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高取城跡をゆく

2013年09月22日 | 奈良にこだわる
昨日(9/21)、高取城跡(高市郡高取町高取)を訪ねた。NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」ガイドグループのMさん(ウチの会社の先輩)とSさんが9/29(日)、朝日旅行のツアー「日本100名城 第1回 京都・奈良の名城 二条城と高取城」でここをガイドするので、その下見に付き合ったのである。高取城跡は、山と渓谷社刊『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』によると、


子嶋寺(こじまでら)山門は、高取城の二の門を移したもの(この写真は07.9.1撮影。他は13.9.21撮影)

高取城は、南に吉野山を望み、北に奈良盆地を見渡す天険の地、標高583mの高取山に築かれた城で、近世の山城としては異例の高さと規模をもっていた。この城は、南北朝時代から江戸時代にかけて、主に越智・本多・植村各氏の居城となってきた。そもそも高取城は、南北朝時代に南朝方に味方した大和の武士越智氏が支城として、空堀を掘って築いた「かきあげ城」であった。


石川医院の門は、藩主下屋敷(新御殿)の表門だった

天正13年(1585)に百万石の太守として郡山城に入った豊臣秀長は、要害の地にある高取城を重視して、家臣の本多氏を入城させて城の拡充と整備に努めさせた。これによって高取城は、山城ではあるが平城式の規模も兼ね備えた雄大な城として面目を改めたという。江戸時代になって、寛永17年(1640)に植村家政が二万五千石の大名として高取城に入り、以後、植村氏は高取藩主として明治維新までおよんでいる。


壷阪口門跡

城内の諸郭はすべて石垣で固められ、本丸の壮大な石垣は二重構造になっている。500m以上の山上に造られた山城でありながら、山上の二の門近くに水堀を造り、また広い屋敷地をかかえこむ近世的な城郭に築きかえられている。


算木(さんぎ)積みされた石垣。直方体の隅石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで、強度が増す

ツアーのスタートは夢創館(高取町観光案内所)だ。ここで予習として、高取城再現CGを拝見する。トイレ休憩も兼ねる。そのあと時間があれば近くの「植村邸(高取藩・筆頭家老)長屋門」などを見て、大型観光バスで出発する。途中、壷阪寺でジャンボタクシーに乗り換え、八幡口下車(八幡神社近くの広場。一穴の仮設トイレあり)。ここから壷阪口門跡を経由してお城をめざす。


壷阪口中門跡

ゆるやかな登り坂だが、先日の台風で一部土砂が流され岩肌が露出していて、特に壷阪口門に至るまでの急坂が歩きにくい。当日のご参加者は60代後半から70代が中心とのことなので、注意を要する。そこを超えれば、普通の山道である。「昔は景色が良かったが、今は木が茂りすぎて下界の見えないのが残念」とMさん。しかし道の両側には、立派な石垣が見えてくる。Wikipedia「高取城」によると、




Mさん。NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」および「ナント・なら応援団」のメンバー

城は、高取町から4キロメートル程南東にある、標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て並べられ、城下町より望む姿は「巽(たつみ)高取 雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と謡われた。なお、土佐とは高取の旧名である。



曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ。日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。元和元年(1615年)の一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残されている。


十五間多門跡


二の丸跡

歴史・沿革
室町時代・安土桃山時代
南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が元弘2年(正慶元年、1332年)に築城したのが始まりと伝えられている。当初は越智氏の本城である貝吹山城の支城として機能していた。越智氏の支配が長く続き、戦国時代には高取城が越智氏の本城となっていたようである。天文元年(1532年)6月の飯盛城の戦いで圧勝した証如軍(一向一揆衆)は大和国に侵攻してきた。対立関係にあった興福寺の僧兵たちは越智氏のいる高取城に庇護を求めてきた。証如軍は高取城を包囲し、激戦となったようだが、筒井軍に背後を襲われた証如軍は敗走した(天文の錯乱)。


太鼓櫓跡


新櫓跡。この方は富山県のお城ファンで、100名城のうち62ヵ所を訪れたそうだ

その後、織田信長によって大和国内の城は郡山城一城と定められ、高取城は天正8年(1580年)に一旦は廃城となった。 天正11年(1583年)8月に筒井順慶の配下となっていた越智玄蕃頭頼秀が殺害され(自害とも)、越智氏は滅亡した。筒井順慶は、信長が本能寺の変で横死した後、天正12年(1584年)に支城網の一つとして本格的城塞へと改めた。




本丸のたもと。この上に天守(天守閣)があった。

天正13年(1585年)、筒井氏は伊賀国上野に転封となり、豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)が郡山城に入城し、大和国は秀長の配下となった。高取城には当初、秀長の重臣脇坂安治が入ったが、後に同じく重臣の本多利久に与えられた。天正17年(1589年)、利久は家臣諸木大膳に命じ、新しい縄張りをもって築造した。本丸には、多聞櫓で連結された3重の大小天守、二の丸には大名屋敷が造営され、城内には三重櫓が17基建ち並んだ。また、郭内には侍屋敷も整備され、他には類を見ない広壮な山城が出現した。家臣団は、山麓の高取市街に城下町を営んだ。



(本多)利久は、天正19年(1591年)に没した秀長の後嗣となった秀保に仕えた。文禄4年(1595年)、秀保が17歳で没した後、利久の子、(本多)俊政は秀吉の直臣となり1万5千石が与えられた。秀吉没後の混乱期に、俊政は徳川家康についた。慶長5年(1600年)、家康の上杉景勝討伐の際に、俊政は討伐軍に加わり不在であった。この隙に乗じ、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めたが、俊政の従弟・正広はこの要害のおかげで西軍を敗退させた。俊政は関ヶ原の戦いの後、東軍に付いた功を認められ、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となった。



江戸時代
俊政の子の政武は、寛永14年(1637年)嗣子なく没し本多氏の支配は終焉した。本多氏廃絶の後、桑山一玄(大和新庄藩主)と小出吉親(丹波国園部藩主)が城番となったが寛永17年(1640年)旗本の植村家政が2万5千石の大名に取り立てられ新たな城主となった。以後、明治維新最後の城主植村家壷まで植村氏が14代にわたって城主となった。幕末には、山上二の丸にあった藩主御殿は山麓に移され、天誅組の変で攻撃を受ける




近現代
明治2年(1869年)6月、版籍奉還により兵部省の管轄となり明治6年(1873年)廃城となった。入札により建造物の大半が近隣の寺院などに売却された。明治20年(1887年)頃まで天守をはじめとした主要建造物は城内に残っていたが人里離れた山頂であるため管理されずに自然倒壊したとされる。その一方で、明治6年(1873年)に建物の払い下げが行われ、7円35銭6厘(100円とも)で落札されるが一部を取り壊したのみで、明治20年(1887年)に黒門の払い下げ、明治24年(1891年)ごろに天守以下の建物全ての取り壊しが行われたともされる。




この内、二の門は町内にある子嶋寺の山門に、新御殿(藩主下屋敷)の表門は町内の石川医院の表門に、松ノ門は1892年(明治25年)に土佐小学校(町立高取小学校)の校門として移築された。1944年(昭和19年)、小学校で起きた火災により小学校は全焼、松ノ門は一部損傷し臼井家(伊勢屋・現在の金剛力酒造)が解体保存していたが2004年(平成16年)、児童公園の表門として復元した。確認されている高取城の現存構造物はこれらのみである。この他に、下屋敷表門を移築したものではないかと言われている門が残っていたが門は取り壊され石碑のみになっている。

殆どの建物は失われたが、遺構は人里離れた山頂にあることが幸いし、人為的に崩壊することなくほぼ完全な状態をとどめている。しかし、樹木が生長し根が張り出したり、維持管理や補修が充分でない事から石垣の形が崩れたり崩落の危険がある箇所もある。貴重な城郭資料として昭和28年(1953年)3月31日に国の史跡に指定された。平成18年(2006年)に、日本100名城に選定された。


本丸跡

本丸跡や天守跡に登ったあとは、来た道を引き返すのではなく、七つ井戸に至る急坂(近道)を降りる。この道は良く整備され、階段状になっているのだが、1ヵ所だけ、台風で流されたところがあり、ここだけは十分注意しなければならない。

司馬遼太郎は『街道をゆく7』に書いている。《高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古していていい。その石垣も、数が多く、種類も多いのである。登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐわいで、まことに重畳としている。それが、自然林に化した森の中に苔むしつつ遺っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば、最初にアンコール・ワットに入った人の気持ちがすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた》(城あとの森「大和・壺阪みち」)。

残っている石垣を見るだけでも、この城がとてつもない規模の大山城だったことがお分かりいただけたことだろう。9/29のツアーは、大都会のど真ん中にあり、きれいに整備された「二条城」と、標高500m以上の山中に築かれ、石垣だけが残る「高取城」という対照的な城を1日で体感する、という充実したツアーである。

ご参加の皆さま、どうぞお楽しみに!Mさん、Sさん、どうぞよろしく!

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2 コメント

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知られざる名城 (あをによし南都)
2013-09-22 08:59:53
やはり歴史の節目にこの地がポイントになるということでこんなオーバースペックな城になったのでしょうね。
事実その役割が幕末に果たされたわけですが、これでかえって明治以降は無視されてきたかのような印象です。
歴史遺跡全ての復元は無理ですし難しいですが、大和の地の歴史的多様性を示す観点や木材リサイクル、匠技術の観点からも本丸の一画は復元取り組めたらどんなに素晴らしいことかと思います。
いまでは樹木で難しいですが天守からでしたら絶景のビューポイントになるでしょうね。
幸い古写真で外観は判明しており木造復元は十分可能かと。
これだけの壮大な山城遺構があって、かつ証拠の観点から復元可能な城をそのままに城跡として放置しておくのは観光立国奈良としてまことに勿体無いことかもしれません。
個人的には散策のあとなぜか城内にある猿石を見学し、明日香村に降りていくのが印象的でした。
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高取城跡をメジャーに! (tetsuda)
2013-09-24 07:30:09
あをによし南都さん、コメント有難うございました。

> 大和の地の歴史的多様性を示す観点や木材リサイクル、匠技術の観点
> からも本丸の一画は復元取り組めたらどんなに素晴らしいことかと思います。

はい、本当にお願いしたいです。

> これだけの壮大な山城遺構があって、かつ証拠の観点から復元可能な城をそのままに
> 城跡として放置しておくのは観光立国奈良としてまことに勿体無いことかもしれません。

高取城跡を知る人は少ないですし、訪れる人はもっと少ないです。何か手を打たなければいけませんね、お隣の明日香村には、あれだけの方が来られているのですから。
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