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「教皇ベネディクト16世 黙想と祈りによる十字架の道行き」より

2006年03月23日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言

アヴェ・マリア!


 昨年の4月19日には、聖ピオ十世会総長ベルナール・フレー司教様は、新しいベネディクト16世教皇様が誕生したことを祝って祝辞を述べた。http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila274.html あれからもう1年になろうとしている。



 一年前の聖金曜日、教皇ベネディクト十六世(当時の信仰教義聖省長官ラッツィンガー枢機卿)は、十字架の道行きの黙想を指導していた。その内容は今年の2月に女子パウロ会の貝原敬子姉妹によって「教皇ベネディクト16世 黙想と祈りによる十字架の道行き」(女子パウロ会)という本になって紹介されている。


 私は 「マニラの eそよ風」274号 http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila274.html では、次のように訳した。


「・・・
 私たちは、キリストがご自分の教会自身において苦しんでいるに違いないと言うことを考えなければならないのではないだろうか。

 御聖体において虚ろで悪い心が頻繁に入っているが、私たちはキリストの現存する御聖体を、どれほど多く乱用しているだろうか!

 私たち自身でさえも、どれほど多く、キリストの現存を意識さえもせずにミサを執行していることだろうか!

 キリストのみ言葉がどれほど多く歪められ曲げられていることか!

 非常に多くの理論において、何という信仰の欠如があることか!

 どれほど多くの空っぽの言葉があることか!

 教会においてどれほどの汚れがあることか!

 特に司祭職においてキリストにまったく属しているべき者たちにおいて、どれほどの汚れがあることか!

 何という傲慢そして自己充足!

 キリストが私たちの失墜から立ち上がらせてくれるために私たちを待っておられる和解の秘蹟に対して、何という関心の欠如があることか!

 これら全てはキリストの御受難に存在している。弟子達の裏切りとキリストの御体と御血を相応しくないにもかかわらず拝領することは、確かに、贖い主の最も大きな苦しみ、聖心を貫く苦しみである。・・・


 主よ、私たちにはしばしば、御身の教会は沈みかけている小舟のように、あちこちから水が入っている小舟のように思えます。私たちは、御身の畑において良き麦よりももっと頻繁に毒麦を見いだします。御身の教会のかくも汚れている服と顔は、私たちをして恐れさせます。しかしこれを汚しているのは私たち自身なのです。私たちの美しい言葉ときれいなジェスチャーの後で、毎回御身を裏切っているのは、私たち自身なのです。・・・」

 






 しかし今、貝原敬子姉妹のさらに分かりやすい訳を見よう。

「黙想 

 重い十字架の下にイエスはまたお倒れになります。三度もお倒れになったということについて、何を言うべきでしょうか。おそらく、人間の一般的なつまずきについて、多くに人のキリスト離れについて、神不在の世俗主義に向かう時流について考えなければならないでしょう。しかし、私たちは、キリストがご自分の教会において苦しんでおられることを考えなくてもよいのでしょうか?

 キリストの現存である聖なる秘蹟(=御聖体のこと)が、どんなに濫用されていることか、しばしば、虚ろな心や悪意に満ちた心の人にも拝領されているのです。

 私たちはどれほど、イエスについて何の意識も持たないまま、ただ自分たちのミサを行っていることでしょう。

 どれほど神のことばがないがしろにされ、濫用されていることでしょう。

 多くの理論・学説にわずかな信仰、何といむなしい言葉

 何とひどい汚れが、教会の中に、またすべてイエスのものであるはずの司祭たちのあいだに見られることか。

 何という傲慢、自己満足

 何という、ゆるしの秘蹟に対する尊敬の足りなさ。イエスがそこで、私たちの罪から立ち直らせるために待っておられるというのに。

 これら全てが、イエスの受難の中に現存しているのです。弟子たちの裏切り、イエスの御体と御血の不謹慎な拝領は、確かに、贖い主の最大の苦痛であり、彼の心(=聖心のこと)を刺し貫くものです。

 魂のもっとも奥深いところから主イエスに向かって、主よ、憐れんで下さい、と、叫び声を上げるほかありません。「主よ、私たちを救って下さい」。


祈り

 主よ、あなたの教会は、しばしば、今にも沈みそうな船、あちこちからあいた穴から浸水してくる船のようです。あなたの麦畑もまた、よい麦よりも毒麦のほうが多いように見えます。あなたの教会の、汚れた衣や顔に驚かされます。しかし、それは私たち自身の汚れです。私たち自身、大きなことを言うたびに、大げさに振る舞うたびに、あなたを裏切っているのです。・・・」



 教会のこの苦しみをよく理解しているはずの教皇ベネディクト十六世が、なさなければならないことを勇気を持ってなして行かれるように、私は祈る。

 

 


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