広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

昔の雄物川

2010-01-19 20:09:29 | 秋田の地理
今まで何度か触れてきたが(例えば河口1河口2)、秋田市で日本海に注ぐ秋田県最大の河川「雄物川(おものがわ)」の河口から数キロは、人工の河川。
秋田市街の洪水対策と工業用地造成のため、新たに「雄物川放水路」を造り、従来の雄物川を「秋田運河(旧雄物川)」とする工事が行われ、1937(昭和12)年に完成した。
僕たちは小学校3年生の社会科で習ったものだが、今の若い人たちや市外から引っ越してきた人たちはご存じだろうか。

さて、昨年6月、国土交通省内で1910(明治43)年の「雄物川改修計画図」という図面(地図)が発見され、その写しが公開されているので見に行った。
場所は新屋駅前の「秋田市西部市民サービスセンター(愛称・ウェスター)」。主催しているのは「西部地域住民自治協議会」という組織。「市民協働」と称して、市と共にセンターの運営をしている団体かな?
会場は3階のいちばん奥(写真左端)
センターは市役所窓口やバス乗り場(新屋案内所)がある1階には入ったことがあるが、上階へ行くのは初めて。子育て支援の施設や趣味の会合が行われ、思いの外賑わっていたが、最上階の最奥の展示会場にはお客がいなかった。
「絶賛開催中」だそうです 【追記】画像は21日までの開催になっているが、後に24日(日)までに延長された
広くない部屋に、雄物川改修関係の20枚ほどのモノクロ写真や図面のパネルがあったが、目玉はこれ。机に置かれている。
大きい。タテ1.4メートル・ヨコ5.4メートル
※以下、写真撮影の許可をいただいています。元の図面の状態などにより見づらいため、コントラスト等を加工してあります。
タイトル。字体と右から読むのが時代を感じさせる。縮尺は3000分の1
原本は和紙のようだが、展示されているものはコピー用紙にカラーコピーしたもののようだ。
会場では、図中にマル数字を付けて、地名や施設名を解説しているほかは、特に解説がない(と思った)。立ち会っている人に聞けば答えてくれるのだろうが、ある程度の補足がほしかった。僕は会場では気付かずに、帰ってきて写真を見てから発見したことが多かった。
※したがって、以下は個人的な調査と独断によるものなので、間違っているかもしれません。
図面は、現在の国土地理院発行の地形図に似ている。真北が真上ではなく、左に傾いている。
この地形、見覚えありませんか?
じっくり見ると僕にも分かった。右のマル8が羽越本線、中央のマル7が秋田大橋(国道7号線・現県道56号線)。うっすらと見える赤い線は、改修後の川筋(=現在の雄物川)の計画のようだ。
分かりづらいので、上の図に線を引きました
青い線の当時の雄物川が大きく蛇行しているのが分かる。
現在、美術工芸短大や住宅地の大川町、工業地帯の茨島など国道(真ん中の茶色の線)沿いにはまったくと言っていいほど建物がない。
左の緑色の線は、現在の表町・栗田町を抜け船場町・勝平を経て新川橋で雄物川を渡って川尻へ至る道。昔の「羽州浜街道」の北側「酒田街道」か? 今でいう県道65号線などに相当し、路線バス「新屋西線」のルートとかなり一致する。
マル12番には「自衛隊練習場」と解説があったが、図中には「陸軍省用地」とある。当時、自衛隊が存在したわけないが、現在自衛隊に引き継がれて練習場(昨年はテポドン迎撃の舞台にもなった)になっているという意味なのだろう。ただ、街道との距離が現在に比べて近すぎるような気もするが…
赤く塗った部分とその上の道路に注目
驚いたのは、図中マル9番(赤く塗った部分)で「雄物新橋(予定地)」とあること。原図には橋の名称などは記載されていないが、たしかに橋のような赤線が引かれている。雄物新橋は戦後の1963(昭和38)年完成だが、明治時代から計画があったとは知らなかった!【2020年10月30日追記・10年後、改めて記事を読むと、おかしなことを書いていた。雄物新橋が1963年というのは、今のトラス橋のこと。それ以前から放水路はあって、木の雄物新橋はあったはずだから、計画されていても何もおかしくない。】
また、雄物新橋は、当時の街道のやや海寄りに計画されていたが、その部分の街道沿いには、たくさんの建物が並んでいる。今の栗田町・表町付近と変わらない密度でいわゆる「路村」形態だ。これらの十数~数十件は、川の底に沈んだことになるのだろうか。
僕が小学校3年生の社会科で使った、市教委発行の副読本には「葦などの茂った湿地を開いて川にした」という趣旨の記述があったので、本当に何にもないところを川にしたのだと思っていたが、移転を迫られた家もあったようだ。

それから、雄物新橋予定地付近で、細い流れが流れ込んでいる(水色の線)。この場所は、今でいう「大川端近隣帯状公園【2012年4月26日訂正】大川端帯状近隣公園」、かつての十條製紙工場からの排水路ではないだろうか? 元は自然の川だったのか?

そして、改めて実感したのが、「勝平も新屋地区の一員」ということ。現在も「新屋勝平町」というが、雄物川と運河に挟まれて島状なので、「勝平」もしくは「割山」と呼び、新屋とは違う印象がある。
図面で見ると、上記の通り、新屋地区から連続して家並みが続く、1つの地域だったことが分かる。なお、「割山」という地名は、この工事によって「山を割って川ができた」ことにちなむものだそうだ。
勝平地区は、改修前は「雄物川の左岸」だったのに、改修後は「雄物川の右岸」に変わってしまったことになる(秋田運河の左岸ではある)。また、新川橋は当時は雄物川を渡っていたが、現在は秋田運河に架かっていることになり、同じ場所に架かりながら下を流れる川が変わってしまったことになる。

最終的には、この図面の通りに工事が行われたわけではないようだ。図面では、秋田大橋のすぐ下流付近に、水門のような印が付けられ、そこから細い流れが秋田港へ向かっている。当初計画の秋田運河だろうか。
実際には、秋田大橋の250メートルほど下流、雄物新橋との中間点付近に秋田運河の起点となる水門が造られ、図面よりは川幅が広い。

もう少し下流側を見てみる。

秋田大橋付近の川幅に比べ、左上、旭川の合流点から新川橋付近で急激に川幅が狭くなっている。この辺が洪水の原因だったのかもしれない。
さらに下流では、再び川幅が広くなったり、巨大な中州があったりする。「寺内・八橋」付近だから、今でいう臨海十字路からスケート場の辺りだろうか。

そして、河口近くの土崎港。
今より幅が広く、中州が点在
現在は秋田港として岸壁で固められているが、当時は一部だけ(マル27番付近)だったようだ。港まで線路が伸びているが、現在の「秋田臨海鉄道」とは関係があるのだろうか。
マル25番は市立土崎小学校。現在と同じ場所だと思われる。23番は秋田市交通局の路面電車(秋田市電)の線路で、矢印が線路の末端。
僕の感覚では、もっと内陸に市電の終点があったと思っていたが、実際は港の目と鼻の先だったんだ。そして川沿いぎりぎりまで町が広がっている。(土崎側の川岸は改修前後でほとんど変わっていないよいうだ)
1941年に秋田市と合併したので、当時は「土崎町【25日訂正】土崎港町」だったわけだが、活気がある港町だった様子が伺える。

雄物川改修の記録としても貴重なものだが、昔の秋田を知る資料としてもおもしろく見ることができ、様々な発見があった。
こんな大規模な工事をちょうど100年も昔の人が考え、50年以上昔の人がなしとげたのは驚きだ。もっと多くの秋田市民に知ってほしい。

上記の通り、詳しい解説がなくて分かりにくかったので、例えば透明シートやCGを使って、計画図と現在の地図を重ねて見られたりすると分かりやすいと思った。
そして、PRが下手。ネットの「秋田経済新聞」には1月13日に掲載されたが、「秋田魁新報」には今朝掲載。西部市民サービスセンターの公式サイトには記載がない。せっかくの展示がもったいない。
21日16時まで行われていますので、興味と時間のある方はぜひお出かけください。
【22日追記】展示会は「好評につき」として24日まで3日間延長された。市民サービスセンターのサイトにもやっと案内がアップされた。

西部市民サービスセンターからの眺め
右の鳥居は日吉神社、左の松は新屋支所跡地の保存樹の松。
松の木の右側、支所跡地で何か建てていた。そして、ぼろっちい看板の「新屋支所前」交差点にも変化があった。後日アップします

【2020年10月30日追記】その後、世の中便利になり、「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」」など、過去の地形図を誰でも無料でネットで見られるようになった(すべての地域や時期は網羅していないが)。それを使えば明治45年当時の雄物川の流れを、運河完成後の地形図と並べたり重ねたりして比較できるようになった。

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4 コメント

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歴史だね~ (あどれ)
2010-01-20 22:10:50
昔の秋田の地図とか見ると、自分の住んでいる地区がどうだったのか?って知りたくなるよね。親戚のオバサンが、家に遊びに来るとき「長野下に行って来る」と言ってました。中通は長野下って言われてたんでしょうねぇ。

ウェスターって言う初めて知りました。そのマーク「西」をくずしたものに見えるけど。デザインはもちろんB短でしょうか?
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おもしろかった (taic02)
2010-01-20 22:44:30
自分が生まれる前、どんな風景だったのか想像すると楽しいですね。それと、今の姿を将来の人たちに伝えていかなくては、なんてことも思います。
今は中通・大町○丁目になってしまいましたが、根小屋町、池永小路とか年配の方は話しますよね。竿燈が出ている町内は多少分かるけど、そうでないところは分からなーい!

ウェスター、あまり浸透してないですね。正式名称も長くて間違えられるし。お察しの通りマークは在学・卒業生から公募したみたいです。
秋田市は他地域にも市民サービスセンターを造る計画ですが、東部地域にできたら「イースター」それとも「トースター」?
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楽しみに読んでいます (あんなか)
2010-01-21 02:00:49
いつも楽しみに読んでいます。

マル12番の「自衛隊練習場」と解説の図中「陸軍省用地」ですが
丁度この場所は今の勝平保育園の崖?下に当たる場所から東に広がる場所です。
ここは陸軍の射撃訓練場があった場所で当時駅前にあった歩兵第十七連隊が演習でここまで行軍したと良く長老から聞かされたものです。
木橋だった新川橋が行軍の足跡響く音は忘れがたいと言ってました。
もう40年前に聞いた話しですね。
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ありがとうございます (taic02)
2010-01-21 19:03:59
あんなかさん、コメントありがとうございます。
「陸軍省用地」の件、たいへんよく分かりました。今の朝日町・豊町付近でしょうか。それなら展示されていた図面と一致して納得です。
昨年のテポドン迎撃の舞台とは別ということですね。
勝平得之の版画で「新川橋」というのがありましたが、それに描かれていた木橋時代のお話なのでしょう。
貴重なお話をありがとうございました。こうした歴史も残してかなければいけないと思います。
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