括団体が解散の憂き目に遭っている最中のこの時期に、なぜ大阪朝連はたった4試合だけとはいえ、西宮球場を借りて公式マッチを組めたのか?…郡司信夫は「闇経済で財力をもち、戦争中の著名なボクサーにすぐわたりがついたからである。」と、そのものズバリ!ナットク!な理由を述べています(;^ω^)。
 これを苦々しく思ったのが、北朝鮮色の強い朝連と反目する韓国系の団体「朝鮮建国促進青年同盟」通称「建青」。のちに「民団」となった団体で、若き日の大山倍達も所属していました。
 朝連の公式マッチに遅れること24日後の12月29日、建青は戦前の名ボクサーで、ピストン堀口と死闘を繰り広げたことでチョー有名だったジョー・イーグルのマッチメイクによる興行を、なんと旧両国国技館で開催したのです。
 ただ当時、国技館は進駐軍に接収されていたために有料興行を打つ許可が下りず、無料興行にせざるを得なかったことから宣伝が滞り、そのため1000人くらいしか客が入らなかったそうです。
 これらのマッチは興行的には「成功」とは言い難いものでしたが、戦争のために都会を離れ、地方で暮らしていたプロボクサーやその予備軍たちに「ボクシングが復活した!」ということを知らしめるには絶大な効果があり、疎開先から、あるいは復員先から続々と選手が東京に戻ってきました。それとともにボクシング人気はジワジワと湧き上がり、ボクシングの専門的トレーニングを志向する若者も増えてきました。
 わが国初となった、一般人向けのパブリックジムが東京都内にできたのもまさにこのころ。
 終戦から1年も経たない昭和21年6月、「日本拳闘株式会社」なるボクシング振興のための会社が設立され、その本拠地として元映画館を買い取り「日拳ホール」なるジムを開きます。これは選手を目指すガチ勢だけではなく、「ボクシングをちょっとやってみたい」という人間がやってきて、トレーニングしてひとっ風呂浴びて帰る、なんてことができる画期的なジムであったうえ、二階には「ボクシング・ガゼット」編集部も入っていたことから、のちに資金繰りが悪化して日活に買収されるまでの数年間、文字通り日本ボクシング界の「司令塔」となったジムでもありました。
 …しかし、あの物のない時代に、よくそんな立派なジムを開いたものだと感心するばかりですが…要するに当時のボクシング熱はそれほど熱いものだったわけですね。

 続いて、ピストン堀口(戦後編)のほうを見てみましょう。

 昭和21年2月9日、ピストン堀口は、永年の激闘による肉体のダメージを心配した周囲からの説得に折れるかたちで、現役引退と「ピストン堀口拳闘会」のプロモーター就任を発表。発足早々、驚くべきビッグマッチを企画・実行します。
 「拳闘会」発足からわずか10数日後の2月23日、ピストン堀口は日比谷公会堂において「海外同胞援護基金募集」を掲げたチャリティマッチを打ちます。
 当時、日比谷公会堂は進駐軍が接収しており、有料興行は一切不許可の状態でした。これは前出の「建青」主催・両国国技館マッチと同様の状況です。
 しかし、ピストン堀口はプロモーターになっても「ピストン戦法」を炸裂させ、GHQ総本部に乗り込んで直談判!なんと「OK」の返事を引き出してしまったのです。
 郡司信夫は当時の状況を「日本人の有料興行が、接収会場で行われるなどということは、夢にも思われなかった時代」であるとし、「ピストンでなければ、絶対に不可能と思われる離れわざであった」と絶賛しています。
 ピストンのこの興行は観客3000人を集めるという、異例の大盛況。会場に入りきれなかったファンが会場周辺を立ち去らず、「入れろ」「入れない」の押し問答の末、ついには客が入り口の窓ガラスを破った、などという逸話も残っています。興行収益24000円(当時の金額)は全額、東京都庁に寄付されました。

 しかし、根っからのボクシングマンであったピストンは、この興行の熱狂に血が騒いだせいか???引退発表からわずか1か月で引退を撤回、選手復帰を発表します。名目上の理由は「弟・宏が負傷で興行に穴をあけそうなので、代わりに出る」でしたが、まともに受け取る人は一人もおらず関係者は「やっぱりね」としか思わなかったようです。
 その後同年7月には、過ぐる昭和16年、戦前の日本ボクシング最強決定戦・俗に「世紀の一戦」と呼ばれた試合を戦った笹崎僙(ささざき・たけし。1915~1996)とのリターンマッチを後楽園球場にて敢行。25000人もの大観衆を集めたこの試合、練習不足でコンディションを崩していた堀口は第4ラウンド、「槍」と謳われた笹崎のボディパンチを受けてダウンを喫するなど大苦戦を強いられますが、持ち前のタフネスで粘ってドローに持ち込みます。
 以上、逮捕術制定委員に推挙されたころまでのピストン堀口の動きを見てみました。

 ここで、最初に掲げた疑問に立ち返ります。
 警察はなぜ、初代逮捕術制定委員の「ボクシング有識者」として、ピストンを選んだのか?
 実はいろいろ資料を当たったのですが、警察側の史料にその理由を記したものは何もなかったうえ、ボクシング側の史料は、ピストンが逮捕術制定委員だったこと自体を記したものがありませんでした。
 以下はワタクシが、史料とピストンの事績を勘案し…このようなものではなかったかと推察したものです。

①この当時「ピストン堀口」という名前は、ボクシングを知らない人でも即座にわかるような日本スポーツ界の超ビッグネームであり、初代逮捕術のスゴさにハクをつけるためには、これ以上ない人材だったから。
(実際、初代逮捕術の制定委員を並べて見てみますと、知る人しか知らない柔道や剣道のセンセイ方に比べ、いい意味で「堀口恒男」の名前が浮いて見えるのは、ワタクシの僻目でしょうか(;^ω^))
②逮捕術の制定には当然GHQの検閲を受け、それに合格せねばならなかったが、GHQを動かすほどのネームバリューがあるピストンを警察側に抱え込むことは、初代逮捕術の「通行手形」になると踏んだから(これは「長い長い歴史」でも話した理由です)。
③このころ警察は、進駐軍兵士やヨタ者など、ボクシングの心得があるゴロツキに非常に苦戦していたことから、逮捕術の制定委員にピストン堀口を担ぎ出すことで「警察はピストン堀口先生から学んだ技術で、逮捕術を編んだんだぞ!ヨタ者がちょっとかじった程度のボクシング技術なんかメじゃないぞ!」という宣伝効果を狙ったから。
④ピストン堀口はこのころ、「1年に●試合」ではなく、驚くべきことに「1か月に●試合」という、現代の常識で考えると「自殺行為」と言えるほどのハイペースで試合をこなしていた(これは「『ピストン堀口が試合に出ること』こそが、ボクシング振興に繋がる」という、ピストン堀口自身の強い使命感によるもの)が、これが警察幹部には「驚くべき敢闘精神」と映ったから。
⑤ボクシング界の振興を常に考えていたピストンは、警察逮捕術に参画することが「ボクシングの振興に大いに寄与する」と考えたから。

 ①②③あたりは誰でも思いつくことだと思いますし、実際のところはそんなところだったんじゃないかと思うのですが、⑤については少し説明が必要でしょう。

 ピストンはこのころ、どんな草試合・ドサ試合であっても請われるままに出場していたそうです。
 ピストンの生涯公式戦出場記録は176試合とも178試合とも云われていますが、草試合やエキシビジョンなどを含めると、400戦はこなしていたというのが、有識者の一致した見解です。
 これに関し、今以上に口さがなかった当時のマスゴミは「ピストンはずいぶんお稼ぎになっているようだ」などと書きたてましたが、「主に顔面を殴り合う=脳に重篤なダメージを負う」という危険な格闘技であるボクシングの試合を、カネ目的だけで連戦しようなどということは絶対に不可能です。
 ピストンは生涯に亘って徹頭徹尾、ボクシング振興を考え続けていました。
 当時は新聞とラジオ以外の報道機関がありませんでしたが、このころの報道機関はボクシングを取り上げてくれるには、1にも2にも「ピストン堀口」という名前がなければならなかったということを誰よりも知っていたのは、ほかならぬピストン自身。
 だからこそどんな悪条件でも試合に出続け、人前に出続け、しまいには兄弟を巻き込み、みんなボクサーにしてしまったわけです( ゚Д゚)。ピストンのボクシング振興に賭けた思いや本気、わかって頂けましたでしょうか…以上が⑤の解説となります。
 
 かなり強引なまとめになりますが、ピストン堀口が終生持っていた、触れれば斬れそうなほどのボクシングに対する情熱を誰よりも理解していたのは、進駐軍や三国人に理不尽な暴行を受けても有為な反撃ができず、そのため真に使える護身術を本気で模索していたころの警察であった。初代逮捕術はいろんな意味での「運命共同体」であった両者が奇跡のコラボを遂げたものであるといえる…かなあ…と思います(;^ω^)。

 皆様ご存じの通り、ピストン堀口は逮捕術制定のわずか3年後となる昭和25年10月24日、汽車に撥ねられて非業の死を遂げます。
 梶原一騎原作漫画などでは「パンチドランカーになった挙句、フラフラと線路に入った」とされていますがこれは完全なデマで、ピストンは死の直前まで意識はしっかりしていました。
 直接の死因ですが、付き合いの酒が過ぎたため深夜に寝過ごし、帰宅を急いで線路に沿って歩いて帰っていた末の事故死だった、ということが現在では明らかになっています。

 ピストン堀口は今後も日本ボクシングのみならず、警察武道の青史にもずっと残り続ける、真の傑物でした。

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (老骨武道オヤジ)
2023-09-12 21:27:07
ピストン堀口様はパンチドランカーとなって非業の死を遂げられた・・私もそのように書物等で読み、頭部にダメージを起こしがちのボクシングは危ないなと思っておりました、正しい情報をお伝えいただき感謝いたします。・・ちなみに、お酒によるアクシデントはありがちなことです・・私も気を付けねば・・チャンチャン(^^)/!!
ありがとうございます! (周防平民珍山)
2023-09-16 20:41:50
 老骨武道オヤジさま、いつもありがとうございますm(__)m。

 そうなんです。今回の種本「ピストン堀口の風景」、そして国会図書館蔵書のボクシング関連のあらゆる書籍でも、ピストン堀口がパンチドランカーだったと云う証言は一切なく、逆に選手を完全引退したあと、プロモーターとして精力的に駆け回っていた話以外、拾うことはできませんでした。

 ただ、「無敵のピストンも、酒酔いによる過失で命を失った」ことは間違いなく、人後に落ちない酒好きのワタクシ、ちょっとけ杯を伏せようかな…と、一瞬だけ思ったりします(3秒後に忘れます(;^_^A)。

 またよろしくお願いいたします!

コメントを投稿