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1990年9月6日、ルフェーブル大司教様の講話(スイスのエコンにて)

2012年06月29日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

 1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話を日本語に訳して下さった方があります。私に自由な時間が与えられず、愛する兄弟姉妹の皆様にすぐにご紹介することが出来ませんでした。遅ればせながらご参考にご紹介いたします。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。

 その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が
聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話

<>和訳者補足

【SSPXアメリカ管区サイトの掲載文】

 将来に関してですが、私は一般信徒たちが皆さんに尋ねるかも知れない質問、例えば「ローマとの関係は打ち切られるのでしょうか?」という、司祭会の中で起きている事柄について良く御存知でない人々から私がしばしば受ける質問について少しだけお話したいと思います。

 数週間前、恐らく三週間前になりますが、私は再びオッディ枢機卿閣下から「ところで大司教様、解決の方法を何もお持ちでないのですか?」という電話を頂きました。そこで私は「閣下こそ変わる必要があります。聖伝にお戻りください。これは典礼の問題ではありません。信仰の問題なのです。」と答えました。枢機卿閣下は抗議しました「いえ、いえ、これは信仰の問題じゃありません。いえ、違います。教皇様には貴方を迎え入れる準備が出来ていますし、そうする事をお望みなのです。貴方の側で、赦しを求めるほんの僅かな意思表示をして下さい。ちょっとした懇願でいいですから。そうすれば全て決着するのです。」オッディ枢機卿はちょうどこんな感じで話します。

 ですが、彼は何一つ分かっていません。どこにも行き着きません。行き止まりです。彼は何も理解していないか、何も理解したくないかのどちらかです。残念ながら、同じ事が約四名の枢機卿方に当てはまります。パラッツィーニ(Palazzini)、スティックラー(Stickler)、ガニョン(Gagnon)そしてこのオッディ枢機卿です。彼らはローマで発言力や影響力を持っていませんし、一切の影響力を失っているます。今彼らにできることとは、聖ペトロ会の為に叙階式を執り行なったりする事だけなのです。それ以外に彼らの仕事はありません。皆無です。

 一方で、問題は相変わらず深刻であり、相変わらず非常に深刻なままです。私たちは絶対にそれを軽視してはいけません。つまり私たちとしては「何時になればこの危機は終わるのでしょうか?私たちは何処かに向かっているのですか?私たちの典礼や秘蹟に対して許可を頂く方法はないのですか?」という類の質問をして来る一般信徒の皆さんにこう答えなければならないのです。

 もちろん典礼や秘蹟の問題は重要ですが、それが最重要の問題ではありません。最重要の問題とは信仰の問題なのです。ローマではこの問題が未解決のままです。私たちにとってそれは解決済みなのです。私たちは永遠の信仰を持っています。それはトレント公会議公教要理や聖ピオ十世の公教要理の信仰であり、またそれ故にカトリック教会の、全公会議の、そして第二バチカン前の全教皇たちが持っていた信仰なのです。今や公式の教会は、第二バチカンの誤った思想と重大な誤謬の中で、言ってみれば頑固に堅忍しているところです。それだけははっきりしています。

 タム(Tam)神父様がメキシコから私たちにオッセルヴァトーレ・ロマーノ紙の切抜きを送って下さっています。それは教皇聖下やカザロリ枢機卿、またラッツィンガー枢機卿による演説の記事です。これがカトリック教会の公文書なのですから、誰もがその確実性を疑えません。この内容は唖然とさせるものです。

 近頃(私は失業中ですから)私は、自由主義カトリック教義(le catholicisme libéral)について、皆さんよく御存知のバルビエ神父執筆の本 l’Histoire du liberalisme <自由主義の歴史>を再読しました。私たちの戦いがちょうどフランス革命以降になる、十九世紀の偉大なカトリック教徒たちのそれであって、ピオ六世、ピオ七世、ピオ八世、グレゴリオ十六世、ピオ九世、レオ十三世、聖ピオ十世という、ピオ十二世までの教皇たちが交えた戦いであると知る事は感動的です。それでは、この戦いは何処に要約されますか?それはピオ九世によるクワンタ・クーラ(Quanta Cura)シラブス(Syllabus)、そして聖ピオ十世によるパッシェンディ・ドミニチ・グレジス(Pascendi Dominici Gregis)に於いてです。これらの文書は素晴らしいもので、当時の騒ぎを起こし、聖座の教義が近代の誤謬に面と向かって発表されました。近代の誤謬とは、革命中に表明された誤謬、それは特に人権宣言の中にある教えです。

 これが、今日私たちがそのただ中にある戦いで、同じ戦いです。つまりシラブスに賛成する人々、クワンタ・クーラに同意する人々、パッシェンディに賛成する人々がいて、またそれに反対する人々がいます。とても単純です。

 これらの公文書に反対する人々は、革命の原理である近代主義の誤謬を受け入れています。またこれらの公文書を擁護する人々は、真のカトリック信仰に留まっているのです。

 では、第二バチカンは反シラブスであるとラッツィンガー枢機卿が公式に発言された事を皆さんは良く御存知ですね。これで、彼は明らかに反シラブスの立場を取っているのです。それはつまり彼が革命の原理を取り入れているという事になるのです。さらに、彼ははっきりとこう言いました:「カトリック教会は【第二バチカン公会議によって】、自分の原理ではなく、近代社会に由来する原理を自分のものにしようと、自らを開いた。」教会の原理ではなく、近代社会に由来する原理とは、皆が理解するように、フランス革命の原理、人間の権利です。

 私たちはちょうど、ピ(Pie)枢機卿やフレッペル(Mgr. Freppel)司教、ルイ・ヴォイヨ(Louis Veuillot)、アルザス地方の代議士ケラー(Keller)、スイスのメルミヨ(Mermillod)枢機卿の立場にいます。彼らは大多数の司教たちと共に善き戦いを戦ったのです。当時は自分に賛同してくれる大多数の司教を得るという幸運がこの彼らにありました。

 しかしながら、デュパンルー(Dupanloup)司教や、彼に続いた一部のフランス人司教たちは例外を作り上げ、反シラブス派をつくりました。同様に、ドイツやイタリアのごくわずかの司教たちは公然とシラブスとピオ九世に反対しましたが、これはどちらかと言えば例外的でした。

 もちろん、革命勢力や、革命を相続する勢力らが存在しており、デュパンルー(Dupanloup)、モンタランベール(Montalembert)、ラムネ(Lamennais)などが革命に援助の手を差し伸べており、これらの支援勢力もありました。彼らは人権に反対してまでも天主の権利を守ろうとはしませんでした。これらのリベラル派が言っていたことは、「私たちは、全ての人間にの権利のみを要求する、つまり全ての各人にがもつ、全ての宗教が持つ、権利であって、私たちが要求するのは天主の権利ではない」です。

 私たちはそれと同じ状況にいます。幻想を抱いてはいけません。つまり私たちは非常に熾烈な戦いをしている真っ最中なのです。しかし教皇たちの全系列によって保証されている戦いを私たちは闘っているのです。尻込み又は恐れる必要などありません。

 ある方々はこれかあれを変更して、やはりローマと教皇には力を貸したいと思われるかも知れません。

 もしもローマと教皇が聖伝の戦線にいて、十九世紀と二十世紀前半の全教皇たちの仕事を継続しているのであれば、もちろんです。ところが彼ら自身、自分たちが新しい道を採用した事や、第二バチカン公会議が新たな時代の幕を切って落とした事、そしてカトリック教会が新しい段階を経験している事を認めています。

 信徒たちにはこの事を教えるべきだと私は思っています。彼らが教会史全体とひとつになっていることです。何故なら、結局のところこれは革命前にまでも遡るからです。つまり天主の国に対するサタンの国の戦いにまでです。

 どうすればこれは解決するのでしょうか?これは天主の秘密であって、神秘です。ただ心配する必要はなく、善き天主の恩寵に信頼する必要があるのです。

 ラッツィンガー枢機卿やカザロリ枢機卿、ヴィルブランド(Willebrands)枢機卿、その他多くの人々同様に、教皇の口から表明している思想である、現在のローマに蔓延している思想と戦わなければならないのは明白です。これらの思想は、教皇たちが一世紀半に亘って荘厳に述べ、断言された事柄の逆を繰り返す事しかしないので、私たちはそれと戦います。

 ですから選ばなければなりません。次は私が教皇パウロ六世に申し上げた事です。「私たちは聖下と公会議を選ぶか、あるいは聖下の前任者たちを選ぶか、どちらかを選ぶことを余儀なくされています。カトリック教会の教義を主張された前任者たちについて行くべきでしょうか、それとも聖下が主張された第二バチカン公会議の新しさについて行くべきでしょうか。」

 彼は私に「おお、ここで神学論争をしている場合じゃありません」とお答えになりました。ですからそれははっきりしています!少しも躊躇するには及びません。
(続く)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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