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歴史は、イエズスがした多くの印、奇蹟、言葉、教え、教会の制定などが歴史上の事実であると認める

2006年05月31日 | ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

アヴェ・マリア!

ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

 イエズス・キリストは天主か?


(ここでは日本語での誤解を避けるために神と言う言葉を避け、天地の唯一の創造主という意味で「天主」という言葉を使っています。何故なら、神というと、例えば、東照宮では徳川家康でも「神」として祀られており曖昧な概念だからです。)



ダ・ヴィンチ・コードの主張「キリストは単なる死すべき人間の預言者であった。あらゆる点において例外的な人間であったが、人間に過ぎなかった。しかし325年のニケア公会議で天主の聖子と宣言された。これは教会とローマ帝国にとって、その権力を保証する手段であった。」


歴史の主張「非キリスト教徒およびキリスト教徒の残した史料によると、イエズスが存在したことは議論の余地のない歴史的事実である。固有の意味での歴史は、イエズスがした多くの印、奇蹟、言葉、教え、教会の制定などが歴史上の事実であると認める。歴史は、キリスト教徒らがその最初からイエズスをメシア、天主の聖子、救い主であると信じていたと断言する。325年のニケア公会議は、原初の信仰の再確認でしかない。」



 イエズス・キリストが天主であることに関する新約聖書の明確な証言とは別に、始めからキリスト教徒がイエズスを天主であると信じていたという非キリスト教徒の証言が存在する。ビトュニアのローマ総督小プリニウスは、西暦112年に、キリスト者らがキリストを天主として褒め称える参加を歌っていると証言している。(L. 10, l. 96)


 ニケア公会議の以前から、アンティオキアの聖イグナチオ(117年没)、ユスティヌス(165年没)、聖イレネオ(200年没)、アレクサンドリアの聖クレメンテ(215年没)、テルトゥリアヌス(225年没)などは、はっきりとイエズス・キリストが天主であることを宣言している。

 


 では以下に、シェアン司教著 「護教学」 第六章 イエズス・キリストは、ご自分が天主であると主張している を見てみよう。


□ イエズス・キリストの、ご自分が天主であると主張した事実に関する証明 □


■第一項■


★ 三福音書は、キリストが天主であると主張した事実を証明する



【キリストは、全人類をさばく天主であると主張している】



 キリストは、「人の子 が、その栄光のうちに、多くの天使をひきつれてきて、・・・諸国の人びとを前にあつめ、次に彼らをひとりひとりわけるだろう 」といっています。こういう宣言をあえてなしうる者は、天主だけです。天主でなければ、全人類のあらゆる人たちの内心の状態を読みとって、各人に相当する至当な賞罰を与えうるものはいません。


 キリストは同所で、さらに強調し、続けていっています。審判の日に、キリストは「王」としてたちあらわます。そして善人にむかって「援助を必要とした人びとをたすけたことは、つまりわたくし自身を助けたことになる 。」それから、次に悪人にむかっては反対に、「他人をかろんじたものたちは、つまり、わたくし自身を軽視したことなのだ」というのです。


 それゆえ、キリストは、善人をよみし、悪人をきらう天主とご自分とを同じものにしているわけです。キリストは、ご自分が天主なる律法者であると主張しています。・・・ファリザイ一派の人たちは、イエズスの弟子たちがサバト、すなわち安息日をけがしたといって非難したとき、イエズスはこたえて、「人の子は、じつに、安息日の主人である 」といっています。その意味は、「わたくしは、安息日を制定した天主であるから、サバトに拘束されなくともよい」ということです。


 山上で説教したとき、「あなたたちもおそわったとおり、昔の人は、殺すな、「殺すものは審判される」と教えられていた。しかし、わたくしはいう、兄弟にたいして怒りをもつ者は、みな裁判を受ける 」と教えています。この談話のなかで、キリストは何度も、「あなたたちは教えられている、しかしわたくしはいう」という表現をつかっています。もしキリストが、単なる人間で天主の特使にすきないということを主張するものとすれば、けっしてこういう宣言をしてはならなかったわけです。なぜなら、もし、そういう意図でこのような表現をつかったとすれば、天主をはなはだしく侮辱する汚聖行為で、途方もないうぬぼれになるからです。


 キリストは心からの尊敬と謙遜とをもってこの表現に固執したのです。「天主はいまこそ、あなたたちに宣言することをわたくしに命ずる」からです。キリストが、実際にここで教えている言葉は、キリストが個人の権力をもって十戒に関するただしい解釈と再吟味とを強調していることを示しています。こういう権能は、シナイ山において律法を与えた天主だけがもつ権能です。

 


【キリストは、ご自分が全能であることを主張している】



 キリストは天主のペルソナで、天主の子であること、また、父と同じ権能をもっていることを主張しています。「わたくしには、天と地との一切の権力が与えられています。・・・すべてのものは、わたくしの父からわたくしにまかせられた。父のほかは、子が何ものかを知っている者はなく、父が何ものかを知っているのは、子と、子が示した人のほかにはいない 」のであると。


 キリストは、天上においても地上においても天使にたいしても、被造物のうえにもおよぶ権力、このような権力は、天主だけがもつものですが、これらの権力をことごとくもっていることを主張しています。こういう主張をあえてすることによって、キリストは、ご自分が、単に天主のペルソナであることを宣言しているだけではなく、天主の子として、父から一切をうけていること、そのうえ、父とは相互の認識において神秘的に一致していること、父に関しては、ご自分だけが、望むときに人に知らせることができるということを強調しているのです。

 

【キリストは、子であるが、天主であること、すなわち、本性においては父とひとつであることを主張している】



(a) ある日イエズスは、カイザリアの近傍で、弟子たちに、「人びとは、人の子を誰だといっているか」とたずねた。弟子たちは、「ある人は洗者ヨハネといい、ある人はエリア、またある人ほイェレミア、あるいは、預言者のひとりだといっている」とこたえた。イエズスが、「ところで、あなたたちはわたくしを誰だと思うのか」というと、シモン・ベトロが、「あなたはキリスト、活ける天主の子キリストである」とこたえた。イエズスは、「シモン・パルヨナ、あなたは幸いな人である、その啓示は、血肉からのものではなくて、天にましますわたくしの父からでたのである 」と。聖書の用語法によると、「天主の子」という言葉は、転義的な意味で、「友人」とか、「天主のしもべ 」という意味でつかわれていることがあります。しかし、ここでは、転義的な意味における天主の子でないことははっきりしています。なぜなら、そういう意味だとすれば、洗者ヨハネも、エリアも、預言者たちもみな、「天主の子」であったはずだからです。また、もしペトロが、同様の意味でこの言葉をつかったものとすれば、父なる天主の啓示など少しもいらなかったわけです。


(b) 司祭長たち、ならびに律法学士たちが、そばできいていたときのこと、イエズスは人びとにひとつのたとえを話しました。すなわち、ある人がぶどう畑をつくって、小作人にその畑を貸し与えた。やがて、ぶどう畑からあがる収入の一部をおさめさせようと思って、しもべを次次と使いにだしました。ところが、小作人たちは使いの人びとに何も与えずにおいかえしました。そこで、主人はついに、「さて、どうしたらよかろう。わたくしの愛する子をおくろう 。かれを見たなら、おそらく尊敬するのではなかろうか」と考えた。ところが小作人たちはその人を見ると、ひそかに、「あれは相続人だから、殺してしまえば財産は私達のものになる」とたがいに相談し、そして、その人をとらえてぶどう畑のそとにつれだして殺してしまった。さて、ぶどう畑の主人は、小作人達をどう処分するだろうか。彼はきて、小作人たちを殺し、ほかの人たちにぶどう畑を与えるだろう、と 。


 このたとえをきいた人たちはみな、キリストが何をいおうとしているのかわかったのです。このたとえは、はっきりした預言で、ユダヤ人が多くの預言者を殺し、最後には、天主の愛子までも殺し、その結果、彼ら自身の破滅をまねくことになるであろうということを話しているということがわかったのです。それで絶叫してこういった。「そんなことがおこらないように」と。キリストをとりまいていた人びとのうちには、多くの友人たちもいましたがほかの司祭長とか、律法学士たちは、キリストのいおうとする事柄の意味をすぐに了解しました。そして、このたとえのなかで、天主のまことのおん子を殺す自分たちのすがたを見たのです。


(c) 聖金曜日の朝、イエズスは衆議所に出廷していた。「大司祭が、イエズスに、あなたはキリストか、祝せられたものの子か、とたずねると、イエズスは、そのとおりです。あなたたちは人の子が、力あるものの右にすわり、天の雲にのってくるのを見るであろう、といった。そのとき、大司祭は自分の服をひきさいて、どうしてこれ以上の証人がいるか、あなたたちは冒涜の言葉をきいたのです。それをどう考えるか、といった。彼らは口をそろえて、その罪は死刑に価すると決定した」のです。何が冒涜であったのか。いうまでもなく、それはイエズスが、天主の真の子であり、父と本性において同じであると宣言したことが、冒涜と見られたのです。この冒涜のゆえに、彼らはキリストを死刑に決定したのです。

 


★ ヨハネ福音書は、イエズスがご自分を天主であると主張していることを立証する


【キリストは天主の特権を主張している】


 ユダヤ人たちが「あなたは、まだ五十才にもならないのに、しかも、アブラハムを見たというのか」といったとき、イエズスは、「まことにまことに、わたくしはいう。アブラハムが存在する以前に、私は存在している」と言った。「父は、すべての人が父を尊ぶと同じように、みなが子を尊ぶように、審判のことをことごとく子にまかせた」のです。キリストはニコデモにいっています。「子を信じる人はさばかれないが、信じない人は、天主のおん一人子の名を信じなかったために、すでにさばかれている」のであると。


 キリストは自分自身を、生命にいたる「門」であるといい、「ぶどうの木」で、私達はすべて、その枝であると教えています。彼は、「道であり、真理であり、生命である」という。キリストは苦難に入る前晩に天父に祈って、「父よ、この世が存在するよりさきに、わたくしがあなたのもとで有していたその光栄をもって、いま、わたくしに光栄をあらわしてください。わたくしのものはみなあなたのもの、あなたのものはみなわたくしのものである」と、いっています。


 以上の真理を証拠だてるテクストは、聖ヨハネ福音書からも、他の福音書からも、たくさん引用することができます。

 


【ユダヤ人たちは、キリストがご自分を天主であると主張していた事実を承知していた】


 イエズスはユダヤ人たちにいっています。「わたくしと父とはひとつである」と。そこでユダヤ人たちは、ふたたび石をとりあげてイエズスを殺そうとしました。それは、「あなたは人でありながら、自分を天主とするから」という理由によるものでした。イエズスが、安息日に病人をなおしたというので、文句をつけるユダヤ人たちに、「わたくしの父は、いまもはたらいているのですから、私もはたらく」といいました。この言葉を聞いて、「彼らは、イエズスを抹殺しようとする決意をさらにかためた。なぜなら・・・キリストが、天主を自分の父と呼び、ご自分が天主とひとしいものだといったからでした。」


 イエズスは、彼らがどうしても理解しないので、「・・・すべて父のおこなうことは、何によらず、子もまたこれをおこなう。・・・父が死者を復活させて生命を与えるように、子もまた、自分の望む者達に生命を与えるのである 」といっています。ピラトが、イエズスを釈放したとき、ユダヤ人たちは、「私達には律法があります。律法によれば、彼は死にあたる。みずから、天主の子と名乗ったからである」と叫んだのです 。

 

■第二項■
 キリストの行動は、彼が天主であると主張した事実を証拠だてている



 イエズスは、天主から遣わされた単なる使者としてだけではなく、天主ご自身として、多くの奇跡をおこしています。「たとえ、わたくしを信じないでも、わたくしのすることを信じなさい」と言っているが、することというのは奇跡のことです。


「そうすれば父がわたくしにおられ、わたくしが父にいることを知って悟るだろう 」ともいっています。キリストは、人びとがご自分を天主として礼拝することをゆるしています。


 イエズスが、生まれつきの盲に視力を回復してやったとき、「あなたは人の子を信ずるか」といった。彼は「主よ、わたくしが信仰すべき者とは誰のことですか」とたずねると、イエズスは「あなたはそれを見ている、あなたと話している人がその人だ」といった。すると彼は、「主よ、わたくしは信じます」と言って、ひれ伏してイエズスを礼拝したのです 。


 イエズスは、また、かれ自身の権能をもって罪をゆるしています。イエズスは、中風にかかっている人に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」といった。ところが、律法学士がこれをききとがめて、「天主のほかに罪を赦すことができる者はない」と心のうちで考えた。するとイエズスは、彼らがそう考えていることを悟り、すなわち、「天主の他に罪を赦すことができるものはない」という考えを、そのまま肯定して、しかも彼が、すでに罪の赦しを与えたことを知らせるために、「人の子が地上で罪を赦す権力をもっていることをあなたたちに知らせよう」と中風の人に、「たって、床をとり家にかえれ」と命じました。すると、彼は突然立ちあがり、床をもちあげ、人びとの目の前を通って行ったのです。


 イエズスの足に接吻し、涙をもって足を洗ったマリア・マグダレナに、イエズスは、「あなたの罪は赦された」と言いました。それから、食卓についていた人びとにむかって、「かの女は、多く愛したから、多くの罪が赦されたのである」といっています。罪は、天主の愛によって赦されるのです。従って、キリストは、自分に対する愛は、とりもなおさず天主に対する愛であるということを教えているわけです。別な言葉でいうと、イエズスは、ご自身が天主であることを主張しているのです 。



■第三項■
   使徒たちも弟子たちも、キリストが、ご自分を天主であると主張していたことを承知していた



 キリストの死後には、ユダヤ人も異邦人も、キリスト教徒はみな、キリストの天主性を宣言したのですが、これは明白な事実であって、否定することができません。またこれらの人たちは、キリストの天主性を証明するために、苦難を甘受し、生命をかけていた ことも否定できない事実です。こういう事実はまた、キリストがご自分を天主の子である、と主張していたことを、彼らが知っていたということを前提にしてこそ、はじめてわかることです。



 以上、シェアン司教著 「護教学」 第六章 より



【著者紹介】 マイケル・シェアン(Michael Sheehan)は、1870年12月にアイルランドのウォーターフォード市(Waterford)のニュータウンで生まれました。メイヌース(Maynooth)で最高の成績で司祭職の準備をし、1895年6月にウォーターフォードのカテドラルで叙階されました。その後オックスフォード大学、グリーフスヴァルト大学、ボン大学で勉強し学位を取りました。1900年にはメイヌースに戻ります。ラテン語とギリシア語に優れ、1919年にはメイヌース大学の副学頭になります。1922年にはオーストラリアのシドニーの補佐司教として聖別されシドニーで働くのですが、1937年には健康状態が優れないためにアイルランドに戻ります。アイルランドでは、アイル語に興味を覚えてこれをマスターし、アイル語で説教をします。


 シェアン司教は古典語の教授でありつつ、カトリック宗教と教会の基礎を取り扱う「護教」という本を執筆しました。1945年3月ブラックロックにある自宅でシェアン司教は聖なる生涯を閉じました。

この「護教」のこの部分は、

http://www.d-b.ne.jp/mikami/apolog2.htm

にアップされています。ごゆっくりどうぞ


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 兄弟姉妹の皆様、ダ・ヴィンチ・コードの冒涜の償いのために多くの祈りをお願いいたします。日本の司教様や教会の指導者の方々のためにお祈りをお願いします。

 天主の御母聖マリアよ、我等のために祈り給え!

 


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