簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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食べたまま、書いてます。

下津井電鉄 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-11-09 | Weblog

 下津井の地に鉄道が開通したのは大正3(1914)年3月のことだ。
その前年、味野町(現在の児島)と茶屋町(現在の倉敷)の間14.5Kmで開通
した「下津井軽便鉄道」が、6.5Km延伸されてのことで、これにより後に「下
津井鉄道」と名乗る全国的にも珍しいナロゲージ(軌間762㎜)単線の鉄道が
全線開業した。





 昔から本土と四国を結ぶ連絡は、下津井と丸亀、田ノ口と坂出が主要なルー
トであり、備前・備中地域からこれらの港を経て西讃地方へと四国連絡を担う
ものであった。
大正末期には沿線の児島周辺で発達した繊維産業の物資の輸送や、下津井港に
水揚げされる鮮魚の輸送で一時は繁昌する時期もあったようだ。





 しかし経営を支えるはずであった四国連絡の思惑は、国鉄の宇野線が明治43
(1910)年に岡山と宇野の間で開通していたこともあり思うほどの効果が上が
らなかったようだ。
その最大の理由は国鉄の宇野線が開通と同時に宇高連絡線により高松まで連絡
していたのに対し、このルートでは宇野線からの乗り換える手間がいった。



 この事から一時は山陽本線の倉敷駅に乗り入れる路線の延長や、国鉄線との
相互乗り入れを可能にする軌道敷の改変も計画されたようだが、資金難と沿線
の地勢の厳しさなどで断念した。
結果モータリゼーションなどの影響を受け、昭和47(1972)年に茶屋町と児島
間が、平成2(1990)年には残っていた児島と下津井間も廃線となり鉄道全線の
営業を廃止した。



 そんな鉄道の凡そ21Kmに及ぶ廃線跡は、今では自転車歩行者遊歩道として、
多くの沿線の人々に利用されている。(続)


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