人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --鶴岡八幡宮 余話②--

2022-12-15 19:32:59 | 日記

さて前回の鶴岡八幡宮 余話➀の続き。吉田宮司の講演の後半となります。

源頼朝は平家追討の狼煙をあげ、富士川の合戦に臨みます。陣を張った黄瀬川で弟源義経と再会を果たすのですが、頼朝は涙を流し喜び、義経も「兄の雄姿をみて父親に出会った気がした」と返しました。その後、壇ノ浦の合戦で平家は滅亡するのですが、その様子を平家物語は「平家の赤旗が沈む様子は時ならぬモミジをみているようだ」と語っています。富士川の合戦後に頼朝は後追いせずに鎌倉に戻ります。戻り、鶴岡八幡宮八幡宮の組織変革に取り組みます。例祭、放生会、流鏑馬、舞楽、相撲などの儀式を行事に取り込みました。いずれも武士のたしなみに必要なものです。相撲と聞いて不思議に思われますが、当時の戦いは相手を組み伏せて首をかき切るのが常套でしたので、その技として古墳時代からやっていました。当時から66国の国別対抗戦であり、江戸時代に見世物になりましたが、安芸の海、霧島、三重の海などなごりが残っています。

英雄の条件は「乱世を正義心を持って生きる」ことです。まさに義経がそうです。平家物語や源平盛衰記に登場しますが、義経は小児で反っ歯、頼朝はおしとやかでなまめいた小冠者(元服した若者)と描かれています。徳川家康はたいへん源頼朝を尊敬しており、『吾妻鏡』をいつもそばに置いていました。そこから学んだことは、御家人の統治のあり方、朝廷から御家人に官位を直接に渡さないこと等です。ただ二人の関係は、源氏のピラミッドの頂点は一つ、二つは並ばないということです。義経とは仲たがいしてしまいます。

殆ど知らない人が多いのが鶴岡八幡宮とマッカーサー元帥との関係です。マッカーサーはオーストラリア、フィリピンを転戦して昭和20年8月8日の厚木飛行場におり立ちました。宿舎は横浜のニューグランドホテル。9月12日にミズリー号の甲板上で日本の降伏文書の調印に臨みました。その日の午後に鶴岡八幡宮に12人の将校とともに参拝しました。靴を脱いで参拝し、13本の破魔矢を買い、各将校に渡しました。9月29日には夫人と二人で参拝しています。実は明治39年にマッカーサー夫妻は新婚旅行で来ています。さらに白旗神社の祭礼には武官200人を引き連れて参拝しています。マッカーサーの秘書の話では、マッカーサーは武士道を基本精神としていたようです。GHQは政治と神道を分離しましたが、マッカーサーは鶴岡八幡宮の楼門前にMPを歩哨に立てていました。

その後も実朝暗殺の話、時頼時代の「いざ鎌倉」の話、今宮建立のこと、六地蔵のところにある松尾百遊の芭蕉句碑の話、お賽銭箱は鶴岡八幡宮が最初で1540年に後北条氏が設置したとか、2時間の間、立ったままで原稿も見ずに講演されていました。やはり長く上に立つ方は凄いですね。気の持ち方が違います。

 

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