アヴェ・マリア!
ダ・ヴィンチ・コードのカトリック教会に対する讒言
ダ・ヴィンチ・コードは、カトリック教会が反女性的であるとし、カトリックは中世に七百万人の魔女を焼いたと言う。しかし事実は最近の研究が明らかにしているように、一四〇〇年から一七〇〇年の間に四万人(四百万ではなく単に四万)が魔女・魔法使いといて処刑されたと考えられているが、その多くはプロテスタントによって処刑された。中世には魔女として処刑された人々は殆どいない。
(Jenny Gibbons, "Recent Developments in the Study of the Great European Witch Hunt", #5, Pomegranate (Lammas, 1998)
ブラウンは神殿騎士団が奇妙な秘密の始まりをもっていたと主張するが、真面目な歴史家で神殿騎士団のそのような始まりに関する文書や証拠を見つけた人は一人も存在していない。ダ・ヴィンチ・コードによると、神殿騎士団がゴチック建築を発明し、オカルトのシンボルをそこに密かに埋め込み、異教の神々を礼拝した、と主張する。ダ・ヴィンチ・コードによると、神殿騎士団は教皇クレメンテ五世によって解散させられ、神殿騎士団員数百名を焼き殺しその灰をティベル河に投げ捨てた、そのために騎士団はフリーメーソンと姿を変えて今日に至る、と主張する。これは全くの作り話だ。
神殿騎士団はまず、イスラム教徒から迫害を受けていた聖地にいるキリスト教信者を助け聖地を保護するためにあった。彼らは建築家ではなかった。
アヴィニョンの教皇であったクレメンテ五世ではなく、フランスのフィリップ五世が神殿騎士団に対立し、彼らに対して異端や魔術の告発をしていた。そしてフィリップ五世の下で、拷問などが実行され哀れ神殿騎士団の中には偽りの自白をしたものもあったが、後にそれを撤回している。学問的な研究の成果によれば、神殿騎士団が異端集団だったという証拠はない、ということだ。しかしフィリップ五世は、優柔不断なクレメンテ五世に圧力をかけ、その解体を迫った。
(Malcolm Barber, "The Trial of the Templars", Cambridge University Press: 1978;
Edward Burnmn, "The Templars Knights of God", Rochester, VA: Destiny Books, 1986;
Peter Partner, "The Murdered Magicians: The Templars and Their Myth", Oxford: Oxford University Press, 1982)
教皇クレメンテ五世が神殿騎士団の会員を焼いた灰をティベル河に投げ捨てたというが、ローマあるいはイタリアのその他の都市で神殿騎士団の会員が焼かれたという記録は存在していない。ただしフィリップ五世の下で、パリとフランスのその他の都市で合計すると百名以下の会員が焼かれたことはある。
神殿騎士団の住んでいたところは、ソロモンの神殿の下の古い馬小屋の中ではない。彼らはアルアクサというイスラム寺院の隣の神殿山(Temple Mount)の上に立つ王宮の一部に住んでいた。
以上のようにブラウンの描く「歴史的事実」まったくデタラメであり、彼は単に反キリスト教、反カトリックのフィクションを書いているとしか言いようがない。
ダ・ヴィンチ・コードが描く秘密結社
ダン・ブラウンはバラ十字架団、フリーメーソン、その他の秘密結社のシンボルや儀式についてあまり知られていない情報をダ・ヴィンチ・コードに織り込んでいる。幾つかは本当のことが記載されているがその殆どはデタラメだ。そのためにどこからどこがウソでどこからどこまでが本当か混乱を引き起こさせている。
例えばブラウンはヒエロス・ガモスと言われる異教の性的乱交秘密酒神祭ともいうようなものが秘密結社には存在しているという。これについては信頼のおける研究家らによってもかつて秘密結社において存在したし、現在でも存在しているという。しかしダン・ブラウンは神殿騎士団の「秘密儀式」の一部にそれがあったとウソをつく。
シオン修道院のグランド・マスターの「秘密文書」に載せられたリストであるが、そこにあげられている人々はかなりの数が様々なオカルト団体と関わっていたらしい。ただし彼らが、存在していなかったシオン修道院という一つの団体に関わっていたというのはナンセンスだ。
(Robert Richardson, "The Unknown Treasure: The Priory of Sion Fraud and the Spiritual Treasure of Rennes-le-Chateau", Houston, TX: NorthStar, 1998. )
例えばアイザック・ニュートンは、オックスフォードの「見えない学寮」(invisible College)の一部だった。
ヴィクトル・ユーゴーは、秘教主義と聖なる女性の伝説に巻き込まれていた。しかし彼らがすべてフィクションのシオン修道院という一つの団体に所属していた、というのは現実ではない。
ダ・ヴィンチ・コードによると、バラ十字架団、フリーメーソン、その他の秘密結社などが一つの現実であるかのように描かれている。しかし現実は全く違う。これらの悪の勢力はカトリック教会とキリスト教世界に反対して闘う時だけは一致するが、そうでなければ互いに相争っている。
ブラウンはこれらの秘密結社らを常に良いものとして描き、それに平行してカトリック教会を悪として描いている。革命的現代人は善を悪として受けいれ、悪を善として考えるのか? ダ・ヴィンチ・コードはそのような現代人に、キリストが天主であるということを否定するように暗示している。だから世界中のマスメディアは、これを促進し宣伝し、囃し立てているのだ。
ダ・ヴィンチ・コードは冒涜的な性格を持っているために私たちはこれに対して抗議する。アリンゼ枢機卿はキリスト者らに、ダ・ヴィンチ・コードに反対して行動を起こさなければならない、と要請している。
教理聖省の秘書アンジェロ・アマト司教(サレジオ会)は、四月二八日に映画ダ・ヴィンチ・コードをボイコットするように訴えた。
オプス・デイ運営のローマのサンタ・クルチェ(聖十字架)大学でのセミナーで、アマト司教はこう言った。
「あなたたちが皆、これをボイコットすると期待します。」
アマト司教は言葉を続ける。「大部分のキリスト教信者の極めてお粗末な文化的素養のため、彼らは自分たちの希望の理由を挙げることさえも出来ない。」そのために「ダ・ヴィンチ・コードのような頑固に反キリスト教的な小説---イエズス・キリストと福音書と教会とに関して讒言と攻撃と歴史的・神学的誤謬に満ちた---が奇妙にも成功をおさめた」と説明する。
アマト司教は更に言う。「これらの讒言と攻撃と誤謬がもしもコーラン(イスラム経典)やショラー(ユダヤ経典)に関するものであれば、世界中で大騒動が起こっていたことであろう。しかしカトリック教会とキリスト者らに向けられたものであったがゆえになんの罰も受けなかった。」
「このような場合、キリスト者たちは嘘と根拠のない名誉毀損を拒否するためにもっと敏感であるべきだ。」
一九八八年の「キリストの最後の誘惑」という映画上映の時、これはボイコットを受け、「それに相応しい経済的失敗」という痛手を与えることが出来た、とアマト司教は追憶する。そしてダ・ヴィンチ・コードについては「極めてゆゆしいものであり、歴史的に間違っている」と評価する。
「今日、福音の伝達が現実の迫害によって妨害されているばかりか----世界にはまだ、投獄や死刑の刑をもって、自分の信仰を宣言する自由を拒否されているキリスト者らがまだいる----しかしポスト・モダン文化の弱々しい思想によって迫害されている。何故ならポスト・モダン文化はキリスト教の啓示という強力な思想を拒否するからだ。」そのために現代は「虚無的・相対主義的・生命技術偏重的文化の重々しい雰囲気がある」という。
「私たちは現代、真理と明らかな物事に対応していない仮想現実的な空間の中に生きているかのように思われる。この仮想世界は世論操作とマスメディアのシミュレーションの実験室で作られているようだ。」 アマト司教はこの意味で「人物と出来事と歴史の操作」があると告発する。
ユダの福音についてもアマト司教は「カトリック報道機関は、ニュースを報道するだけではダメだ」とし、これが「偽典の福音であり、教会と教父たちはこの存在を知っており排斥した」偽物、「事実の現実と対応しない、ユダを間違って描くもの」であるということを理解させる情報を読者に提供しなければならない、と述べた。
http://www.dici.org/actualite_read.php?id=1249&loc=fr
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韓国では、朝鮮日報によると、映画『ダヴィンチ・コード』、上映禁止仮処分棄却、とのことだ。しかしそれなりの努力をしたことはうれしい。
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ソウル中央地裁・民事捜査部は16日、「韓国キリスト教連合会・映画『ダヴィンチ・コード』特別対策委員会」が同映画の国内公開禁止を要求し提出した仮処分申請を棄却した。
同委員会は先月、「映画『ダヴィンチ・コード』がキリストの神聖と聖書の真理を毀損し冒涜している」とし、「これにより個人の宗教的信念が侵害される恐れがある」として、同映画の韓国配給会社である(株)ソニー・ピクチャース・リリージング・コリアを相手取り上映禁止仮処分申請書を提出した。
米国の作家ダン・ブラウンのベストセラー小説『ダヴィンチ・コード』を原作にした同映画は18日に世界で同時公開される。
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1967237/detail
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フィリピンでは、上映が延期になったと以前噂で聞きましたが、そうではなくなったようだ。ただし、18歳未満不適切映画、R18に指定されたそうだ。(テケテキさん、コメントと情報を感謝します。)
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私たちは何をしたらよいのだろうか?
ADさん、コメントを感謝します。では、私たちは何をしたらよいのだろうか?
パッションの時には、「反ユダヤ」という言いがかりをつけられてバチカンにまで抗議した。それと同じように私たちは、キリスト教の指導者の方々が行動を起こして下さるのを期待している。何故なら、私たち個人の力には限りがありすぎるからだ。
しかし、下の日本カトリック正義と平和協議会の活動リストを見ると、
http://www17.ocn.ne.jp/~antijpj/yamanouchi/jpj-act.html
環境保護、森林保護、熱帯雨林保護、良心の自由、人権闘争、死刑反対、盗聴法反対など、人間を天主の地位に上げるようなことは力を尽くしていることは分かる。人間は天主のように高められている。
だが、その反対に、天主である私たちの主イエズス・キリストを単なる人間に貶めることについては、無関心なのではないか、と私は畏れる。
日本のカトリック教会の指導層は、私たちの主イエズス・キリストの名誉のためには、何も動かないかもしれないと畏れる。もしも私たちの主イエズス・キリストの御聖体が粗末に扱われているなら、映画において私たちの主イエズス・キリストが侮辱されていても心を動かさないかもしれない、と畏れる。これが空しい虞であることを祈る。
では、私たちは何をしたらよいのだろうか?
天主の御母聖マリア、マグダラの聖なる痛悔女マリア、私たちの主イエズス・キリストの十字架の下に佇もう。イエズス・キリストの側に立ち、天主に祈ろう。またベロニカのように、償いの布をイエズス・キリストに捧げよう。
私たちは映画『ダ・ヴィンチ・コード』を制作した SONY に対して憎しみを抱くものではない。しかしこの小説と映画はあまりにも反キリスト教的なものであるので、私たちは決してこれを見ないようにしよう。その時間とお金があれば、私たちはダ・ヴィンチ・コードでなされる多くの冒涜に対して罪の償いを果たそう。特に私たちの愛する同胞である日本の兄弟姉妹の方々が、その巧妙に提示された虚偽に騙されることのないように祈ろう。
兄弟姉妹の皆様、ダ・ヴィンチ・コードの冒涜の償いのために多くの祈りをお願いいたします。日本の司教様や教会の指導者の方々のためにお祈りをお願いします。
天主の御母聖マリアよ、我等のために祈り給え!
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イエスという方は、たった一人の女性を本当に愛したからこそ、あのような博愛の精神を持つことができたのではないでしょうか。そう考えた方がずっと自然だと思うのですが。
そうではなくて、教会で語られているような教義が絶対に正しいと信じられるのなら、ダ・ヴィンチ・コードを上映禁止にするとか、見ないようにしようというのではなく、堂々と「見たければ見ればいい。我々が正しいことは明白なのだから。」と言えばいいのです。「見るな」ということは、自分たちの主張に自信がない証拠だと思うのですが、いかがですか。
「トマスによる福音書」には、イエスの言葉として、つぎのような文が書かれています。
「隠されているもので、明らかにならないものはない。」
別に、他の教団があなたのように考えてもどうでもいいことです。
自信とかそういう問題じゃないのですね。
だいたい、キリスト教にはたくさんの教派があるのですから、いろいろな考えがすでに存在しており、ダ・ヴィンチ・コードのおとぎ話も昔から(オカルトの世界では)よく知られていることであります。
ただ、私たちはそれを信じないというだけ。
とりあえず、最初の最初(登場人物紹介)から間違っている(そもそもオプスデイに修道僧などいない)小説を、事実と混同するナイーブさには驚きますね。
みんな素直な良い子なんですね~
こんにちは!
コメントをありがとうございました。とてもうれしく思います。
せっかくコメントして下さったのに、何もお返事しないのでは失礼かと思い、少々遅れてしまいましたが、私も思ったことをお伝えします。お許し下さい。
イエズス・キリストがすべての人を愛することが出来たのは、天主であるからです。天主は愛だからです。イエズス・キリストがすべての人を本当に愛するということは、今西暦2006年に生きている私たちは勿論、この世に生まれた最初の人間アダムとエワからこの世の最後の人間まですべてを、ということです。
何故なら、私たちには男女の愛以外のもっと崇高で気高い愛があるからです。それは創造主が被造物である私たち人間を愛する愛であり、私たちが聖寵によって創造主である天主をすべてに超えて愛する愛です。すべてに超えてとは、私自身よりも、私のことを超えて、という意味です。イエズス・キリストはこの超自然の愛を私たちに教えてくれました。「天主をすべてに超えて愛せよ、そして天主を愛するために、隣人を我が身の如く愛せよ」と。
天主に対する愛は限りがないものですが、隣人に対する愛には、秩序があります。私たちにとって近しい人から秩序よく、天主のために愛さなければなりません。これがキリストの教えてくれた愛徳です。
しかもイエズス・キリストは、今この世においてはこの愛を証するために犠牲が伴うと、教えてくれました。愛するためにはリップサービスで「主よ、主よ」と言うだけではなく、天主の御旨を果たし実行しなければならないという意味です。だから、イエズス・キリストは聖父に従順でした。同時にイエズス・キリストは「道、真理、命」ですので真理のもつ自由をもっていました。利己主義と悪しき情念から自由でした。
それについては、ARRIGOU-LAGRANGE, Reginald, OP The love of God and the cross of Jesus が詳しいです。
また良く考えてみると、もしも「たった一人の女性を本当に愛した」なら、「たった一人」と「すべての人」とを同時に愛することは矛盾しているように思えます。何故なら、私たち人間の力には限界があり、どうしてもすべてに全力を注ぐことが出来ないからです。「たった一人」に自分を忘れて24時間フルパワーを注げば、その他に注ぐ力は残らなくなってしまうのではないではないでしょうか?
教会は真理を隠そうとはしていません。その反対です。誤りの暗闇は力強く真理の光を消し去ろうとしますし、人間の知性は情念によってくらまされやすいので、真理の光を守り、大切に輝かせようとしているのです。私たちの主イエズス・キリストも言われました。「かくれていてあらわれないものはなく、秘められてあって明らかになり、知られるようにならないものはないのである。」(ルカ7章)
ついに私たちの主イエズス・キリストは最後の審判者として雲に乗ってこの世を裁きにやってくるでしょう。その時、イエズス・キリストが天主であったという真理が輝くことでしょう。
新約聖書の全二七巻は、西暦五〇年から一〇〇年までの間に、すなわち一世紀の間に成立したものです。
四世紀のものであるナグ・ハンマディのグノーシス文書のごみ捨て場が、一九四五年に発見されました。しかしこの文書は、偽典は禁止されたのでも隠されたのでもなく、ただ信頼されず無視されただけなのです。グノーシスの偽典は全く不正確で、偽りだらけだったからです。嘘つきの話を誰が信じるでしょうか? グノーシスは18世紀前に教会から排斥された異端だったのです。
ダ・ヴィンチ・コードを上映禁止にするとか、見ないようにしようというのは、それがイエズス・キリストに対する冒涜と侮辱、またカトリック教会に対する讒言と憎悪と偽証に満ちているからです。
教会の歴史や教義と神学をよく学んだ人にとってはそれを見てもただ、内容のひどさに憤りを感じるだけでしょう。ただし、極めて巧妙に人を間違いへと導くように作られ、内容があまりにも間違いと嘘と事実をごちゃ混ぜにしているので、準備がない人は単純に騙されてしまうでしょう。
私は、特に弱い人を守りたいと思います。特に日本語では正確な情報を得る手段が限られているからです。
では、Sun&Moon さん、改めて、コメントをありがとうございました。
またの機会を楽しみにしております。
なんだか、専門用語がならんで、おわかりにくい文章だったのではないかと思います。私はもっと修行を積まなければなりませんね。お読みくださって感謝します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
マリア様が、Sun&Moonさんをまもって下さいますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
自分の本当の片割れ、本当の相手に出会ったときの驚き、そして、その人を愛したときの歓びは、筆舌には尽くせません。心の底からの感謝、溢れ出す愛情…この世のすべての者がいとおしく、その存在がありがたく思えるものなのですよ。自分が本当に幸せだからこそ、当たり前のようにすべての人の幸せを願うことができます。何も努力することなく、すべての人を愛することができるのです。
いくら教会で「汝の敵を愛せ」と必死で説教したところで、いくら神に祈ったところで、それを本当に実践できる人がいるでしょうか? 必死で努力してもなかなかできない自分を、永遠に反省し続けなければなりません。これで本当に問題が解決しますか?
人にはすべて、本当の片割れがいるのです。宗教的な理由から、もしも自分の片割れを遠ざけたら、どうなるでしょう?その人は永遠にストレスを押さえ込まなければなりませんし、その相手は、一生辛い思いをしなければなりません。そしてもしもその人が自分の本当の相手でない人と結婚したりすれば、その相手もまた、相手を間違え、というふうに、玉突き式に相手を間違えてしまうのです。これこそが世の中の調和の崩壊、不幸の始まりです。
だから自分に正直にならずにストレスを押さえ込んでいることが、自分だけでなく、他人もどれほど不幸にしているか、考えてみてください。
イエスの復活を最初に見たのは、マグダラのマリアでした。他の弟子はイエスだということに気づかなかったのですよ。そのことについて、深く考えてみてください。自分こそがイエスの弟子だ、イエスの継承者だと標榜している者ほど、本当のイエスを見分けられない危険性があるのです。
あなたの発言は、ただ、キリスト教会という組織や自分の立場を守るためもので、真実は何かを真剣に考えた発言ではありませんね。それはあなたがイエスを本当に理解できていない証拠です。
とおっしゃいましたね?あなたはリップサービスでなく、愛のためにご自分の立場をすべて捨てる覚悟がありますか?
何故、異性間の愛情だけでしか愛を
考えられないのかと私は思います。
その程度の愛ならば、その辺の悪魔主義的な
ロック歌手でさえ口にします。
すなわち、あなたの言う「片割れ」に出会わなければ
人は人を愛せないということでしょうか?
それは愛ではなく、「片割れ」に出会って自分が
幸せだから他人に対して大らかでいられるだけ
のことではないでしょうか?
また、カトリックの司祭が組織や教義の正当性を
訴えるのは至極当然だと思いますが何か問題がおありですか?
特に詳細に渡って歴史やオカルト、キリスト教の知識に
ついて知らなくてもこれらについて多少の知識でも
あればダ・ヴィンチ・コードが信頼するに
足る作品でないことは分かると思うのですが・・・
カトリック教会から外典とされたものを信じて、教会のものである聖書は信じない。つまり、教会を端から否定しているのですね。よくあなたの立場が見えています。
そして,これに付随する映画を見たことがありますが最悪でしたね。きっと見ていらっしゃることでしょう。反カトリックには同調し、事実でもない映画を信じきっているのですね。聖痕は敬虔なカトリック信者に表れ、未信者にはありえません。
>人にはすべて、本当の片割れがいるのです
あなたの愛の定義は何ですか?次元がもう違います。
私たちが互いに愛し合うことが単なる愛ではないはずです。犠牲をともなった愛こそ,真なる愛ではないでしょうか?主キリストが全人類を贖うためになした犠牲こそ愛でなくて何なのでしょうか?片割れとだけで愛を表現しないでください。
傍観者より。
追伸
>自分こそがイエスの弟子だ、イエスの継承者だと標榜している者ほど、本当のイエスを見分けられない危険性があるのです。
ちなみに使徒たちは最後には片割れのためにでなく主のために,福音のために殉教をなさっていますが、使徒たちをおとしめないでください。
キリスト教の”愛”を”恋愛”と勘違いされ、
”祈り”を単に”心の中でぶつぶつ呟くこと”だと、思い違いをされているのでしょう。
勘違いを基にあれこれ批判をされても、的は外れるばかりです。
それはいつ誰が書いたものですか?それを書いた人物は、使徒やマグダラのマリアとどのような関係にあったのですか?また、その人が書いたということを、誰か証言していますか?
>教会はそれらの文書を根絶やしにしようとしましたが、結局成功しませんでした。
それは史実なのですか?どこかに記録がありますか?教会はいつその文書の存在を把握して、どのようにして根絶やしにしようとしたのですか?それはどこの何という司教が命じましたか?
>イエスという方は、たった一人の女性を本当に愛したからこそ、あのような博愛の精神を持つことができたのではないでしょうか。そう考えた方がずっと自然だと思うのですが。
マグダラのマリアに出会う前と後で、イエズスの博愛の精神のありようがどのように違っているか、福音書の中から具体例を示してもらえませんか?
>そうではなくて、教会で語られているような教義が絶対に正しいと信じられるのなら、ダ・ヴィンチ・コードを上映禁止にするとか、見ないようにしようというのではなく、堂々と「見たければ見ればいい。我々が正しいことは明白なのだから。」と言えばいいのです。「見るな」ということは、自分たちの主張に自信がない証拠だと思うのですが、いかがですか。
教会指導者が揺るぎない確信を持っていれば、信徒は反カトリック的映画を見ても動じるはずがないとでも言いたいのですか?呼びかける側に自信があっても、呼びかけられる側は必ずしもそうではありませんが。
>「トマスによる福音書」には、イエスの言葉として、つぎのような文が書かれています。
>「隠されているもので、明らかにならないものはない。」
それが「新事実」とやらに飛びついてしまった理由ですか?
途中で躓いたり転んだりしても歩くことを
止めなければ必ずや真実へ到達できるはず。
Sun&Moonさんはもう少しカトリックの勉強を
された方が良いと思います。
色々と調べてから判断を下しても
遅過ぎるということはないと思いますよ。