Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

今、韓国カトリック教会では何が起こっているのか?(仏教編 その六)

2006年05月05日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

今、韓国カトリック教会では何が起こっているのか?

エキュメニズム関連 韓国情報(仏教編 その六)


韓国カトリック指導者らは、ブッダの誕生日に挨拶を送る


 ソウル(韓国)、ソウル大司教区のチョン・ジンソク・ニコラオ枢機卿は、ブッダの誕生日を記念して韓国の全ての仏教徒らにメッセージを発した。
http://www.buddhism.or.kr/news/speech/_board_view.asp?article_id=4414&page=11&search_key=&search_value=
http://www.buddhism.or.kr/news/order/_board_view.asp?article_id=659&page=1&search_key=&search_value=



 4月26日のそのメッセージにおいて枢機卿はこう言った。
「私は、この春、全てが新しくなる時、ブッダの誕生日を記念して全ての仏教徒の皆さんに祝賀を申し上げます。」今年は5月5日がその日に当たる。


 枢機卿は、今日、憎しみ、敵対、そして多くの種類の差別が世界中に幅をきかしていることを指摘し「そのために、私たちはブッダの教えがもっともっと必要です。私たちはブッダの慈悲にならい、愛を実践することによって多くの問題を解決することが出来る、これこそ全ての宗教の基本的な教えだ、と信じています。」と言った。


 枢機卿は、教皇ベネディクト十六世が、この多元主義の時代において諸宗教の対話と調和が必要であることを強調したと述べ、諸信仰の対話を活発にすることにより、平和な社会をつくることを助けたいという意向を持っていることを表明した。


 4月25日、韓国カトリック司教評議会は、例年のバチカンからのブッダ誕生日のメッセージを韓国語に訳して、曹渓宗に送った。曹渓宗は韓国語でもっとも大きな韓国仏教の一派である。このバチカン・メッセージ「共に人類に奉仕する仏教徒とカトリック信者」というタイトルで、教皇庁 諸宗教対話評議会 議長 マイケル・フィッツジェラルド大司教が、2月にエジプトとアラブ諸国の教皇大使として任命される前に、署名したものである。


 曹渓宗は、チョン枢機卿のメッセージと共に、このバチカン・メッセージの韓国語訳を自分のホームページ
http://www.buddhism.or.kr/news/order/_board_view.asp?article_id=657&page=2&search_key=&search_value=
に掲載している。

【以下は、日本語訳
 万物が新しい生命で生まれる春に仏様が来られた日を迎えたすべての仏者の皆さんに祝いのあいさつをします。

 仏様は無限な善意と自卑心を施しました。しかし私たちが住む世の中には今も絶え間ない紛争、憎悪と対立、多様な種類の差別が存在しています。 したがって今日私たちに仏様の教えることはより一層必要です。私たち皆が、仏様の慈悲にならい、すべての宗教の根本教えである愛を実践する時このような問題を解決することができるでしょう。 いつも自分の主張だけ打齣すのではなくお互いにお互いを尊重して気配りしながら持ったことを一緒に分ける時、私たちの住む世の中はまことに平和な世の中になるでしょう。

 教皇ベネディクト十六世は多元化時代の宗教間和合と対話を強調しました。 我が国もより一層活発な宗教間対話を通じて平和な社会を建設し、皆が人類の共同善の増進に寄与することができるのを希望します。

 もう一度仏様来られた日の喜びを一緒に分かち合って、私の枢機卿任命を祝ってくださった仏者の皆さんにこの機会を祈って感謝のあいさつをします。

仏紀 2550年仏様のいらっしゃった日
カトリックソウル大司教区
教区長ジョン・ジンソック枢機卿】


【バチカン・メッセージの日本語訳は、http://www.jbf.ne.jp/
にある。「灌仏会」お祝いメッセージ カトリック中央協議会より 2006/04/12 
 
「共に人類に奉仕する仏教徒とカトリック信者」

親愛なる仏教徒の皆さま

  1.灌仏会を迎える仏教徒の皆さま、また世界中の仏教共同体の皆さまに、教皇庁諸宗教対話評議会を代表して、私は心からのお祝いを申し上げます。皆さまが、喜びに満ちたお祝いの時を過ごされますよう願っております。

  2.今年も、この機会を拝借し、私たち双方の共同体の絆をいっそう強められるよう、いくつかの考えを皆さまと共に分かち合いたく存じます。今回は、教皇ベネディクト十六世が、世界中のカトリック信者に向けて発布した最初の回勅に基づいて考えてみたいと思います。それは、『神は愛』という書簡で、ラテン語では、『デウス・カリタス・エスト』という題がつけられており、愛の性質に関する考察です。教皇さまは、「愛」という言葉、頻繁に使われながら、多くの場合誤って解釈されているこの言葉が、再び本来の正しい意味合いを見いだし、日々の生活を導くものとなるべきことを確信しておられます。

  3.べネデイクト教皇は、二つのタイブの愛について語っておられます。一つ目は、「エロース(性愛)」、すなわち男性と女性の間の愛で、自分自身の幸せを求める愛です。二つ目は、「アガペー(愛徳)」で、相手のためになることを求める愛で、相手がそれを気に入らなかったり、それについて知らないという場合もあり得ます。カトリック信者にとって、この二つ日の愛は、神への愛、すなわち神が人間に対して示された愛に私たちが応えることにより初めて可能になります。このように神への愛と、同胞である人々への愛は、切り離すことができないもので、ただ一つの掟を形成します。「愛は愛によって成長します。愛は“神聖なもの”です。なぜなら愛は神から来るもの、私たちを神と一つに結ぶものだからです」(『神は愛』18)

  4.私たちカトリック信者は、「アガペー(愛徳)」の完全な現れは、生涯を通じ、言葉とわざもって神の愛のよきおとずれを説かれた神の子、イエス・キリストのうちにあるということを信じています。この愛は、イエスが全人類のために自らの命をお与えになったとき最高の形で示されました。また、とくにご聖体という形でご自分をお与えになったイエスは、いっそう「アガペー(愛徳)」の源であるといえます。カトリック信者は、この源から汲み取り、兄弟柿妹、とくに貧しい人、苦しんでいる人々に愛を示しながらイエスの足跡に従おうとしています。

  5.仏教徒の皆さまは、「メッタ(慈)」という概念の内に示されている愛を人々に与えておられますが、私たちはその大切さを皆さまとの対話を通して知ることができました。その愛は、所有欲のない、人々を助けようとする愛です。それは、人類の善のために、利己的な関心を犠牲にする覚悟をもった愛であると考えられています。仏教の教えによれば、「メッタ(慈)」は、単に善意を抱くというだけでなく、ひとりひとり、全ての人に仕えるために、慈善のわざを実践するところまで及びます。それは、真に普遍的な善意です。もう一つ忘れてならない功徳は、「カル- ナ(悲)」です。これを通して、生きとし生けるものに対する優しい慈悲が示されます。

  6.世間では、愛という言葉がよく使われ、また乱用されていますが、仏教徒とカトリック信者が、それぞれ自らの伝統を出発点として、この言葉の本来の意味を再発見し、それぞれ自らが理解したことを分かち合うならば、それこそ有益なことではないでしょうか。愛と真理に基づく関係を築き、相互の尊重を深めながら、対話と協力を促進させ、必要を抱えている人々のために奉仕し、一緒に働いていくことは、仏教とキリスト教、いずれの伝統に従う者にとっても励ましとなることではないでしょうか。

  7.これらのことを思い巡らしながら、私は最後に、この灌仏会のお祝いが、仏教徒とカトリック信者の友好をいっそう強め、「アガペー(愛徳)」と「メッタ(慈)」の精神のうちに、私たちの協力関係をますます深めてくれる時となるように願います。このような精神をもって、わたくしはあらためて皆さまに心から灌仏会のお喜びを申し上げます。

2006年2月14日
教皇庁 諸宗教対話評議会
議長 マイケル・フィッツジェラルド大司教

http://www.jbf.ne.jp/php.module/index.php?mode=detail&ct=jbf&id=377


 法頂僧侶は4月25日にブッダ誕生日のメッセージを発した。
「苦しみのうちに判別の鋭い目を開ける人々は、仏を見るだろう。愛のうちに贖いに気が付いている人々は、イエズスを見るだろう。」

 法頂僧侶は、人々が日々出会う全ての人々において生きている仏を見るように、と促した。彼によれば、サマンタバドラ・ボディサットヴァ(良く悟りを開いているもののもつみなぎる良さ)とマイトレーヤ(慈悲仏)はどこにでもある。

「"全てが仏である" という真理の中で、現実の本質は明らかにされ、私たち全ての前で無限の光が照らされる」と説明した。


Catholic leaders send greetings for Buddha's birth - Catholic Online
http://www.catholic.org/international/international_story.php?id=19634
より。

 

+++++++++
(’’)? 憎しみ、敵対、そして多くの種類の差別が世界中にある。「そのために、私たちはブッダの教えがもっともっと必要です。私たちはブッダの慈悲にならい、愛を実践することによって多くの問題を解決することが出来る、これこそ全ての宗教の基本的な教えだ」??


(’’)枢機卿様、お言葉ですが、キリスト教の「愛徳」と仏教の「慈悲」とは全く異なる概念です!

 (1)まず、キリスト教の愛徳は、全ての創造主、全ての善の源、全ての被造物の究極目的である天主への愛に基づいている。

「愛の源なる天主、主は限りなく愛すべき御者にましますが故に、われ、心を尽くし力を尽くして、深く主を愛し奉る。また主を愛するがために、人をもわが身の如く愛せんことを努め奉る。」

 この天主への愛は超自然のもので、全てを超えて、私自身さえも超える、限りのないものだ。

 私たちは被造物として天主の御旨を知り、これを愛を込めて話す義務を負う。それゆえ天主の十戒を遵守するのだ。
 また天主の御旨は「生めよ、増えよ、地に満ちよ。地の諸々の獣畜、天空の鳥、地に這う物、海の魚、おまえ達を恐れ、おまえ達におののく。これらはおまえらの手に与えられる。全ての生ける動物はおまえ達の食となるべし。」である。

 禽獣虫魚は人間とは全く異なる。人間は天主に似せて創られたが、他の動物たちには知性も意志もなく、永遠の霊魂を持たない。動物たちは、間接的に人間に使役されて創造の目的を達成する。そのために人間の善のために、食物となり、学術研究のために用いられることができる。こうして人間は万物の霊長となる。


(2)仏教の慈悲は、輪廻転生思想から由来している。この世で人間として生まれても、悪行の報いによって来世はその霊魂は地獄に廻ったり、畜生に廻ったり、するという説だ。

 だから行基菩薩の歌にも「ほろほろと、鳴く山鳩の声聞けば、父かとぞ思う、母かとぞ思う」とある。つまり、あわれ私のお父さん、お母さんが鳩に生まれ変わって鳴いているのかもしれない、と思っているのだ。だから、その山鳩を捕らえて殺すなら、自分の親を殺すかもしれない、家のニワトリは自分の祖父かもしれない、これを食べるのも祖父を食うも同然だ、だから仏教では殺生も肉食も出来なくなる。

 徳川第五代将軍の綱吉は、「生類憐れみの令」を発し、特に自分は戌年生まれなので犬を殺したものは斬罪に処した。イノシシ、狼、狐、狸が人民に害をなすようになり、人民を苦しめた。

 良く考えると仏教の絶対的不殺生は誰にも守ることは出来ない。何故なら、私たちの吸っている空気の中にも、飲む水の中にも、無数の微生物が生きており、もしかしたら彼らは私たちの親かもしれないからだ! 

 もしも人間と他の動物たちが同種類、同性質、同水準のものであり、多少の程度の問題でしかないとしたら、人間が他の動物を食用にすることが出来なくなる。この原理を受け入れた後に、未開の原始人が猿を食べるのを是認するなら、文明人が未開の野蛮人を食用にすることさえも是認しなければならなくなる。

 全ての人種が同等と主張するなら、一切の動物に、蚊にも蛇にも蚤にもシラミにも細菌にも先進諸国と同等の権利を与えなければならなくなる。この世は猛獣の天下となり、人間はその餌となるだろう。

 

(’’)? 「苦しみのうちに判別の鋭い目を開ける人々は、仏を見るだろう。愛のうちに贖いに気が付いている人々は、イエズスを見るだろう。」「"全てが仏である" という真理の中で、現実の本質は明らかにされ、私たち全ての前で無限の光が照らされる」??

 ほら、枢機卿様が「愛」も「慈悲」も同じだ、全ての宗教の根本だ、と曖昧なことを言うから、僧侶も同じことを言い始めている。つまりキリスト教も仏教も所詮は同じさ、と。


(’’)? 「共に人類に奉仕する仏教徒とカトリック信者」?

「愛の源なる天主、主は限りなく愛すべき御者にましますが故に、われ、心を尽くし力を尽くして、深く主を愛し奉る。また主を愛するがために、人をもわが身の如く愛せんことを努め奉る。」これが、キリスト教の愛だ。人間は、まず、天主に奉仕しなければならない。そうすることによって霊魂を救わなければならない。

 しかし、教皇庁の諸宗教対話評議会議長の大司教は、天主にではなく人類に(!)奉仕すると言っている。

 教皇ベネディクト十六世の回勅『デウス・カリタス・エスト』。教皇さまは「愛」という言葉が頻繁に使われながら、多くの場合誤って解釈されているというが、正に、自分でそう言っている先から誤った解釈へと導いているのではないだろうか?


(’’)? 残念ながら、これらのエキュメニズム運動は、私たちをして、天主のいない、超自然を否定する、キリストの不在の「宗教」へと導いてしまっている。


(’’)? 私たちは教会で洗礼を受ける時、教会からこう尋ねられた。
教会   「あなたは天主の教会に何を求めますか?」
洗礼志願者「信仰を
教会   「信仰はあなたにに何を与えますか?」
洗礼志願者「永遠の命を


(’’)? こんどから新しい教会で洗礼を受ける時、こうなるかも?
教会   「あなたは現代の教会に何を求めますか?」
洗礼志願者「エキュメニズム運動を
教会   「エキュメニズム運動はあなたにに何を与えますか?」
洗礼志願者「他宗教と共に人類に奉仕することを

 

(ー_ー )主よ、憐れみ給え! 聖母マリア様、憐れみ給え!


 兄弟姉妹の皆様、この五月の聖母聖月の間は、天主の御母聖マリアによくお祈りをお願いします。特に韓国のカトリック教会のために、お祈り下さい。

 

(´・ω・)  エキュメニズムってかなりすすんでいるんだなぁ、と思った方はクリックをお願いします。↓
http://blog.with2.net/link.php?269452

 

 

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】