すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

今年一番…モノ、コトなど

2021年12月31日 | 雑記帳
 今年一番…の買い物は、やはり車の買い替え。長年続けてきたスバリストを引退(笑)し、二十数年ぶりのトヨタ車「ヤリス」へ。当初はこれじゃあと思う点もあったが、暮らしのダウンサイジングは当然のことでだいぶ慣れつつある。それにしても感じたのは、10年でずいぶんと自動化が進んだこと。考えさせられた。(これはいつか記したい)。


 今年一番…意識しなければいけなかった「遊」。年頭に決めた一字だった。遊興という意味ではなく、心揺さぶるといった観点なのだが、どうだったか。何度か書いているように「読み聞かせ」で、高校やPTAという新しい場で披露できたことが印象深い。それ以外に幅は拡がらなかった。映像作成頻度がかなり落ちた。


 今年一番…の読書は…とこのブログで一応読了した冊数を数えたら、120を超えていた。しかし中味は「ランドク」が示す通りだ。しいて挙げれば前半は佐藤正午、夏頃に木皿泉を集中して読んだ。ただ、一冊といえば『「言葉」が暴走する時代の処世術』(太田光・山極寿一)か。言葉について、少しだけ視野が拡がった。


 今年一番…のドラマ!久しく題してないが「独り視聴者委員会」を開く者としては触れておきたい。連ドラで印象深いのは「俺の家の話」「大豆田とわ子と三人の元夫」「アバランチ」「最愛」あたりもあるが、個人的に№1は「コントが始まる」だった。刑事モノ以外であればやはり会話の妙がある作品が好きと自覚する。



 今年一番…のBEERは、発泡酒系は「ニッポンクラシカル」を挙げる。新商品はよく買う。その中で苦味がほどよく雑味が少なく箱買いした。プレミアム系は「スプリングバレー」だ。クラフトビールは隣県のベアレンを好んでいるが、最近少し凝り出しビール感が乏しい。その点このビールの持つビールらしさがいい。

 

 今年も雑文だらけの本ブログでしたが、たくさんの方に訪問していただきました。ありがとうございます。
 もう少しはだらだら続ける気持ちでいます。行く先はめちゃめちゃで定まらないのは相変わらずでしょう。
 よろしければ、今後ともお付き合いください。
 良いお年をお迎えください。

ランドクじゃ締まらないか

2021年12月30日 | 読書
 昨日から年末年始の休みに入り、さあ片付けと思ったが、またいつものように徒歩に暮れていて捗らない。
 その捗らない自分をまた納得しているこの頃で、それもまた余裕があるということか。だらだらと読み続けていることは確か。


『あなたのプレゼンに「まくら」はあるか』
 (立川志の春  星海社)


 落語家が書いたビジネス書らしいと思い手にした。立川流はやはり多彩な人材がいる。著者はイェール大学を出て三井物産に入社し三年目に、志の輔の落語に出会って人生を変えていく。全体的には、落語のススメといっていい内容で、承知している部分も多かった。
 ただ改めて納得したのは、話すことにおける「まくら」の汎用性、そして「師弟関係」の本質という2点がある。
 汎用性とは短く言えば本題についての「当たり」と「リンク」である。常にそこを意識していればよい。
 また、師匠と弟子という呼び名が成立するための条件は、「いかに同化できるか」にかかっていると、柔な精神では足を踏み入れてはいけないと反省させられた。
 それにしても、ああ今年は生の落語を聴いてなかったなあと、今思い出す。




『記憶のつくり方』(長田弘  晶文社)

 久しぶりに絵本以外の本を図書館から4冊まとめて借りてきた。その1冊目。一行30字で40行ほどの体裁で「忘れたくないことだけを誌した」、そして詩かエッセーかの受け止め方は読者に任せたい旨が、あとがきに記されている。
 幼い頃の思い出、旅、食べ物などテーマは様々だが、一貫して「落ち着き」のある文体に読み入ってしまった。性急に結論を求めたり、饒舌な説き方をしたりしない。この詩人のエッセーや絵本など手にするようになり、そのいずれにも共通するイメージが、この本の活字である「緑」に近い気がした。深い人だ。
 「一人の日々を深くするものがあるなら、それは、どれだけ少ない言葉でやってゆけるかで、どれだけ多くの言葉ではない」
 そう、人生に形容詞ばかり求めているような我が身が浮かび上がってくる。

いったい何が誇らしいのか

2021年12月28日 | 雑記帳
 「ちくま」1月号冒頭の連載「些事にこだわり」に、蓮實重彦が「ノーベル賞が『些事』へと堕してしまう悲惨さについて」と題して、2021年度物理学賞の真鍋淑郎氏のことを取り上げている。真鍋氏が米国籍つまり日本国籍を放棄している日系外国人であることを踏まえた、政府および報道機関に対する批判である。


 首相は「日本人として誇りに思う」と発言し、メディアもその観点を主流とし、研究者流失に触れてはいても、大きく取り上げない。前例も多くあり受けとめる側も慣れっこなのか。真鍋氏が現在の待遇を含め「ノーベル賞の栄誉へと導いてくれたのは合衆国政府だ」と感謝を述べている事実に痛みも感じないようだ。



 昨年来の「日本学術会議」の任命問題に限らず、TVドラマにもよく取り上げられるような研究者の冷遇や政府・諸関連団体による締付など、一般人には不透明な環境が浸透してしまっている国になっているのだろう。何十年後に日本にはノーベル賞クラスの研究者は出ないと予想する声も、何度か聞いたことがある。


 森博嗣の「100の講義」の中に、それを端的に表す文章があったことを思い出した。実に「身も蓋もない」言い方だけど、これは真実だと思う。

「現代において、ノーベル賞候補となるような科学的研究上の大発見は、才能だけでなく、努力だけでもなく、まして内助の功でもなく、大部分は研究に費やされた金額によっている。費用が、環境や人員を整える。」

 90歳の真鍋氏の才能を培った土壌は日本にあったとしても、その花を咲かすだけの環境はなかったという事実は個人的にしごく残念。我々はどんな立国を望んでいるのか。

誰もが穴のあいた服を着る

2021年12月27日 | 読書
 『正直に語る100の講義』(森博嗣)から覚え書きとして、心に留めておきたいいくつかのこと。




 7/100 「自分にできることをしよう」というのは素晴らしいモットーではない。

 「できることをしない人が多いから、それを揶揄している響きを感じるだけ」と言い切る。あまりに当たり前のことを何か大そうなことのように表現する典型か。もともとは「できることを続けよう」だったのではないかという推察も納得だ。その前半部分だけ残ったのは、つい安易なことに変換する人間の性なのか。


 17/100 自分が何者かという観測が戦略において最も重要な情報だ。

 カーナビが従来の地図より優れているのは「現在地を示すから」という記述に、今さらながらほほおっと思う。様々な地図(仕事の方法、生き方など含め)があるが、まず現在地つまり自分に関しての視点をしっかり持たなければ、足を進めることができない。要は自分についての「幅を持った観測」が必要なのだ。


 63/100 「穴のあいた靴下を履いています」と言うと、眉を顰める人が多いが。

 これが、言葉に対する安易な変換(思い込み)の典型的な例だ。「穴のあいた靴下」で思い浮かべるイメージは、足裏から小さく皮膚がのぞくこと。しかし、全ての靴下には穴が開いているではないか。ジョークとして通用しそうだが、シャツもズボンもそうだと考えると、言葉は言葉通りに通じていない証拠になる。


 75/100 「個性派」と謳われたものの画一さといったらない

 俳優などによく使われるが、著者は「役に合わせて変幻自在に対応できる俳優は、個性派と呼ばれない」事実をストレートに述べる。そういう認識を持つと評価の観点は大きく違ってくる。個性派が一つのパターンになっていて、ただ不器用なことをユニークと言い換えているだけか。変換に潜む真実を見る思いだ。

懐かしい冬のランドク

2021年12月26日 | 読書
 いよいよ冬が来た、と今朝初めて思った。
 「寒い」「雪が積もっている」「雪が吹きつけてくる」この三拍子が揃わないと「冬」とは呼べない。もう何十年もここに住めば、それ自体が懐かしいのだ。




『俺たちはどう生きるか』(大竹まこと 集英社新書)

 大竹まことのイメージは、今はたまに見るTVタックルで団塊世代代表的な一言居士のようなものか。しかし昔シティボーイズでやっていた頃は、もっと「怒り」を表面に出していて面白かったという記憶がある。この本は「俺たち」という同世代に向けたものではなく、若者を対象とした思い出話という様相で、正直平凡だった。ただ冒頭に「風間杜夫」が取り上げられていて興味を持った。若いときに同じ劇団にいてつるんでいたとのこと。風間の舞台を観に行き、交友が再開したとある。私は、風間の一人芝居を二度ほど観にいったことがあり、役者の凄さを感じたことを覚えている。それに比べると大竹の場合はやはりTV人、その中途半端さが見え隠れする。芯のない生き方を隠さず書いているので、齢をとりだんだん素直になるのも悪くないと思えてくるのが救いか。


『正直に語る100の講義』(森博嗣  大和書房)

 この作家の書く小説は読んでいないが、こうしたエッセイ類はもう何冊か手にしている。この本は見開き2ページで1項目ずつ、「『正直』から生まれる成長論」「他人に委ねない創作思考論」などと章分けされ、提示される。ふむふむ、確かにその通りだ、と思いつつ風呂場読書をして100項目の半分まで読み、「いやあ、しかしこの人とは友達にはなりたくないなあ」と思った次の日、読みかけのページを開くと58項目に、こんな見出しが…。「『友達にはなりたくない』という表現の危うさ」…おっと!冒頭には次の一文がある。「単に好きか嫌いか、ということだとは思う」。そうなのだ、それをわざわざ自分でそんなふうに「変換」している。このようにズバリとえぐられる鋭さに恐れを抱く。とにかく、この一冊は「変換」について大きく刺激されたので、明日また改めて書く。


幅を広げて、深く掘る

2021年12月24日 | 絵本
 今週火曜日で今年の学校読み聞かせは終了した。メモを見直すとおよそ50冊程度(当然、複数回もあるので40タイトル)だった。本格的に始めて三年目、いくらか上達しているように感じる。今年はコロナ等で中止もありつつ、高校生相手にも出来たし、先日PTAでの親子という対象もあり、少し幅が拡がった


 大勢を相手にする時に大型TVにつないで行う形を取り入れたことが、一つの変化だ。ノートPCでは文字が小さく読み取れない場合があり、片手に本を持ちPC操作するので慣れが必要だ。しかし、40人を超す集団には概ね好評だと思っている。もちろん中には実物でないと訴えない本もあるので、選書には注意だ。



 昨年から取り上げた講談絵本。「宮本武蔵」から始め手元には6タイトルを揃えたが、他に「大岡越前」「西行」を読んだのみとなった。残った3冊はどういったタイミングでできるか思案している。取り上げるねらいは演芸文化に触れる点もあり、自らの声をどう磨くかがポイントだ。高齢者にはいい脳活かもしれない。


 印象に残った絵本をいくつか挙げると、まず『カ、どこへいった』。ページめくりで蚊を追っていくパターン。とても楽しい。『おおかみのおなかのなかで』のとぼけた味もいい。M・バーネットとJ・クラッセンのコンビのよさを感じた。猫の作家町田尚子も印象深い。『ねこはるすばん』の描写力は大きく見せて効果的。


 読み聞かせとしては大作、難作に思えた『二番目の悪者』。時々こうした歯ごたえのある作品に挑むことは必要だ。でないと安易な音読に留まってしまう。怪談絵本は二つ読んだが、実は一番読み込んだ『おめん』が、学校の都合により中止の回に準備したものだった。かなり心をえぐる内容なので結構勇気(笑)がいる。

「あまりだべ」にひとまず感謝

2021年12月23日 | 雑記帳
 平凡な毎日の幸せとは、振り返ってから感じるものだろう。そうはいっても日常には多少の刺激(種類は様々なれど)が必要で、その意味で「あまりだべ」(あんまりだなあ)と言いたくなる出来事があれば、平常の安穏さがよけいに沁みてくる。そう考えることにしてここに挙げた数日の雑事にひとまず感謝したい。



 今年ばかりではないので慣れっことは言えるが、ハタハタの不漁である。もちろんほんの数匹賞味はした。しかし、あまりの値段の高さに味を「満喫」できない。箱買いした時代と比較するわけではない。ただ一匹数百円では、ブリコの粘り気と一緒に口へ呑みこむ勢いが正直止まってしまう。温暖化を呪うしかないか。


 22日放送の朝ドラ「カムカムエブリィバディ」。観ている途中からこれはないだろっ、えっおかしい、と突っ込みどころ満載の内容だった。毎度とはいえ「ネットも騒然」となるのは当たり前だ。距離感や時間間隔に疑問を持ってしまう展開に、熱心に見ていた視聴者が興味を失うのではないか。俳優の演技だけに期待。


 「布マスク」問題。長期間振り回されることを予想できた人もいたはずだが、綿密に隠されていたのか。様々な視点から発言がなされているし、それを聞くと政治の硬直化だけでなく社会構造の閉塞感まで通じ、どこか空しい。責任をとる者はいないのか。「マスクをしているので口を開けません」とオチでもつけるか。

冬至までランドク

2021年12月22日 | 読書
 木曜定休なのでなかなか入れなかった某チェーン店。
 たまたま今週は曜日がずれたので、本当に久しぶりにラーメンを味わえた。




『NHK国際放送が選んだ日本の名作』(朝井リョウ、他  双葉文庫)

 長編小説が読めなくなってきている証拠のような選書。しかし、これはいい作品ばかりだったなあ。8人の作家の短編小説が載っていて、底本の一覧を見ると、重松清と東直子の書いたものは読んでいるはず。少し既読感があっても、読ませる魅力のある話だった。「国際放送」の選択基準に興味が湧く。予想する一つに「日本人ならではの感覚」という項目はありそうだ。「清水課長の二重線」「鍋セット」「迷子/物件案内」それに「アンデスの声」あたりは、しみじみとその感覚をなぞることができるように思う。


『VOWでやんす!』(みうらじゅん  宝島社文庫)

 マイ「今さらみうらじゅん」シリーズだ。まさにサブカルの象徴のような一冊。本(というか表現)を貫く典型は、最初の「クワガタ男のできるまで。」だ。近所の道に酔っぱらって寝ていた男に施す数々のデコレーション。その様子をまた緻密に記録し、編集する。結局、本人(被害者もしくはモデル)は気づかないまま起きてタクシー乗車。このストーリーは実に濃くかつ楽しく読める。「傍から見ればクダラナイと思えることに全身全霊を尽くす」といったサブカルの本質(本当か、おいっ!)が、そこに見えるのである。


『孤独のすすめ』(五木寛之  中公新書ラクレ)

 何年かに一度浸りたくなる大作家の癒しコトバ。年齢や現状に抗うなと言われている気がする。「そもそも、迷っている状態そのものが、生きていることなのではないか」「衰えていく(略)自分の体と相談しながら工夫することを、ひとつの楽しみにしていく」…周囲の喧伝するいわば経済的な雑音を遮断し、自分をよく見つめよと説いている。それにしても、この新書で繰り返される「嫌老」という語が気にかかる。社会全体がそうした兆候を見せている。その流れが作り上げる明日を回避するためにも、個々の細やかな工夫が必要だ。

「ようやく」から年の瀬へ

2021年12月19日 | 雑記帳
 先々週末から「ようやく…」「やっと…」と思うことが多かった。いずれも悪いことではないので、どこかしら安堵する心持ちで過ごせたわけだ。いい年の瀬になるかもしれない。あっ、ようやく接岸したハタハタは食べたが、まだ物足りない。これで終わりなどと言ってほしくない。温暖化が全て狂わせているかな。


 さて11日土曜に久々に友人たちと小宴を持った。9月に県の酒類製造団体が行った「旬吟醸」3本セットの申し込みが通り、手に入れた酒をようやく開封できた。いわゆる「酒ガチャ」で銘柄指定が叶わない仕組みで、届いたのは以下の銘柄。個人的にはウヌッ!?となったが、飲んでみたらなかなかに美しい酒だった。

 

 9月から入っている地元高校での学習サポート。町の歴史がテーマで合わせて3回レクチャーした。金曜日は生徒たちが発表に向けて仕上げなので、少しアドバイスのため訪問。タブレットを使いこなしカフートというソフトでクイズを出す形だそうだ。その辺りはさすがである。ようやく、目鼻がついたか。


 今月の一大イベント「こどもブックフェスタ」。今の形をつくって三回目、実務的な部分も半分以上は自分が背負うので、労力的に一番ハードといえる。先月から、企画に始まりボランティアの方々との打ち合わせや物品準備等、前日まで忙しくした。18日土曜日は雪だったが、それなりの参加者もいて無事終了できた


 土曜の後始末やブログ更新等をして、ほっと一息の日曜午後。お笑い好きにはM-1も気になるが、競馬G1の朝日杯をようやくレジェンド武豊が勝利した。90年代後半の常勝を続けていた頃から勝てないG1として有名?なレースを22度目の挑戦でようやくだ。何事もあきらめない。私も久々に馬券とりました(笑)

おぼえた言葉は捨てられない

2021年12月16日 | 読書
 学生時代にほんの少しだけかじった現代詩の世界。田村隆一の詩集も本棚にはあった。しかし、いわゆる「荒地」の詩人には馴染めなかった。ただ、この文庫に載せられたいくつかの詩のフレーズは、微かに頭の中に残ってはいた。難解と感じた時から40年以上漂っていた言葉の欠片が、心の岸辺へ打ち寄せた。




『言葉なんかおぼえるんじゃなかった』
  (田村隆一・長薗安浩  ちくま文庫)



 副題は「詩人からの伝言」。そもそも単行本のタイトルはそれだった。田村が語り、それを長薗が文に起こし、話(章)ごとに詩が添えられた構成になっている。解説が俳優山﨑努、そして山﨑と長薗の対談があり、新たな文庫化で穗村弘も解説文を寄せている。田村隆一という詩人の世界が、ゆるやかに語られている。


 この文庫を注文したのは、先月読んだ対談集『「言葉」が暴走する時代の処世術』(太田光・山極寿一)がきっかけだ。話の中に登場した、その書名のフレーズはなんとなく記憶にあった。「長いまえがき」で長薗は、雑誌編集者としてこの内容を企画するにあたり、頭の中にある思い浮かぶ詩として一人書きつけたのだった。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きていたら
どんなによかったか

 (「帰途」より)

 言葉で表される「言葉のない世界」という、あまりに逆説的なイメージを、人はどうとらえることができるだろう。言葉を操る詩人が欲するのは、間違いなく確かな五感で自らの心身に引き寄せたものだし、どう表出するか苦闘したあげくにたどり着くはずだ。その過程で見える、あまりに手垢のつきすぎた言葉たち。


 今は言葉だけが先行し、自動化されたように乗り回されている。道具の一人歩き。それに身を任せる者、振り回されている者、そこから逃げようとする者…人はしっかりと言葉と対峙しなくてはいけない。まず思考し、自己対話するために言葉を遣おう。ヒントは、詩人の言葉の中に多くある。例えば、こんな一節も。


きみは写実に生きるべきだ
五官以外のものに頼るな
肉眼の世界だけを信じることだ

 (「反予言」より)