アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖霊降臨後第24主日の固有文のアレルヤ唱を黙想しましょう。(これは聖霊降臨後第23主日から聖霊降臨後最終の主日まで同じアレルヤ唱です。)
Allelúia, allelúia.
De profúndis clamávi ad te, Dómine : Dómine, exáudi vocem meam. Allelúia.
アレルヤ、アレルヤ、主よ、深い淵々から私は御身に向けて叫んだ。主よ、私の声を聞き入れ給え。
詩篇 De profundis は、死者の典礼に関係があります。そこで、深い淵々というのは、死の淵のことで、至福直感を待つ霊魂たちの待望の状態のことで、煉獄のことです。
煉獄では、愛徳と希望とうちに天主に呼び求めます。
地獄では、憎しみと反乱と逆恨みと呪いと罵りの叫びです。地獄には痛悔はなく、そこから抜け出ることもできません。天主からあれだけの恵みを受けていながら、地獄ではそれを感謝するのではなく、それを憎むのです。自分のせいではなく、他者のせいだ、と罵るのです。
ところで、ここではこの「深い淵」とは現在の人間の条件を意味します。天国へと旅する私たちの今ある世界の条件です。
天主は人となって私たちのうちに住み給い、辱めを甘んじ受け、私たちの「深い淵」を自分のものとし、これに福音を告げ給いました。天主が人となり、童貞女聖マリアの御胎内に宿りたもうた、という想像を絶することが起きました。
この人間としての条件で、人となった天主御子は御父に祈りを上げます。天主が人となってくださらなければ、私たちの天主への叫びも無駄だったことでしょう。御托身の神秘において、私たちのこの祈りの叫びは十字架の上でのイエズス・キリストの叫びに吸収され、祈りに力が与えられます。
この主日に歌われる「深い淵」は、地獄ではなく、単なる煉獄でもなく、天主の愛による浄めを受けている私たちのいるこの世界です。罪によって傷つきながら天主に向かって祈る力をもつ人類の霊的な・道徳的な・物理的な・心理的な深い淵です。私たちが祈ることができるのも、天主からの賜物であるお恵みをいただいているからであり、深い憐れみの淵を呼び求める深い憐れさの淵です。
そこで、これは典礼暦の最後のアレルヤ唱ですが、それと同時に新しい典礼暦(主の御降誕への準備)につながっています。
メロディー的には、このアレルヤは昇階唱と分けることができません。アレルヤの出だしが、紹介唱の最後の言葉 confitebimur et in sæcula のメロディーにつながっているからです。
このアレルヤは、新しい典礼暦の幼子としての主の到来の喜びをも表し、同じメロディーが三回繰り返されます。
トニックのソの音で始まり、ドミナントのレまで上がり、三回のモティーフが繰り返されます。
歌詞の最初の言葉 de profundis のメロディーは、アレルヤの歌いだしと全く同じで、昇階唱 Liberasti nos のなかにモティーフが入っています。
「私は叫んだ」clamavi は、熱烈な表現となっています。美しい力強いクレッシェンドで歌わねばなりません。
「主よ」Domine という呼びかけは二回繰り返されます。最初は謙遜に、愛を込めて、二回目は懇願するように熱烈に歌います。
この曲の頂点は「聞き入れ給え」exaudi で、この単語のアクセントが力強く最も高く上がります。これは霊魂の叫びで、人類の苦しみ全てを合わせた主への祈りの叫びです。十字架の上でのイエズス・キリストの叫びを思い起こさせます。
このあと、「私の声を」vocem meam で全ては静かになります。あたかも何事もなかったかのようにアレルヤのモティーフが繰り返されます。
ミサ天書では orationem meam (私の祈りを)となっていますが、グレゴリオ聖歌の楽譜には vocem meam (私の声を)となっており楽譜の通りに歌います。
いくつかの音源をご紹介いたします。聞き比べてくださいね。
リギュゲの大修道院による録音
Alléluia : De profundis Abbaye de Ligugé
トリオルの大修道院による録音
Alléluia : De profundis Abbaye de Triors
ソレムの大修道院による録音
シロスの聖ドミニコ大修道院による録音
【下の記事を参考にしました】
L'Alléluia "De profundis"
Découvrir le grégorien : l'Alleluia De profundis
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖霊降臨後第24主日の固有文のアレルヤ唱を黙想しましょう。(これは聖霊降臨後第23主日から聖霊降臨後最終の主日まで同じアレルヤ唱です。)
Allelúia, allelúia.
De profúndis clamávi ad te, Dómine : Dómine, exáudi vocem meam. Allelúia.
アレルヤ、アレルヤ、主よ、深い淵々から私は御身に向けて叫んだ。主よ、私の声を聞き入れ給え。
詩篇 De profundis は、死者の典礼に関係があります。そこで、深い淵々というのは、死の淵のことで、至福直感を待つ霊魂たちの待望の状態のことで、煉獄のことです。
煉獄では、愛徳と希望とうちに天主に呼び求めます。
地獄では、憎しみと反乱と逆恨みと呪いと罵りの叫びです。地獄には痛悔はなく、そこから抜け出ることもできません。天主からあれだけの恵みを受けていながら、地獄ではそれを感謝するのではなく、それを憎むのです。自分のせいではなく、他者のせいだ、と罵るのです。
ところで、ここではこの「深い淵」とは現在の人間の条件を意味します。天国へと旅する私たちの今ある世界の条件です。
天主は人となって私たちのうちに住み給い、辱めを甘んじ受け、私たちの「深い淵」を自分のものとし、これに福音を告げ給いました。天主が人となり、童貞女聖マリアの御胎内に宿りたもうた、という想像を絶することが起きました。
この人間としての条件で、人となった天主御子は御父に祈りを上げます。天主が人となってくださらなければ、私たちの天主への叫びも無駄だったことでしょう。御托身の神秘において、私たちのこの祈りの叫びは十字架の上でのイエズス・キリストの叫びに吸収され、祈りに力が与えられます。
この主日に歌われる「深い淵」は、地獄ではなく、単なる煉獄でもなく、天主の愛による浄めを受けている私たちのいるこの世界です。罪によって傷つきながら天主に向かって祈る力をもつ人類の霊的な・道徳的な・物理的な・心理的な深い淵です。私たちが祈ることができるのも、天主からの賜物であるお恵みをいただいているからであり、深い憐れみの淵を呼び求める深い憐れさの淵です。
そこで、これは典礼暦の最後のアレルヤ唱ですが、それと同時に新しい典礼暦(主の御降誕への準備)につながっています。
メロディー的には、このアレルヤは昇階唱と分けることができません。アレルヤの出だしが、紹介唱の最後の言葉 confitebimur et in sæcula のメロディーにつながっているからです。
このアレルヤは、新しい典礼暦の幼子としての主の到来の喜びをも表し、同じメロディーが三回繰り返されます。
トニックのソの音で始まり、ドミナントのレまで上がり、三回のモティーフが繰り返されます。
歌詞の最初の言葉 de profundis のメロディーは、アレルヤの歌いだしと全く同じで、昇階唱 Liberasti nos のなかにモティーフが入っています。
「私は叫んだ」clamavi は、熱烈な表現となっています。美しい力強いクレッシェンドで歌わねばなりません。
「主よ」Domine という呼びかけは二回繰り返されます。最初は謙遜に、愛を込めて、二回目は懇願するように熱烈に歌います。
この曲の頂点は「聞き入れ給え」exaudi で、この単語のアクセントが力強く最も高く上がります。これは霊魂の叫びで、人類の苦しみ全てを合わせた主への祈りの叫びです。十字架の上でのイエズス・キリストの叫びを思い起こさせます。
このあと、「私の声を」vocem meam で全ては静かになります。あたかも何事もなかったかのようにアレルヤのモティーフが繰り返されます。
ミサ天書では orationem meam (私の祈りを)となっていますが、グレゴリオ聖歌の楽譜には vocem meam (私の声を)となっており楽譜の通りに歌います。
いくつかの音源をご紹介いたします。聞き比べてくださいね。
リギュゲの大修道院による録音
Alléluia : De profundis Abbaye de Ligugé
トリオルの大修道院による録音
Alléluia : De profundis Abbaye de Triors
ソレムの大修道院による録音
シロスの聖ドミニコ大修道院による録音
【下の記事を参考にしました】
L'Alléluia "De profundis"
Découvrir le grégorien : l'Alleluia De profundis