彼の力作と言われる「京都帝國大學の挑戦(昭和59年)」にも目を通したくなったのは自然であろう。私は大学生協書籍部を通して取り寄せることにした。東広島市で生活していた頃の話で、おそらく年号が平成に変わってまもない時だったと思う。
本が入荷するまで1ヶ月以上要したが、待っただけの甲斐があったと心から思えた内容だった。だからこそこの本は今も書斎に置かれている。簡単に中身について触れておこう。
京都帝国大学の創立は明治30(1897)年、法科大学(現在の法学部に相当)の開設は明治32年9月であった。東京帝大法科が高級官吏養成校としての色合いを増し学生に「暗記学問」を強いるのに対して後発の京都帝大法科は「自治自修自制の精神」を重んじ独自の路線を進もうとした。一時期3年制を導入し(東京帝大よりも卒業が1年早くなる)旧制高校の卒業生を集めることに成功したかのように見えたが、東京帝大と比べて高等文官試験合格率が著しく低いことを批判され始める。
官僚を目指すには京都帝大法科への進学は不利と判断する高校生が増え入学者は減少。独自路線は行き詰まり明治40年に東大の軍門に下ることになる。
潮木は結果的には失敗に終わった京都帝大法科の挑戦は非常に意味があったと最後にこう書いている。
…京大の教授は…東大を前にして、敢えて、それに対抗する教育システムをもって、東大に挑戦しようとしたのである。
たしかに彼らは、それまで…築き上げてきた京大独自の教育体制を、一旦は断念せざるを得ない立場に追いこまれた。しかし、彼らが企てた挑戦は、それで終わった訳ではない。彼らが身をもって、後世に示したのは、大学間の競争が大学の腐敗、退廃、おごりを防ぐうえで、いかに貴重であるかの一点である。
…その後、大学教授が政府官僚のポストを兼任することは、なくなったが、「官」そのものは、さまざまな装いのもとに、多様化して、生き続けてきている。そのことを考えれば、彼らの提起した挑戦はいまだに終わっていないことになる。大学とは何をするところなのか、大学教授とはいかなる存在なのかは、依然として問いを残した課題だからである。
創世記の京大法科をめぐって、このような事件のあったことは、いまや次第に人々の記憶のなかから消え去ろうとしている。考えてみれば、嚇々たる成功談は後世に語り継がれるが、圧殺に終わった悲劇は、あまり語り継がれることはない。その意味で人間の記憶とは自分勝手であり、歴史とはそれだけ無情である。しかしこうした自分勝手な人間の記憶に挑戦し、無情な歴史に敢えて反抗を試みるのは、後世に残された者の課題であろう。たしかに死者は語らない。しかし、後に残された者が懸命になって語りかけた時、死者はその重い口をわずかに開くことがある。そのわずかな期待が、著者をここまでつれてきた。果して死者の重い口を、どこまで開けることに成功したか。読者の批判を待ちたい。
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