寮管理人の呟き

全学連と全共闘 / 伴野準一(平凡社 2010年)

昭和40年代初頭の学生運動のピークから急降下への過程は私も知っているが、それ以前のドロドロとした内情を知る上で貴重な書物である。いわゆる難解専門用語を極力省いているので読みやすい。

著者は1961年生まれで学生運動に熱中した(そして失敗の総括をあえて避けた)世代にはすこぶる冷淡である。これには私も共感を覚えた(笑)。呉市出身の小川登(元桃山学院大学経済学部教授)の発言「(革命家は)ドンキ・ホーテや」が興味深い。

 ベトナム戦争は泥沼化していた。各地で反戦運動が広がっていた。三里塚闘争があった。世間は騒然とした空気に包まれていた。そこに新左翼運動が広がっていた。
 街頭闘争に参加したセクトの学生たちの多くが、プロレタリア革命の実現を真に信じていたとは私は思わない。彼らの心の中心にあったのはベトナム戦争に加担している日本という国に対する怒りだった。…

アジテーターは軍国主義者同様引き際を誤り自滅の道を辿る。これは歴史から謙虚に学び、己の器(の小ささ)を知ることのできない者への運命とも言えよう。

 …思いっきりやってきなさい、暴れてきなさいといわれて、学生たちは街頭へと躍り出ていったが、彼らの反社会的な行為を正当化し、過激化させたのもまたプロレタリア革命幻想である。騒乱は大きければ大きいほどよい。そこに革命蜂起への糸口があるからだ。
 だが、いつまでたってもどれだけ暴れてもプロレタリア革命は近づいてこない。…いまさら運動をやめるわけにはいかない。もう引き返すことはできない。彼らにできることは、ただ闘争を過激にエスカレートさせることだけだった。新左翼運動とは、若者の正義感を狂気とテロリズムへと追い込む悪魔の道だったのではないか。

 …新左翼運動…その三分の一は正義であり、三分の一は大いなる錯誤であり、三分の一は狂気だった。そして最後には内ゲバと爆弾テロへと落ち込んでしまった。それが…終着点だった。

私が通った中学には激しい学生運動に身を投じた後足を洗い教員になった男がいた。彼は自分の所業を美化することはなかった。むしろ過去を静かに反省しているように私には見えた。彼の口癖は「周りに迷惑をかけるな」だった。「俺の授業は面白くないから寝てもいい。ただしおしゃべりはダメだ」と言うのだから不良の受けも良かった。生徒と一緒にサッカーボールを蹴る時のその教員の目は輝いていた。かつて仲間と美しい理想を語り合った夢のような時間を思い出していたのかもしれない。

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