Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ローマとの関係について、ベルナール・フェレー司教へのインタビュー

2012年06月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会総長のフェレー司教様のインタビューを日本語に訳して下さった方があります。これはインタビューが発表された翌日にすぐに訳してくださったものですが、私の個人的な時間の関係で、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介することが出来ませんでした。遅ればせながらご紹介いたします。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。
 その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Interview with Bishop Bernard Fellay on relations with Rome
ローマとの関係について、ベルナール・フェレー司教へのインタビュー


DICI: ローマからの返答が遅れていることについて、聖ピオ十世会の教会法上の承認に反対する人々が、一部の司祭たち、信者たちを当会から遠ざけてしまう可能性があるかも知れないと、あなたは懸念なさっていますか?

フェレー司教: すべてのことは天主のみ手の内にあります。私は善き主と天主のみ摂理に信頼を置いています。天主は、ご自分を愛する人々の善のために、返答が遅れているとしても、すべての物事を成し遂げる方法をご存知です。

DICI: 一部の雑誌に書かれているように、教皇様の決定は中止になったのですか? 返答が遅れる可能性があることを聖座から告げられましたか?

フェレー司教: いいえ、どんな予定に関する情報も知らされていません。教皇様は、七月にカステル・ガンドルフォでこの問題に取り組むおつもりだと言う人々さえいます。

教義的な解決の前に、教会法上の解決をすることとは?

DICI: 教会法上の承認を兄弟会が承諾することに反対する人々は、このように断言しています。(2009年から2011年にかけての)教義に関する話し合いにより、
ローマが「教義に関する同意による解決」が無いかぎり、つまりローマによる「回心」が無い限り、この教会法上による正常化という承諾が生じる可能性があると。この点について、あなたの主張は変わったのでしょうか?


フェレー司教: ぜひ認識していただきたいことは、この話し合いの数々は、私たちが第二ヴァチカン公会議に関して経験するさまざまな問題点を、はっきりと示す許可をくれたということです。ローマがもはや、教会法的解決のために、公会議の全面的承認を必須条件としないという事実は、はっきりと変化があったということです。今日、ローマでは、公会議は教会の未来のために絶対に必要なものではないと、別の理解をもって眺める人々がいます。(彼らの見解によると)教会は公会議を超えるものだからです。つまり教会はもっと広大である、と。ですから、私たちはもっと広範囲に渡る解決のため努力すべきです。この新たな認識は、実際には何が起きているのか、理解する一助となってくれます。つまり、私たちが保持し続けることのできた聖伝の宝を、他の人々にもたらす助けとなるため呼ばれているのだ、ということをです。

ですから、教会当局の態度は変化しています。私たちが変わったのではありません。私たちが同意を願ったのではなく、教皇様の方が私たちを承認なさりたいのです。なぜこのような変化が起きたのか? と皆さんはお尋ねになるかも知れません。私たちは教義的には、いまだ同意してはおりません。ですが、教皇様は私たちを承認なさりたいのです! なぜか? 答えはまさしく私たちの眼の前にあります。すなわち、今日、教会には痛ましい重大な問題がいくつもあるということです。この問題の数々に取り組まなければなりません。私たちは二番目の問題は脇に置き、一番重要な問題に対処しなければなりません。公には決して言わないでしょうが、これは、ローマの高位聖職者の誰かが述べた答えです。皆さんは、行間を読んで理解する必要があります。

ローマ当局は、第二ヴァチカン公会議の誤謬を認めたくありません。彼らは決してはっきりとは口にしません。にも関わらず、皆さんが行間を読むなら、当局がこの誤謬の一部を修正することを望んでいるとわかるのです。ここに、司祭職のテーマに関する興味深いひとつの例があります。皆さんはご存知ですが、公会議に端を発する司祭職の新しい概念があり、それが司祭の役割を破壊してしまいました。今日、ローマ権威者たちが司祭のまことの役割を回復させようとしているのが、非常にはっきりとわかります。私たちはすでにこのことを、二〇一〇年から二〇一一年に起きた司祭年の間に観察しました。今や聖心の祝日は、司祭たちの聖化に捧げられた日になりつつあります。この行事のため、一通の書簡が発表され、司祭のための良心の究明箇条が作られました。この良心の究明個条を見つけるため、ローマ当局はエコンに行ったのだと言う人がいるかもしれませんが、この究明箇条は、公会議以前の霊性の道筋に非常に沿ったものなのです。この究明箇条は聖伝の司祭の姿を提示し、教会におけるその役割をも提示しています。この役割は、ルフェーブル大司教様が兄弟会の使命を描いたときに確認しているものなのです。すなわち、司祭職を復興させることで教会を復興させるということです。

書簡は述べています、「教会と世界は、司祭の聖化を通してのみ、聖なるものとなり得る」。書簡は、実際に司祭を中央に置いているのです。この究明箇条はこのような問いで始まります。「司祭である私の第一の関心は、自身の聖化であるか?」 二番目の問い「ミサの聖なる犠牲は」──これはそこで使われている表現です。感謝の祭儀でも集会でもなく、それとも他にどんな言葉があるか知りませんが──「私の生活の中心であるか?」 そして、この究明箇条はミサの締めくくりの部分を思い起こさせるのです。すなわち、天主の賛美、祈り、罪の償い……。すべてを語っています。司祭はおのれを生贄としなければなりません──この「生贄とする」という言葉は使われておらず、むしろ「おのれを与える」、救霊のためおのれを犠牲にすると書いてあります。本当にそう書いてあるのです。そして臨終について喚起させる言葉が出てきます。すなわち「私は頻繁に臨終について考えるか? 臨終の時に忍耐できる恩寵を乞い願うことを考えるか? 信者たちにそうするよう思い出させるか? 瀕死の者に最後の秘跡を与えるため見舞っているか?」 このローマの書類ははっきりと、聖伝の司祭の見解を賢明なやり方で想起させているとわかるでしょう。

もちろん、このことで問題のすべてが片づいたわけではありません。教会内には依然として重大な困難がいくつもあります。すなわち、エキュメニズム、アシジ、信教の自由……しかし事情は変化してきており、事情だけなく、状況自体も変化しています……。私は、外側の関係と内側の状況を区別しています。外側との関係は変わってはいません。が、教会内で起きていることはというと、ローマ当局は、少しずつその状況を変えようとしています。今日、明らかに深刻な被害が依然として残っています。そのことに気づくべきであり、私たちはそこから眼を背けません。が、起き始めていることにも、眼を向けなければなりません。この司祭のための良心の究明個条は、意味のあるひとつの実例です。


教義的諸問題へ向けての私たちのあるべき態度とは?

DICI: エキュメニズム、信教の自由といった重大な困難の数々が残ったままであると、あなたはお認めになっていらっしゃいます……。教会法上の承認がもたらされた場合、この困難に関して、あなたはどういった態度をお取りになりますか? 保留にしておく必要はないとお思いですか?


フェレー司教: ご質問に、三つの問いで答えることをお許し下さい。すなわち、公会議中に導入された目新しいことは、教会内の教勢率を上げ、召命を増やし、信仰の実践に役に立ったでしょうか? それどころか、キリスト教世界のすべての国々で「沈黙の背教」が現れているのを見ないでしょうか? こういった問題の数々に直面しても、私たちは沈黙を守ることができるのでしょうか?

私たちが霊魂の善のために、聖伝の宝を豊かに実らせたいなら、話し行動しなければなりません。私たちには、話すことと行動することという、この二重の自由が必要です。しかし、教義的誤謬についての[行動という中身を伴わない]口先だけの非難──口先に過ぎないだけに、いっそう論争的になる非難には、私は疑いを抱くかも知れません。

聖ピオ十世会によって提示された支持者数と事実に対しては、ローマと教区の権威者たちは神学的議論よりもっと敏感になるだろうと、ルフェーブル大司教様は、その持ち前の現実主義で認識していました。ですから、私はこう言ってはばからないのです。教会法上の承認がもたらされたなら、教義上の問題の数々は、[眼の前の]事実そのものが教える知識、聖伝の生き生きとした具体的なしるしと一緒に、私たちによってさらに際立たせられると。そうなるには、ローマとの話し合いの数々の段階に関係して、私が二〇〇六年に申し上げたように、私たちには「聖伝のミサに信仰を持つこと、ミサにおいて、ミサそのものに教義と秘跡の完全性を求めること、霊魂たちの奉仕においてもたらされるあらゆる霊的な実りに確信を持つこと」があるべきです。

DICI: 二〇一二年は、あなたの司教聖別式の年である一九八八年ではありません。二〇〇九年には破門が解かれ、二〇〇七年には、トリエント・ミサが「決して廃止されたことはなかった」と公に認められましたが、教会がいまだに回心していないという事実を会員の一部は、今、嘆いています。四十年間の異例の状況が原因で、彼らが教会法上の承認を前もって拒否しているということは、ローマの権威に従うことへの理解を、ある種妨げる結果となってしまっているのではないでしょうか?

フェレー司教: ここ数日で起きていることは、自分自身が置かれた立場によって作り出された危険な状況に関する、私たちの弱さの一部をはっきりと見せています。大きな危険の一つに、結局、理想的に映る教会の姿を自ら発明して終わることです。教会の実際の歴史の中で、そんなものは事実見つからないのです。教会内で「安全に」働くためという主張する人がいます。教会はまず初めに誤謬を一掃しなければならないのだと。これは、すべての合意の前にローマが回心するべきである、もしくは私たちが働けるように、まず初めに誤謬を抑えなければならない、と彼らが主張するときに言うことです。しかし現実的ではありません。教会史の過去を見れば充分です。つまり、私たちはたびたび、ほぼ必ず、教会の中に誤謬が蔓延しているのを眼にします。教会を再建した聖人たちは、誤謬の数々と戦うために教会を離れたりはしませんでした。私たちの主は、世の終わりまで常に毒麦があり続けるだろうと言われました。良い収穫や、良い麦だけでなく。
[訳注: マテオ十三章二十四~三〇節、三十六~四十三節]

アリウス派の時代に、司教たちは、真理を誤解していた人々を説得するため誤謬のただ中で働きました。彼らは、何人かの人々が今口にするように、外側に存在していたいとは言いませんでした。もちろん、こういった「内側」「外側」という表現は、常に注意深く使わなければなりません。私たちはカトリック教会のものであり、カトリック信者だからです。しかし、そういうわけで、彼らが誤謬にどっぷり浸かっているという名目で、教会の中にいる人々を説得することを拒めるのでしょうか? 聖人たちがしたことを見て下さい! 善き主が、新しい状況、真理の軍隊において、接近戦の中に私たちが身を置くことをお許しになるなら……。これこそ、教会の歴史が私たちに提示する現実です。福音はキリスト教徒をパン種に例えています。つまり、パン生地の中の私たちという存在なしに、パンが膨らむことを私たちは望みますか?
[訳注: ルカ十三章二十節]

今のところ、[前述したことは]あり得ないかのように表現する人々がいるこの状況の中で、私たちはちょうど、すべての時代の聖人たちがしたように、再建のため、来て働くよう願われているのです。もちろん、それで危機がなくなるわけではありません。しかし、私たちに今、行動するため、生きるため、成長するための充分な自由があるならば、このことは成し遂げられるはずです。私たちに充分な保護があるという条件で、このことは成し遂げられると本当に思うのです。

DICI: 兄弟会の中に、意識していようといまいと、教皇空位主義者の考えを支持する会員がいると思われますか? その人たちの影響を危惧しておられますか?

フェレー司教: 実際そのような考えに影響される人はいるかも知れません。しかし、今に始まったことではありません。その数は多くはないと思いますが、彼らは害悪、特に間違った噂を広めることで害をもたらし得ます。しかし、私たちの中での主な懸念は、何が起こるかわからない、罠をしかけてくるかも知れないという恐れとともに、ローマ権威者たちへの信頼を疑う気持ちがあるということです。個人的には、そういうことはないと確信しています。が、兄弟会としてはローマに不信感を抱いています。あまりに多くの失望を味わったからです。罠かも知れないと疑ってかかる人々の理由はこれです。私たちの敵が、この申し出を罠として利用するつもりかも知れないというのは正しいのですが、教皇様は、本当にこの教会法上の承認を望んでおり、罠として私たちにそのことを申し出たのではありません。


ローマの申し出が "法律上"(de jure) と "事実上"(de facto)許すことは何か?

DICI: 教皇様は、個人的に兄弟会の教会法上の承認をお望みだと、あなたは何度もおっしゃいました。これが本当に教皇様のご意向であるという、聖下ご自身からの新しい個人的な保証があるのですか?

フェレー司教: そうです、教皇様はそれをお望みです。そして私はそのことを繰り返し繰り返し言いました。自分の発言が真実であると宣言するに充分な、正確な情報を持っています。ですが、私は教皇様と直接の面会の機会を持ったことはありません。──むしろ、教皇様の側近の方々のみです。


DICI: 兄弟会の三名の司教様の署名入りの四月十四日付けの手紙は、残念なことにインターネットで広められてしまいました。この司教様たちの分析は教会内の状況と一致していることを提示していますか?

フェレー司教: 三名の司教様たちがそれぞれの主張を変える可能性があることを、私は否定しません。ルフェーブル大司教様に聖別された私たちにとっての最初の課題は、聖伝を生き残らせること、という課題です。法律上そして事実上(de jure and de facto)、「すべてをキリストにおいて復興させる」ために、ローマの申し出が兄弟会にとって正真正銘の良い機会を含んでいると、私の同僚たちが眼にし、理解するならば、今日、教会内に存在し続けているあらゆる難問にも関わらず、三名の司教様たちはその判断を見直すことができるでしょう──つまり、教会法的地位を片手に、[カトリック教会に起こっていることの]事実をテーブルの上に乗せてみせる(つまりじっくりと話し合う)ということです。そうです、私はそう思い、そう希望します。私たちはこの意向のために祈らなければなりません。

DICI: 兄弟会の会員を含む世界中のいたるところに、あなたがカトリック・ニュース・サービス(CNS)に答えたインタビューの一部分を利用する人々がいます。このインタビューの一部分は、あなたの視点から見ると、ディニタティス・フマネ(信教の自由に関する宣言)は、もはや問題を引き起こさないと示唆しているかのように見えます。
このインタビューは、あなたが言いたかったことの意味を変えて編集されたものですか? この問題について、ルフェーブル大司教様が教えたことに関してのあなたの主張はどういったものなのでしょうか?


フェレー司教: 私の主張は、兄弟会とルフェーブル大司教様の立場です。このような細心の注意を払う問題においては、私たちは例によって区別をつけなければいけません。この区別の大半は、テレビ放映されたインタビューが六分未満にまで短縮されたことで消えてしまいました。しかし、私の述べたことを元にCNSが作成した報告書は、放映されたバージョンに含まれなかった私の発言が再録されています。つまりこうです。
「フェレー司教は、ベネディクト教皇の、信教の自由が本質的に教会の聖伝とつながっているものとしての解釈──兄弟会の多くの者が声に出して反対した主張です──に同意せずにとどまったが、フェレー司教は、共感を含んだ言葉で教皇の考えを説明した。」 実際は、私は信教の自由によってもたらされた問題に対し、聖伝という解決策がすでにあることをわかりやすく思い起こさせたのです。つまり、それは寛容(tolerance)です。公会議に関し、「第二ヴァチカン公会議は聖伝に属しますか?」と彼らが私に質問した時、私は「そうだと思いたいですね」 "I would like to hope that that is the case" と答えました(フランス語では不完全に「そう思います」"I hope so" と訳されました)。この答えは、聖伝の光に照らして公会議を理解するという、ルフェーブル大司教様がなさった、区別する考えのラインにきわめてよく沿ったものです。つまり、聖伝に同意していることを私たちは受け入れ、疑わしいことは、聖伝が常に教えてきたこととして理解します。聖伝と逆のことは拒否します。


聖ピオ十世会と教区司教たちとの関係


DICI: 「属人区」は、最近の声明であなたが言及した教会法的組織のことです。現在、教会法の第二九七条では、教区司教たちに情報を与えるだけでなく、彼らの教区で事業を始めるためには許可を得ることを要求しています。どんな教会法上の承認を受けても、現状の私たちの使徒職を保持するだろうということは明白です。ただし、今日聖ピオ十世会が存在しないところでは、その教区の司教たちの許可があって初めて、今後の仕事が可能になるかも知れないということを、あなたは受け入れるほうに傾いているのですか?


フェレー司教: この質問については多くの混乱があります。裁治権を持つ教区司教と「属人区」との間の通常の関係を読み違えると同様に、主に「属人区」の性質を誤解していることから来ています。それに加えて、今日、「属人区」のただ一つの有効な例は、オプス・デイであるという事実です。しかしながら、はっきりと言わせて下さい。もし「属人区」が私たちに与えられるなら、私たちの状況は同じではありません。よりよく理解するために、何が起ころうとしているのか、私たちの地位は「軍人教区」military ordinariate に非常によく似たものになるのかも知れないと、じっくりと考えてみなければなりません。私たちは信者たちの上に通常の司法権を持つことになるからです。従って、私たちは教区の一種、彼らの領域の状況に関係なく、すべての信者たちにまで及ぶ司法権のようなものになるでしょう。

すべての小聖堂、教会、修道院、学校そして兄弟会の、兄弟会と協力している修道会の事業は、それぞれの職務のため、実際に自治権を持つでしょう。

新しい聖堂を開くため、事業を創設するため、その司教区の司教の許可を得ることが必要であるということは──教会法がそう命じているので──本当です。私たちはかなりはっきりと、教区における私たちの現在の状況がいかに大変なものであるかをローマに報告しました。そしてローマはまだそれを調査中です。あちらでもこちらでも、この困難は現実とものとなるでしょう。しかし、いつから人生とは困難ではないものになったのでしょうか? 十中八九、私たちはまた多くの相容れない問題を抱えるでしょう。つまり、私たちに友好的な司教たちから来る要求には答えられないだろうということです。私は、ある司教が教区で未来の司祭たちを養成する責任者になることを、私たちに要求してくる可能性について考えています。

その時、私たちの関係は、一人の司教区の司教に対する一修道会の関係になることは断じてありません。どちらかといえば、私たちの関係は、一司教と別の司教との関係に似たものなるでしょう、ちょうど離散状態のウクライナ人とアルメニア人たちと同じようです。従って、問題が生じて、解決されないならば、それはローマに上告されるでしょう、そして今度は、問題に終止符を打つため、ローマが介入してくるでしょう。

ついでに言わせて下さい。先月オーストリアで、この問題についての私の意見に関してインターネットで報告されことは、まったくのでたらめです。


DICI: 教会法上の承認があるならば、兄弟会と協力している聖堂と、教区に独立して働いている教区司祭らの聖堂には何が起こるのでしょうか? 兄弟会の司教様たちは、堅振の執行と聖香油の提供を続けるおつもりですか?

フェレー司教: これらの司祭たちが私たちとともに働くなら、なんの問題もありません。つまり、今とまったく同じです。そうでないなら、すべてのことは「司教区から独立して働いている」とは、どういう意味かによります。

DICI: エクレジア・デイ委員会傘下の修道会とあなたとの関係には、違いが出てくるのでしょうか?


フェレー司教: 最初の違いは、彼らが私たちを離教者として扱うことをやめざるを得ないだろうということでしょう。将来的な発展については、私たちに近くに寄って来る人々もいること明らかです。彼らはすでに控えめながら私たちを認めているからです。そうでない人々もいますが。新しい状況の中で聖伝がどのように発展するか、時間がたてばわかるでしょう。私たちは聖伝による使徒職に大きな期待を抱いています。ちょうどローマの重要人物たちの一部がそうであるように。教皇様ご自身も期待しています。私たちが参入することで聖伝が発展するだろうことを、私たちは大いに希望しているのです。


DICI: もう一度お尋ねします。教会法上の承認があれば、あなたはローマ・クリアの枢機卿の一部、もしくは司教の一部に、私たちの聖堂を訪問すること、ミサを捧げること、堅振を執行すること、おそらく、あなたの神学校で司祭を叙階する機会さえも、与えるおつもりでしょうか?


フェレー司教: 聖伝に賛成な司教たちと保守的な枢機卿たちは近づいてくるでしょう。特に細かな詳細を知らなくても、全体的発展を先読みすることができます。そして間違いなく困難も生じるでしょう。困難は常につきまとうものです。皆が私たちを訪問しに来るだろうことに疑いの余地はありませんが、もっとはっきりとした協力、ミサの執行と叙階といったことに関しては状況次第であり、ちょうど私たちが聖伝が発展していくことを希望しているように、司教たちと枢機卿たちの間で発展していくのを眼にすることを希望しています。いつの日か、すべては聖伝に調和しているでしょうが、どのぐらい時間がかかるのかは、天主のみがご存知です。


DICI: ローマの決定を待つ一方で、あなたの内的な意向はどんなものでしょうか? 聖伝に忠実な司祭たちと信者たちのために、あなたが願う意向と何でしょうか?

フェレー司教: 一九八八年、ルフェーブル大司教様が四人の司教を聖別すると告知なさったとき、そのことを励ます人たちもいれば、やめさせようとする人たちもいました。しかし私たちの創立者は、その眼に入るものに、天主のみ旨と教会の善の他は何も求めなかったため平和を保っていました。今日、私たちが持つべき同じ内的な意向がここにあります。当会の聖なる保護者と同じく、聖ピオ十世会は「すべてをキリストにおいて復興させる」ためという望みを持っています。今はまだその時ではないという人もいる一方で、それどころか、これはちょうど良い時だという人もいます。私が知っていることは一つだけです。すなわち、天主のみ旨を行うための時は常にあり、天主はちょうどよい時、聖霊の導きを私たちが受け入れようと準備された時に、私たちにそれを知らせて下さるということです。こういうわけで、聖心の祝日、六月十五日に、聖ピオ十世会の至聖なるイエズスの聖心への奉献を更新してくれるよう,そのための準備として、すべての修道院で聖心の連祷をノヴェナとして唱えるよう司祭たちにお願いしたのです。すべての人は、キリストにおいてすべてのものを復興させるための従順な道具となるための恵みを求めて、祈りに加わることができます。
(DICI no. 256 二〇一二年六月八日付)


========================
いつもこのブログを読んで下さってありがとうございます。

BLOG RANKINGです。クリックで応援して下さい。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村のランキングです。クリックで応援して下さい

兄弟姉妹の皆様のご関心と応援とを感謝します。
========================




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。