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5. 1. 本当に天主を探し求めているか否か (ルフェーブル大司教の伝記の続き)

2006年10月07日 | ルフェーブル大司教の伝記

第5章 修練者司祭(1931年 - 1932年)


本当に天主を探し求めているか否か


 宣教になろうという多くの召命が、聖霊司祭会に嬉しくも一度にどっと押し寄せたため、------1929年には司祭たちになろうとする修練者の修練院だけでも 120人の青年が志願した----- フランスの聖霊会員たちは仕方なく修練院をふたつに分けたざるをえなかった。オルリー (Orly) の他にもう一つ、ロレーヌ地方のヌェフグラングジュ (Neufgrange) の修練院を作った。


 マルセル・ルフェーブル神父が 1931年 9月 1日に行ったのは、オルリーの修練院であった。パリの南方オルリーのド・グリニョン通り (Rue de Grignon) 126番地に位置し、敷地には直角に立てられた二つの建物があり、その本館には地上階と二階、及び宿泊用に改造された屋根裏の階があった。それには多くの付属の建物やきれいで大きんなゴシック様式の聖堂もあった。お互いに見合わせる四列の修道者席がこの教会の建物全体を占めており、聖歌隊用の聖堂二階にはパイプ・オルガンがあった。


 やや小さい庭園と菜園とがある中庭は、歩き回る空間や夢想する余地をほとんど残しておかなかった。また接した野原は共同体が遠距離散歩をする日に休息用としてのみ使われた。これが若い修練者を待っていた厳格な受け皿だった。オルリーという名前は確かに空港を思い浮かべるが、「当時には、まだ現在の空港は存在しなかった。ただ一つの空軍基地だけがあった。ヘリコプターの前身である'ジャイロコプター'が私たちの頭の上を飛び回っていた。」と 1934-1935年の修練者は追憶する。


 1931年 9月の初日にマルセル・ルフェーブル神父は、聖霊修道会に召命があるのか試してみようとする弟のジョセフ ---- しかし彼はその道を長続くことはなかった ------ を連れて夕方に'グリニョン'と呼ばれる門の前に到着した。彼は、門の向かえの土手に座っている青年達のグループに気が付いた。彼らは嘲笑的なめでマルセル・ルフェーブルを眺めていた。マルセルは彼らに近付いた。


「こんにちは。ここで何をしているのですか? 呼び鈴を鳴らすべきでしょうか?」
「その必要はありませんよ。鳴らしても返事がないから。」
「だららこうやって待っているんですか?」
「そうです。待っています。」
「それでは何を待っているのですか?」
「決まっているじゃないですか。門が開くのを。」
「でも何故開かないのでしょう?」
「私たちを試すためにわざとそうしているのです。扉を閉めて。」
そこでマルセルは言った。
「ああ、なるほど。それは聖ベネディックトの規律のようですね。『初心者を修道生活に易々と受け入れるべきではない』とあります。」


 聖ベネディックトは、ただずっと門を叩き続けなければならないと言ったのだった。
 そこでマルセル神父はしつこくベルを長く鳴らし続けた。が、無駄だった。

「聖ベネディックトが暗示するように『四、五日間』私たちを待ちぼうけにさせておかない限り!」


 いよいよ待ったかいがあって、たとえ夕やみがせまる前ではあっても、志願者たちは小さなドアがあくのが見えた。しかしこの冷ややかな夕立ちのような最初は、彼らの食欲を増幅させた。また彼らはただ黙々と食べることではあっても暖かいスープによって元気を取り戻した。彼らは、他のどんな難しさにも耐える覚悟を押し堅めたのだった。昔から言い古された金言によれば、修練期とは「修道生活に入ろうとする候補者が、共同体が自分にあうかどうかを調べるために、自分の力と性格を試す時期、修練長は修練者が共同体に適しているかどうかを見るために研究して試す期間」である。


 マルセルはいま引用した聖ベネディックトの章を何度も何度も読んでいた。


 聖なる太祖聖ベネディクトはこう書いている。
「初心者の世話をするために、霊魂たちの信頼を勝ち取るに適しているような古参の修道者を任命すること。彼は、全てにおいて初心者を監督し、初心者が真に天主を探し求めているか否か、彼が天主の御業と従順と屈辱とを熱心に追い求めているかを心使って心配すること。」


 そうだ。マルセルは「天主を探し求める」こと以外の他の理由でここへ来たのではなかった。従順と屈辱の試練に関することは、マルセル・ルフェーブルはそれを実践することを望んだ。何故なら、従順と屈辱を受ける試練は修練期のプログラムの一部であるからだ。


 世界各地 ----- カナダからポーランドまで、トリニダードからモーリス島(マダガスカルの東方にある)---- から来た 60人の修練者の中には布教事業を呼びかける教皇様の呼びかけを聞いた神学生たちがかなり多くいた。この「より良い使命」の呼びかけに引きつけられたなかには、2人の司祭を含むサンタ・キアラから来たマルセルの同僚 3名もいた。3名のうち最初の、ジャン・ウォルフ (Jean Wolff) はフランスのサン・メクサン(Saint-Maixent) 教会の助任として2年を過ごしたばかりだった。彼は後にマダガスカル (Madagascar) のディエゴ・スアレズ (Diego-Suarez) の司教になるだろう。次は 1923年にマルセルと一緒にサンタ・キアラに入ったエミール・ロラン (Emile Laurent) で、入学当時、彼は最年少学生だった。ローマで特別研究の一年を過ごした。エミール・ロランとともに、ルフェーブル神父は「ますます大いなる友情を新たにした」。他の修練者たちでは、トゥルクワンの聖母聖堂主任司祭の甥で、将来の「ガボン人」になるジャン・ムケー (Jean Mouquet) がいた。さらに、教会に 7名の子供達を聖職者に出したブルトーニュ地方の家族の12人の子供達の中で9番目であるジョセフ・ミシェルもいた。12月には将来また別の「ガボン人」となるジーユ・シヤール (Gilles Sillard) や、将来コナクリ (Conakry) の大司教になるジェラール・ド・ミルヴィル (Gerard de Milleville) が修練者のグループに合流した。他方で、ロベール・デュゴン(Robert Dugon)は 12月 8日に修練生活を終えた。



(つづく)

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