すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

迷った道での出合いに

2022年03月31日 | 雑記帳
 勤務のない日の午前や帰宅してからの夕方に、孫との散歩を楽しむ陽気になってきた。十分警戒して予防対策をしているが「花粉侵攻」が優勢になっている。数えてみたら発症から28年目を迎える。場所はちょうどこの散歩道で、新入生の下校指導をしている日。あの時も、今のように山並が曇ってみえるほどだったか。



 Eテレを観ていたら爺様の身に沁みるやりとりが…。「道に迷ってしまって…」と困っている子が訊くと「そりゃ、素晴らしいことだね」と応える男。「だって、今までにないものと出会えるんだから。」そりゃそうだ、そんなふうに発想を変えると全てはラッキーな出来事だ。もちろん徘徊となれば、その意識すらないか(笑)


 年度最終日。アナログ日記(5年手帳)を見直したら、昨年の今日「コロナ感染者、ゼロが秋田のみの日」と記してあった。今年は一昨日、初の300人超えをしていて、TV画面では唯一「赤」(今までの最高値)を記録した県なのに…。詳しい分析はともかく、過疎地は感染が遅れて顕在化することを改めて痛感する。


 あいみょんがお気に入りなので、先日放送された「18祭」(アーティストと一緒に千人の18歳がコラボする企画)を観た。録画を飛ばしつつ観たが、ある女子高校生がこんなことを語った。「コロナ禍で、大人は一緒に食事したり酒を飲んだりできないと言うけど、私たちは当たり前のことができないのだ。」なるほど。


 しかし、爺から言わせればそこに大きな違いはない。訴えたいのは「学び」と「遊び」の比較や、制限事項の質の違いかもしれない。その点は気の毒だなと思いはする。ただつまるところ「どのように気を済ませるか」…孫との触れ合いで得る実感…に尽きる。迷った道での出合いにどう向き合うか、年度末に考える。

「まっ、いっか」と一途に

2022年03月30日 | 読書
 地元の新聞が地域社会にある「不寛容さ」について特集記事にしていた。ちらっと見たが、それは全国共通の傾向だろう。この文庫の書名は、いわば「寛容」と呼んでもいい考え方だ。著者自身の容姿のことから始まるこの連載エッセイ集、結びの文章では聖徳太子の「以和為貴」に、「まいっか」とルビを振っている。


『ま、いっか。』(浅田次郎  集英社文庫)


 「和を以て貴しと為す」…言うまでもなく、十七条の憲法第一条にある有名な一節。これを「ま、いっか」と同等?とみなすセンスはさすがの稀代の小説家である。つまりは、生きていく上で必要なのは他人との和、そして自分の心の中の和、折り合いである。筆者は「早い話が『ある程度のいいかげんさ』」と記す。


 収められているエッセイの大半は「MAQIA」というファッション関係の雑誌連載である。筆者は長くアパレル業界に勤めた経験を持ち、今もって関心が高いと書く。だから「見端」にこだわった文章が目立つ。ただ内容は多岐に渡っていて、独特な出自や職歴を持つ著者から見た文化全般が語られている印象だ。


 第三章「ことばについて」はわずか六篇ながら、自分の興味にフィットした。著者は今でも原稿用紙にペン書きしていると言い、その視線から時勢を見て批判する。結局、自分の書く字がいっこうに上手にならないのは「横書き」のせいかと都合よく解釈できた(笑)。日本語は「縦に淀みなく流れてこそ美しく整う


 死語と言えそうな「一途」。書名とは裏腹だが、そう題した文章が心に残る。40歳を過ぎて小説家となり、脚光を浴びるまで時がかかったことを綴り、選択肢の多い今の時代の「不幸」を語る。「才能の有無にはさほど関係なく、一途な情熱は石ころを宝石に変える場合もある」…多すぎる機会が見誤らせる事もある。


何度も立ち止まって考える

2022年03月29日 | 読書
 学校に勤めていた頃、購読していた教育雑誌は多い時で月7~8冊あった。なかでも明治図書の「教育科学」を冠したものが半分だったはずだ。そこに惹かれた心持ちを今振り返ると、なんとも中途半端だったことよ。この著を読むと、私などはまさしく批判のど真ん中あたりに居た経験を持ち、考えさせられた一冊だ。


『学校に入り込むニセ科学』(左巻健男  平凡社新書)

 
 ターゲットとされているのは「水からの伝言」「EM」「TOSS」「ゲーム脳」「食育」「エネルギー・環境教育」「オオカミに育てられた少女」「江戸しぐさ」等々、多岐にわたっている。初期の「教育技術の法則化運動」において、「清涼飲料水」に関する論文を出し出版化されている当事者である自分は、間違いなく対象者となる。



 TOSSから距離を置いたのも早い段階だったし、その意味で著者の考えに近い箇所もある。ただ批判の全てに納得しているわけではない。これは思想・価値観と強く結びつくし、平行線をたどらざるを得ない面がある。例えば、生きていくうえで「科学的根拠」がどれほど重いのか、と問われればその違いは大きい。


 もちろん科学的リテラシーの重要性は揺らがない。学校という公的な場では決定的である。従ってそこに携わる者は慎重であるべきだ。だから最終章で記されるように「『私たちはだまされるのが普通である』ことを知る」…この点を踏まえた向き合い方が肝心になる。かなり広範囲で、時間を要する作業を伴う覚悟が必要だ。


 振り返れば、そうした場を持てたか保障できたか。甚だ自信がない。「面倒な手続き」を省くことが合理的とされ、思考自体も慣らされてしまった気がする。エビデンスとよく言うが、それも「自分に都合のよい事実だけしか見ない、集めないバイアスがかかってないか、見極めなければ…。何度も立ち止まることだ。

勝負は、足腰に極まる

2022年03月28日 | 雑記帳
 当初は、一人横綱の仕上がり具合と新大関の動向が注目された春場所。結果的に「荒れた」というより「面白かった」15日間となった。千秋楽まで優勝の可能性を残した三人の力士はもちろん、奮起を促された大関陣も結果的に優勝決定戦へ向けて、盛り上がる演出をしてくれたような存在であった。結末も良かった。


 若隆景と高安の勝敗を分けたのは、足腰の強さと言っても過言ではないだろう。もちろん身体上のそれでもあるけれど、「足腰」を辞典で引けばわかるように「基礎的な活動力」を指していて、それは精神的な面も多分に含まれる。上半身が繰り出す力で勝負の優劣は動くが、それを支える足腰こそが最後に決定づける。


 今場所はまさに力士個々の勝敗数がそれを裏付けていた気がする。楽日に勝ち越しを決めた数人の力士、阿炎、豊昇龍、遠藤などもぎりぎり踏ん張れたのも「足腰」にあるはずだ。それを15日間どう維持できるか、稽古で何をどう意識し続けるかに関わっているのは間違いない。「強い力士」の鍛錬法に興味が湧く。



 さて、今場所もっとも印象深かった一コマ。それは三日目、琴の若と石浦の取組だった。勝負は琴の若の速い一方的な攻めで決した。今場所の急激な成長が分かる一戦だった。土俵下に落とされた石浦がどこかを痛めたらしく、立ち上がれずしばらくうずくまった。これに対してNHK解説者舞の海は、こう言い放った。


 「これはいけない。ああいう場面があるといい相撲を続けていた場内が一気に冷え込む」。ネット上ではこの非情な発言が疑問視、批判されている。それらの趣旨を十分理解しつつ、一大相撲ファンとして舞の海の発言に力士としての美学を認めた。大相撲文化は「弱みを見せない」「言わぬが花」が基底にあると思う。

黒い現実は連鎖する

2022年03月27日 | 読書
 放送される番組数としても多いわけだが、いわゆる刑事ドラマ、警察モノが好きである。四半期クールで必ず一つは観ている気がする。シリーズ化されている人気番組も半分はお気に入りだ。この文庫のトリビアは「事件」「警察」「鑑識」「刑罰」と章立てされていて既知のこともあったがヘェー20以上(笑)与えられる。


『黒のトリビア』(新潮社事件取材班  新潮文庫)


 関係ないが、昼に食した黒いラーメン


 事件編は、猟奇的な事柄が多く、なかには映像では扱いにくいだろうなと思うこともあった。また、これは鑑識編であるが「人間は死後三日で、身体の容積が倍になる」という記述もあり、解剖医を扱った話もよく観ていてもあまり触れられていなかった気がする。当然とはいえ、現実とドラマとはあまりに違う。


 「死体は出産する」という項目があり「棺内分娩」というらしい。妊婦が殺されベッド下に隠されたが、「巨人様化」しマットを持ち上げるほどになって発見された例もあるという。事件や事故による死は、単純な病死とは姿がかけ離れることを想像すると身近な者の痛みとはいかほどか。出逢いたくない現実である。


 そう言われれば…と膝を打ったのが、刑罰編の事柄だ。「判決の最初に、裁判官が『被告人は…』と『は』から始めれば、言い渡しは無罪」。確かに数多くないが、判決言い渡しのシーンにあるようだと思い出す。これは「主文と判決理由」のどちらを先に言うか、つまり「被告人を…」が先だと有罪という形だ。


 もちろん例外もある。「死刑などを言い渡す際は衝撃が大きいので、先に判決理由から述べることが多い」という付記もあった。いずれそういう場に立ち会った経験はないし、したくもない。ともあれ社会の中では犯罪に絡む黒い現実が連鎖して起っていると想うことは無意味ではない。驚きがほんのちょっと薄まる。

残念な習慣から格言を拾う

2022年03月26日 | 読書
 雑誌代わりに風呂場読書にはいいかなと思い、あまり内容には期待せずに一冊110円だし…と2冊買い求めた。初めの一冊を読み始めてすぐ、ありがちなサイトや週刊誌などによく載る程度の情報だと分かった。そんな感じなので超高速で読み切ったが、改めて振り返ると、何か格言めいたことが浮かんできたりした。


『日本人の9割がやっているもっと残念な習慣』
『日本人の9割がやっているかなり残念な健康習慣』
 (ホームライフ取材班編集  青春出版社)



 健康オタクを自認する者としては、特に2冊目の「健康習慣」の方で次の論語の一節にたどり着く。

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」

 ビタミンCは錠剤で愛用している。これは結構長い。ところがこの書では「かぜはビタミンCで予防する」が残念な習慣として掲げられている。この情報はノーベル賞学者の説から広まったとある。しかし、その後に「さびしい研究結果」が出たとある。個人的に少し確信めいたことと感じていたので、ややショック。

 ナッツ類はビタミンE、αリノレン酸が含まれ、身体にいいとばかり思っていた。しかしクルミの脂質だと4.5倍のリノール酸が含まれ、過剰摂取の傾向になる場合は危険とある。「酢」や「アルカリ性食品」なども同様に必ず、弊害は意識しておいたほうがよい。こうした健康関係は、「ほどほど」が結論のようだ。



 もう一つ、強引な導き方あるいは少しずれているかなと思いつつ…

「一寸の虫にも五分の魂」「人は見かけによらぬもの」(と見てもよいか)

 「貧乏ゆすり」は「カッコ悪いから、絶対にやらない」という習慣は、残念なのだそうだ。「血流を促進し、むくみや冷えを改善する効果あり!」という理由だ。なるほど、エコノミークラス症候群の予防か。それにしても、意識してやるのは貧乏ゆすりと言わない気がする。やり続けるのはさすがにねえ、とも思う。

 「立ち上がるとき、『よいしょ』とは言わない」…この言葉を発したらもうトシだと言われるが、控える必要はないとある。理由は「『よいしょ』と口に出すと、動きがよりスムーズに!」ということ。筋肉が連動して動き筋力を高め、腰痛予防に効果があると言うではないか。この常識が広まってほしい高齢化社会。

雑念を愛してコクを…

2022年03月25日 | 読書
 別に練習などしなくとも人は老いる。書名を決めるのは、著者というより編集者の方かもしれないが、この名づけの意味は手に取る読者層、年齢層は感覚的に次の二つをイメージするのでないか。「老いる前に心がけておくこと」「老いていく現実をどう積み重ねるか」。練習好きの世代(笑)には、魅力的に感じられる。


『老いの練習帳』(外山滋比古 朝日新書)


 2020年に97歳で没した著者は、亡くなる1年前にこの新書を発刊している。もっとも単行本はその9年前、そして元になった連載原稿は40年前というから驚く。もちろん、時代を感じさせるエピソードもあるが、そのことは気にならない。自ら記すように「長く寝かせておいただけのコクはある」と感じた。


 その「コク」とはどのようにして生まれているのか。つまりは、普遍的な人間の習性や真実が寝かせられている。そしてそれに対する考え方、振る舞いや心構えなどがあまり変化せず貫かれているから、発酵しているイメージを持つのか。「古いものはもう古くならない」…生き残っている価値は、深みを増していく。


 章の立て方が、そのまま著者の流儀となっている。「荷物を持たずに歩く」「気分が変わるのを味わう」「話題は遠い人を選ぶ」そして「雑念を愛する」という章には、下のような一節があった。確固たる流儀はあるが、あまりに頑なにこだわらない。「人生は“雑誌”のようであってよい」…その軽やかさが好ましい。


ひっ迫が突然で、あれもこれも

2022年03月24日 | 雑記帳
 3月22日。知識の中途半端さを自覚しながらの正直な気持ちを…。

 昼までは、東京電力の「電力需給ひっ迫警報」なるものをTVでぼんやり見ていたが、帰宅してつけた画面に「東北電力」の文字も見つけてちょっと驚いた。ニュースを読むアナウンサーは「スタジオのライトも節電しています」と語り、「一室に集まって暖房を」「節電するには」等と、テロップがずっと流れ続けている。


 政府担当者の記者会見を見ても「お願い」ばかりで、原因、理由の類がどうも伝わってこない。先週の地震の影響という語もどこかズレている。もちろん電気を貯めておくことができないのは知っている。だから需給計画にそって運営するのだろうが、気温が下がる予測にも対応できないそんな脆弱なシステムなのかと思う。



 不意の災害やトラブルなら理解できる。しかし、これってシステム構築もしくは運用や判断のミスではないのか。発し方が急すぎる。様々な要素が重なってそうした事態に陥ったのかもしれないが、AIが拡大する世の中において、明快に原因を特定しないのは変ではないか。いや、あえて言わない(目立たせない)のか


 仮にこの先どんな事態になっても「ひっ迫」しているという情報を信じ、請われるままに従うのか。節電そのものより、筋道の見えない「お願い」が怖い。そして、画面に映し出される戦いの様子、痛ましい人の死、貴重な建造物等の破壊。思想上の対立よりこの有様で儲かると薄笑いを浮かべる人がいると想うことが怖い。


 コロナ禍であっても、いやだからこそ利益を得る層がいることを、多くの人が知っている。細々した必要商品から感染規模拡大によって値が上がるモノも…。東京では一部地域というがバブル期以来の地価高騰らしい、自身や周囲を見るにつけ「格差」だなと思う。そんなふうに、きっと圧倒的多数の人々が目を凝らしている。それが怖い。


好きなことを続けるために

2022年03月22日 | 読書
 書名から予想できる「60歳になったのだからこれをやりなさい」「70歳になったらこれがお勧めです」といった類の話は一つもない。つまり「年齢の縛りから自由になる」ことが基底にある。著者自身が古希でAPU学長となり、また歴史関連等の著書で脚光を浴びる存在だ。そのエネルギーの源を縦横に語っている。


『還暦からの底力』(出口治明 講談社現代新書)


 この本は読み取り方を間違えてはいけない。著者は「人生で大切なのは好きなことをする時間」「一皮むいたら人間は同じでアホな人ばかりで(略)それが人間の本性」「大事なことは時間にして2割強の仕事より、8割近くの時間を過ごす仕事以外の部分です」と言い切る。強く肯くけれど、具体化の肝は次にある。


 「この見極めがつくと、思い切って仕事ができるようになります」人生をしっかり見つめ、人間関係に煩わされたり空気を読んだりすることの無意味さを語る。力の向け方を根本から問うているのだ。ただ日本の組織にある「正直さの軽視」や「決断力ばかり持て囃される」傾向は、現実として大きく立ちふさがる。



 「つまらない」仕事に対してどう向きあうか。まずは思考停止に陥らないことだ。根強い長時間労働、製造業の工場モデルへの固執、前例踏襲、横並び主義、男女格差等々。自分も徹底できず悔やんだ点は少なくない。とはいえ、案外充実していたと今感じるのは、結構我儘に楽天的に好きなことを続けてきたからか。


 繰り返し登場する「『飯・風呂・寝る』から『人・本・旅』へ」というキーフレーズ。それは、高度成長期から成熟・停滞期(いや低迷期か)、また低学歴社会から高学歴社会という流れの中で、頭ではわかっていても実行できていない者が多い証左だ。誰かに飼い馴らされていては「人・本・旅」の本質も見えない。

二本のハシを持てばいい

2022年03月20日 | 読書
 筑摩書房Webサイト上の問答がまとめられた一冊。いわゆる「人生相談」「身の上相談」とは、ちょっと趣きが違うし、問いかける側も少し変わっている。もっともそうした類をピックアップし編集したのかもしれないが…。この著者なら、ごく普通の相談だと「くだらない。終わり」としそうな気配もするので…。


『何でも僕に訊いてくれ』(加藤典洋 筑摩書房)


 とは言うものの書名通りに受け取れば、あらゆる問いが許されるはずなので、バラエティに富んでいる。「『物欲』は所有欲か?排泄欲か?」「民族の歴史の責任をとることについて」「人に対して用いる二分法を教えてください」等々身近な生活から信条、思想に到るまで縦横無尽に語り尽くす。一種の講座でもある。


 「偏差値の低い大学で学ぼうとすることは、楽をしようとしているだけか?」という問いへの応えが典型的で「本質は何か」という点はずらさない。この場合は問う者の「学び」への姿勢。「学びたい」という強度がどれほどなのか。それに応じて有効性を持つ機会をどう手にするか。合理化社会の泳ぎ方とも言える。


 「大人になるための『条件』について」への応えで、次の一節に納得した。



 子どもは様々な物事に決着をつけながら日々を送り、その過程で「大人」に近づいていく。自己の言動を意識的に意義づけている者は少ないだろうが、何かしらの基準は抱えている。ただ、生きるうえでその基準に囚われているばかりでは苦しくなる。必ず別の見方や捉え方がもう一つはあると信じれば、ほっとする。