夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

狸  借問此何時 春風語流鶯

2006年05月08日 13時38分48秒 |  河童、狸、狐
狸に対して感想を寄せてきた人がいた、
その中に 「借問此何時 春風語流鶯」 の文字
李白の「春日醉起言志」の一節ですよね。
私の好きな言葉で、その符号がとても嬉しかったので
そのことをご紹介します。


借問す此れ何れの時ぞ,
春風に流鶯語る

中国人と日本人の感性がどうしてと思うくらいによく似ていることがある。
おそらく西洋人ならこのような感性は持てないだろうなと、思う。
李白の李白たる面目が溢れた文章ですね。
こんな天才と同列に自分を扱う気持ちはさらさらないのですけど、でも李白の感性は本当によく判る。
彼と私の違いは、彼はそれを伝えられるけど、私はそれを読むだけ。
天才と凡人の差はここにありました。

でも言葉じゃない、なにを感じ、なにを伝えたいか、それが本当にみなが共鳴できるもの。。。。その人の気持ちの奥底にあるものがその人にきちんと判っているから、直接相手の心に届かせることができる。
そしてそれを借り物でなく自分の心の底からでてくる言葉で表せられるているから、人を感動させるのでしょう。

このことはあまりにも何度も言い続けました、芸術ってどう表すかではない。なにを表すか、そしてそれをきちんと把握しているのかなんだ、心から心へのメッセージなんだってね。
色や形、音や光、芸術のジャンルなんてそのための単なる道具にしか過ぎないのです。
(ごめんなさいね、私の狸へ感想を寄せた人はそこまでは言ってません。単に李白を引用してその人の気持ちを表していただけ。ここまで書かれれば私は嬉しくて、狂い死にするでしょうけど、残念ながら、狸そのものが、出たとこ勝負のいい加減な話でしかなかったし、何度も言い訳気味に書いていますけど、その実験台だったのですよね)

でも、実を言うと私はこの前段が好きなんです。
(自分の勝手な訳でごめんなさい。間違っていたら訂正をお願いします)


  處世若大夢,
胡爲勞其生。
所以終日醉,
頽然臥前楹。
覺來庭前,
一鳥花間鳴。

    この世って夢のようなもの
    だったらなんで苦労して生きる?
    朝から晩まで酒を飲んで
    陶然としてベッドに伏す
    眠りから覚めて庭を眺めれば
    鳥が花に来て鳴いている。

先日来、夜中に鳴き交わすからすのことを書いていました。まさかこの方はそこまではご覧になっていないと思います。

人生はその人にとっては全て、その人生の全てをあること、ある人にかけることもあるだろうし、挫折してそれを失う事もあるでしょう。狸では反面的にちょっとそのことに触れてました。
(狸だから最初から夢物語ですよね。夢物語だから、何となく現実に置き換える気がするけど、あれを現実の話、人間の話として書けばなんとも生臭くなったでしょうね)
またその人生だって実在であるのかどうか疑わしく思える事もあるだろうと思います。

我思う故に我ありは西欧的な考え方。
我思うっても、果たしてその思っている自分、現在が夢の中かどうか判ったもんじゃないというのは中国や日本に多い考え方、、、

このブログに転載したかどうかわかりませんけど、本当に子供の頃、
今の子だったらまだ幼稚園にも通わない頃。
秋の月夜でした。庭を見ていました。
雪が降ったように真っ白になった地面。
氷細工のように冷たささえ感じる庭の風景。
昼の太陽のように明るい月の明かりに木々や花はくっきりと見えているのだけど、何か遠近感がない。
まったく現実味を覚えない風景。
確かにこれは現実の世界なのだけど、一歩環境が変り、視点が変るとそれは空想の世界のものでしかない。
そのことを感じている私は、その縁側に座って外を見ている私の後ろから私を見ていて、私の考えを読んでいる。
そしてそれを見ている私はもう一人、空中から見ている。
そんな感じを受けました。

それ以来何十年にもなる今でも、現実のこの世と夢の世と、果たして私はどちらに住んでいるのかなと感じています。







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