すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

いつかこの折り目を開く時に

2020年06月30日 | 雑記帳
 間違いなく忘れ難い年になる2020。
 その折り目である今日までの一週間を、アナログ日記と併行してここにも残しておこう。


6月24日(水)
 昨日から朝のラズベリー収穫を始める。人間界の騒ぎとは関係ないように赤い実は旺盛に生ってきた。出勤し来月の図書館だよりの仕上げにかかる。午後からは町のCM会議出席。三回目になり、ほぼモチーフが固まる。読み聞かせグループの方に頼まれ、原稿を一つ書く。


6月25日(木)
 今日は出勤予定がなく、先日依頼したトイレ業者が見積もりに来宅するのを待つ。工事も一緒との予定だったが出来ないとのこと。昼に久しぶりに近所の蕎麦屋へ。ずいぶんと混んでいて三密防止とは程遠い。見知らぬ人と相席になるが、少し不安感を拭えない自分が居る。


6月26日(金)
 午前中は、昨日自宅で印刷した図書館だよりを子ども園等に配布するため町内を回る。途中、M園で子どもたちの写真撮影があり、少しだけお手伝い。4時に退勤し、今日が誕生日の二人目の孫のためにあれこれ買う。餅を準備できずもち米を背負わせて、儀式?を終える。



6月27日(土)
 午前中、夏休みに図書館主催で企画したワークショップの講師へ向けて、連絡をメールと葉書(笑)で行う。PCを開いて住所録のデータが消失していることにショック!何度も確かめるが駄目だ。午後からトイレの便器交換工事。その後、馴染みの理容店へ。さっぱりした


6月28日(日)
 コロナ禍、連日東京の50人超の感染という報道。予想の範囲と言えるのか、構造的に示されないもどかしさがある。昼は、今シーズン初の素麺を食す。競馬、無観客の中でのグランプリ宝塚記念だ。キセキを軸にしたが買い方に思い切りがなく馬券を外す。性格かなあ。


6月29日(月)
 午前中は町保育会の評議員会。ここも少子化そしてコロナ禍の影響が続く。翻って我が家は孫二人の世話が始まり、慌ただしさが増す。夕方、一人を連れて近所の田圃の傍までいく。水中にタニシを数多く見つける。「貝!貝!」と騒ぐので手に取り、堰で洗う。久々の感触だ


6月30日(火)
 ラズベリーの収穫量が増えてきた。虫も出てくる。相変わらず自然は強し。出勤して午後からの図書館協議会の準備をする。社会的距離を十分とった会議は、滞りなく終了。ここでもコロナによる個々の苦しい状況の話題が出る。閉塞感はあるが、なんとか進むしかない。

フィーリング世代の適当さ

2020年06月28日 | 雑記帳
 『ちくま』7月号で穂村弘連載の「絶叫委員会」に、「フィーリング」という言葉が取り上げられていた。穂村は、五十代くらいの男女の会話からその語を耳にして「同世代の私としては妙に懐かしく、同時にちょっと恥ずかしい」と書く。頷く人も多いだろう。同名の曲をHi-Fi Setが歌っていたことも思い出す。



 今「フィーリングだな」などと使ったら失笑されそうだ。流行ったのは、もはや半世紀近くなる。ちなみに電子辞書に収められている三つの辞典にはいずれも見出し語として載っていた。興味深いのはシソーラス(類語)だ。五つに区分されている。「気配」「技能」「感性」「心地」「骨(こつ)・秘訣」。結構、万能語だ。


 例えば「私たちはフィーリングが合う」と言えば「相性」を指すし、「フィーリングで動く」となれば「」と言っていいだろう。この頃使われなくなったのは、~~ingという安易?な名詞形が古い印象になるからかもしれない。映画「燃えよドラゴン」の名台詞「Don’t think, feel!」は、今もって通用する気がする。


 フィーリングの代替や類語として使われそうな横文字(古っ)を並べてみよう。「トーン」「ニュアンス」「スキル」「ノウハウ」「テクニック」「センス」「ムード」「シークレット」が挙げられよう。つまり、英語への慣れとともに世の中が細分化されてきたので、場や状況に当てはまる語の選択肢が増えたということか。


 曲を聴いてみたくなってyoutubeを開いたら、「日本語歌詞 なかにし礼」とある。ああそうだった。原曲はモーリス・アルバードという南米の歌手で「愛のフィーリング」という題名だ。そうすれば、単なる輸入流行語ということだったか。フィーリングで適当な推測を書いてしまった、フィーリング世代でした。

戻らない現実に胸が痛む

2020年06月27日 | 雑記帳
 「記憶」という熟語の成り立ちが、記←憶(おぼえたことを記す)なのか、記・憶(おぼえるの同意反復)なのか判然としない。ただ、「憶」は「」の通用字とされて、もともとは「臆」の方だったような気がする。「胸の内」「推量」を意味する臆の字は、ふだんあまり使うことはないが、なかなか味わい深い文字だ。


 前に紹介した絵本「心ってどこにあるのでしょう」に倣って自問すれば、「胸」と答えたくなる出来事をたくさん経験できれば幸せだ。「胸が熱くなる」「胸に迫る」など多くの慣用句が象徴している。胸に刻まれた事物は忘れがたいし、そこまで届かないから一過性として処理される。毎日幾千万のことが通り過ぎる。



 昨日書いた、思い出せない名前の件は、記憶とは面白いものだなあと改めて考えさせられた。周辺については覚えているのに、肝心の「誰」を指す氏名が浮かばないことは以前にもあった気はするが、今回の思い出せない名字について「簡単な、画数の少ない漢字」というイメージまで湧いていたことにびっくりした。


 たどり着いたら、やはり簡単な漢字だった。図形的な認識は出来ていたということかしらん。もう一つは、その名字は●○という漢字2字であり、●については風呂に入っている時、仕事に就いていた頃のあるエピソードと共に、別の人物の名前が浮かんだことで思い出した。そこまで分かっても○は判明しなかった


 ところが数時間後に○がぽっと…何の刺激か姿を現わした。内なる機能は生きていた。ところがこれを機械に頼ると、誤操作などすると復元できない現実に直面してしまう。今朝、必要があってPC内の住所録を開こうとすると見つからない。検索も駄目。消去するわけないと言い訳しても、もう戻らない。胸が痛む

その引き出しから出てこい!

2020年06月26日 | 雑記帳
 人の名前が思い出せないことは日常茶飯事とは言わないが、齢相応に時々生じている。今回は少しはまってしまった。かつて同職した先生の名前がどうにも浮かんでこない。顔はもちろん、話し声や筆跡まで覚えているのに。さらに出身地や旧姓、その方の兄上の名前までわかるのに。肝心の本人の氏名が出てこない



 脳機能上は、存在しているのだがどこかの引き出しに仕舞われた状態で、開かない状態なのか。よく「あ」から順に口に出してみると、該当する頭文字のとき反応することがある。今回も試みたがヒットしなかった。思い出さないと困るわけではないけれど、すっきりしない。どんな手があるのか。ネットに頼るか。


 住所が隣市だったので、検索に「湯沢市 苗字」と入れると「なまえさあち」というサイトがあり、「秋田県湯沢市に多い名字一覧」がランキング形式に出てくる。1位高橋、2位佐藤、3位阿部…予想の範囲だ。しかしこんなポピュラーな名ではない。次々に「次の20件」があり延々と「約10(人口)」が続いている。


 360位からは「約ほとんどいない」という表示になる。しかしそれが「齊藤」という名字だし、さらに下位には「高田」や「芦原」があり、とたんに怪しいデータだとわかる。それにしてもずらーっと名字を眺めたが脳は反応しなかった。見落としか。それは、脳の引き出しの錆びつき、開ける力の衰えということか。


 きっと、アナログで残してある昔の資料や電話帳を調べれば、求めたい名は出てくる。しかしここまで来たらなんとか自力で…と思う。ヒントを求めず時折思い起こして引き出しの在り処を探る。それが少しでも脳回路を活性化させる(と勝手なイメージだ)。そう決めて…12時間後、その名字はふいに顔を出す。トイレの中で(笑)。
(あえてその名を出しませんでしたが、出るべきところで出たという感じです)


変身願望のエネルギー

2020年06月25日 | 読書
 カフカの『変身』という物語は、あらすじは知っていてもきちんと読んでいなかった。その発想を作文上の技法としてフィクションを綴らせる「変身作文」はずいぶん取り組んだ記憶がある。先日、絵本検索をしていたら、その『変身』が絵本になっているのを見つけ思わず注文してしまった。原作を知らずに読了した。



 なかなか興味深いストーリーだった。トーンが渋い絵なので子ども相手の読み聞かせには向かないだろうが、中学生以上には理解できると思うし、何かしらの機会があればとふと考えた。細かい感情の表現部分など、原作が気になるので近いうちに読んでみたい。「変身」の持つ象徴性は何なのか、人の心に問いかける。


 一つ思い出したことがあった。国語学習の実践として『ニセ作文』『想像作文』は得意な持ちネタの一つだった。自分が量産態勢(笑)に入ったのは80年代後半だが、振り返ると81年にこれと同様の実践を、勤務校で提示した人がいた。それは初任校であった小中併設校三年目に、新任校長として赴任したI先生だった。


 校長室の前に「書き出しの一文」だけを貼りつけ、その続き話を募集したのだ。それが確か「起きてみたら自分が怪獣になっていた」というような設定だった。小1から中3まで約百人の子どもたちがそれにどう反応したが今となっては思い出せないが、ヘェ結構やるなコーチョーと無礼な思いを抱いたことは覚えている。


 教育実践としては古典的なネタと言っていい。しかしやはりこの技法は人間の持つ欲望に根差しているし、同時に思索も深める要素を持っていて魅力がある。自分以外の誰か、何かになりたい。あの○○は今どんな気持ちだろうか。もし■■だったら…。最近その手の妄想が湧かないのは達観なのか、いや老化現象か。

そもそもの考え違いをオモイシル

2020年06月23日 | 雑記帳
 「ようこそGalaxy、使い倒してやるぞ!」と書いてから一週間以上過ぎたのにいっこうに馴染めず、ガクンとしている。昨日は待っている電話があって普段は着信をバイブにしているのをサウンドにしたら、聞きなれない曲がいきなり高音量で響き、びっくりした。初期設定着信音はPhone系だと思っていたのに…。


 さらに、着信後の操作がタップなのかスワイプなのか、まだ判然としていない(笑)。指がざらついてしまって感度が悪くなったか、と齢のせいにして誤魔化して、しっかり覚えようとしない。さらにカメラ。明らかに高機能なのはわかるが、その理解が進まず、何が何やらという状況で、試行錯誤ばかりの毎日が続く。



 さて、家庭内の水回りの調子が悪くなり(十数年経つから普通だろう)先週から業者に連絡して、修理してもらう機会が多くなった。こういうメンテナンスや交換等も、メールのやり取りが普通になってきた。時間を気にせず正確に依頼できるのでメールは便利だが、その挙句アナログ対応になってしまうことも多い。


 ネットでのメーカーへの問い合わせは全国的な集約で、そこから地方へ連絡される。その連絡システムがどうなのか利用者は知らない。しかし正しい情報が徹底されていないと、二重に業者が入ったり業者間連絡がなかったりで、いかにも地方の下請けと馴れ合いで対応しているような、昔と変わらない様相も見える。


 都市部と地方の格差は大きい。ある物品の交換を考え隣市の業者広告の特価を見た。ずいぶん安く思えたがネット検索では驚きの値引きが出る。流通や利用頻度を考えれば無理もないが、思わず首を傾げる。全国均一のお得感を手に入れようという考えがそもそも間違いか、使いこなせないスマホを見ながら納得する(?)

手に残る兎はどれほどか

2020年06月22日 | 雑記帳
 ある冊子に姜尚中の連載エッセイがあり、その回は「『あれもこれも』ではなく『あれかこれか』」と題されていた。コロナ禍の中で制限される暮らしのなかで、今までを振り返り、今後どうあるべきかを述べている。「一得一失(トレードオフ)」や「リトリート(retreat)」というキーワードが示され、深く考えさせられた。


 「これまでの経緯を見る限り、私たちはどこかで、『オリンピックも安全も、そして景気も』と考えてこなかっただろうか。」…この認識はここ数年の傾向として否定できないように思う。自分はへそ曲がり要素が強いから、安易に同調してはこなかったけれど、時流に掉さす踏ん張りもなく、内面の深まりも半端だった。


 ところで文中に同様の意味で「二兎追う者は一兎をも得ず」の喩えが使われていて、懐かしい気がした。その感覚こそが現状を語るにふさわしい。これは社会や周囲批判ではなく自分そのものだ。久しぶりにその格言を見て、昔になるがそれを逆手にとったような拙句を作り、賀状に載せた記憶がよみがえってきた。


 2階の書棚の奥を当たってみたら、一つ印刷したものが残っていた。平成11年兎年。1999年の賀状である。ただ、このデザインで出したかどうかは不明だ。



 月冴ゆる今年も追うか二兎三兎

 教頭になって数年が経ち「何でも屋」がだいぶ板についた頃。まだまだやれることがあるのではと考えていた。この年に読書99冊宣言をしたことは覚えている。


 この駄句は仕事上の要素が大きかったろう。しかし例えば家族状況をみれば、難しさが募ってきた時期とも重なる。うまくこなした思いは全く残っていないが、様々な良い方向を追い求める頑張りに疑いは持っていなかった。時が流れて今、手に残る「兎」はどれほどか。一番大切な兎を失わない生き方が見えてくる。

単一乾電池で折り目をつけながら

2020年06月20日 | 雑記帳
 今年は図書館のリーフレットを作りたいと考えていた。思い出してみると、2月頃から大枠を考えていて3月半ばにはほぼ原案が固まっていた。しかし、それから閉館やら事業延期やらが続き、せっかく構想したデザインが浸食されていくような状況だったので、心が萎えそこからなかなか手を付けられずいたのだ。


 ようやく通常に近い形で動きだし、新事業であるワークショップ計画が決まったところで、そう言えばそろそろと、もう一度見直し自前印刷で間に合わせる簡易版のような形で仕上げることにした。まあ利用の手引きに加え館の方針や目標などを記しただけだ。ただ、少しは特徴的なこともと思い表紙は編笠姿にした。



 もう一つ、A4の三つ折りという小さい版だがその一面を使って、元館長であった田口恭雄先生の言葉を入れた。実はこの部分を探すことにはやや時間を掛けた。図書館そのものか、文化全般に関する何かいい惹句はないだろうかと、数多い詩集をめくってみた。その結果、「あじさい」という詩にある次の一節とした。

 人間はにんげんの いきることと生きかわることについて考えます

 その詩のなかに、何度か出てくるフレーズなのたが、表記が変わっていたり余白が違っていたりして、統一されていない。おそらく作為的にそうしたのだろう。単純な言葉遣いではあるけれど、過去・現在・未来にわたって私たちがなすべきことを「いきる」と「生きかわる」という語に込めた思いが伝わってくる。


 むろん解釈の仕方は様々だろう。これを見て一瞬でも考えを巡らしてもらえば、それでいい。活字媒体を収めている図書館の役割を象徴しているとも言えよう。さて今後の変更予定もあり、とりあえず80部厚紙で印刷。折込の手作業に入る。ふと思い出し単一乾電池を使って仕上げる。ああ懐かしい。これは昭和以来か。

自分の丘から見える景色は

2020年06月19日 | 読書
 「人気児童文学作家 くすのきしげのりがはじめて紡ぐ 大人のための短編集」

 本の帯文はそう記されていた。

 『海の見える丘』(くすのきしげのり  星の輪会)



 実は初め、何気なく同名の絵本版を買った。それは上の本に収められている5編のうちの1篇が取り上げられて、絵本として発刊されたものだった。うっかりを寂しく笑ってから、じゃあと勢いで注文し、届いた本を改めてめくる。絵は一つもない。しかし、余白を十分に取る形で作品世界へ誘う体裁になっていた。


 その「空間を生かす」意味を、「各物語の世界は、読者の皆様一人一人の想像する力によってのみ、それぞれの心の中に広がるのです」と優しい言葉遣いを見せながら、ひどく厳しい一言であとがきに記していた。読み手に対して能力や経験、そして価値観まで問うている。そしてそれはまた著者自身にも向けられる。


 「まず、自らの人生を俯瞰することができる」層を対象にしたいと考えたこの一冊。個人的には冒頭の表題作「海の見える丘」、そして四篇目の「のら猫のかみさま」が気にいった。作者が記すところに依れば「幸せは自分が決める」と「優しさはうけつがれていく」がテーマといって良かろう。自分に迷いがある箇所か。


 一昨年本町にいらした際に、実際に中学生相手の著者の講演を聴いたことがある。素晴らしいの一言だった。自分には作家の話をどこか斜めに構えて聞く傾向があるが、それを覆してくれた。小学校教員経験もあるからだろうか、相手意識・目的意識・伝達意識が実に明快で感心させられた。このブログにも記してある。

 2018.11.1「現場愛にあふれる姿」


 表題作「海の見える丘」に込められた作者の願いを私的に解釈すると「あなたは、自分の丘を持っていますか」どんな景色を見ようとしていますか」と表現できる気がする。それは目的を時々確かめないと道を見失ってしまうよ、と諭されているような感覚だ。本を閉じ、来し方行く末を瞑想する時間を大事にしたい。

時間の経過を肯定する

2020年06月18日 | 雑記帳
 見もしないで寄せておいたある月遅れのある冊子をめくったら、映画監督の河瀨直美の文章が載っていた。そういえば、河瀬はオリンピックの記録映画の総監督を任せられていたのだった。その文章は延期が決まっていない頃に書いたようで、こだわって撮りたいのは「時間の経過」だと、その意気込みを語っていた。


 東京五輪を目標にしていたのは競技者だけでなく、膨大な数の関係者がいるわけだから、その人たちがどう今を過ごしているのか、切り替えられているものか、少し興味が湧く。都知事選が近づき当然オリンピックについても論戦が活発になるだろう。ここでも「目的」は何なのか、凝視している人に耳を傾けたい。

 河瀬の文章の結びにこんな言葉が書かれてあった。

 「一線を退いた人が、ちょっと余裕を持って、次の世代に言霊を出す。それも教えるという姿勢ではなく、普段の会話の中で、それとなく伝えていくんです。」

 実に格好のいいフレーズだが、「一線を退いた」自分は、それまでの営みの中から語り継ぐべき「言霊」を持っているのかどうかが問われる。きっと、問わず語りのように自然に出てきた「伝えたいこと」が、内実なのだと思う。その価値は受け手側に生ずるものだ。



 今日は勤務日ではなかったので、子育て支援センターのイベント「さくらんぼ狩り」に参加した。小さい子が中心なので短時間であるが、季節盛りの果実が美味しかった。戻ってから改めて思うと、ハウス内に結構な数の親子が揃った密な空間だった。しかし、ある面そんな敏感さを忘れさせてくれたひと時が嬉しい。


 河瀬の口にした「時間の経過」とは、ある地点を真ん中に据え前後の流れを追って記録化していくことのようである。意図的に考えるその事とは違って、ごく普通に流れている今この瞬間もまた、時間の経過である。感じられる時間に浸っていたい。そういえば正月の書初めは「肯」。流れる時間を肯定する姿勢である。