すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

とんでもハップンな小説家

2020年01月31日 | 読書
 久しぶりの伊坂本。発刊年は前者が2010年、後者が2012年。自分が人気作を文庫本で読み漁っていた頃か。独特の表現によってキャラ立ちする人物たちに格好良さを覚えたが、続けて読んできてややマンネリ気味になり、手にする頻度が落ちていった。正直今回の作品に往年(笑)のような魅力があったかどうかは…。


 【バイバイ、ブラックバード】(伊坂幸太郎  双葉社)

 「ゆうびん小説」という出版社企画で、作家が一話書いたら、応募して当選した50人へ送られる形がとられた。それが全6編で集約構成された一冊。設定が独特で、最後までキーワードである「あのバス」のことが明らかにされない。示されないからこそ、比喩として様々な現実と重ねられるか。この手法は興味深い。

 それ以上に読んでいて感じるのは、今風の「漫才」「コント」テイストと名づけていい台詞が非常に多いこと。ボケとツッコミのパターンが至る所に登場するのだ。これはある意味では、常識への問いかけ、不条理さへの皮肉が強いからだろう。こうした表現が「文学」と親密性が高くなり、お笑いと近いと感ずるのか。


 【残り全部バケーション】(伊坂幸太郎  集英社)

 裏稼業の二人を主人公にした連作。冒頭の第一章である表題作は読んだことがあった。以前手にしたアンソロジーに収められている。作家の得意な一つは、「意味ありげな言葉」のチョイスだなあとつくづく思う。最終章では「とんでもハップン」という懐かしい流行語?が登場して、ああと思わず唸ってしまった。

 「とんでもハップン」の意味は単に「とんでもないよ」であり、ハップンは発奮ではなくhappenだろうと知っていた。しかしnever happenからの誤訳とは…(諸説あり)か。それを「飛べても8分」に持っていくセンスはさすがと言える。こんなふうに遊べる慣用句や言葉選びのセンスは、やはり芸人と通ずる。

唖然としつつ一月も末

2020年01月30日 | 雑記帳
 大相撲初場所の件。誰一人予想しなかっただろう幕尻優勝で終わった。横綱がまた休場し、またかという気持ちになったが、見どころの多い場所だった。前半を賑わした遠藤、炎鵬、そして貴景勝、正代、徳勝龍。敗れゆく元大関らの姿…まさしく「戦国時代」の様相だ。


 感染症の件。武漢という都市名が強くインプットされたのは確かだ。急に病院を建て始める工事の様子に唖然としたし、春節の時期に限らず、我が国にとって中国が大きな市場であることを痛感する。やはり人類の敵はウィルスと、数年ごとに思いを強くする出来事が起こる。


 スキー場の件。終了宣言した近くの3場、これだけ降らないとやむを得ない。一方中国人客が多いとされる隣県スキー場での、授業を取りやめにした県内の学校があった。詳細は分からないが、そこまで逼迫しているか。どこで、何を目的に「切り」をつけるか難題が多い。


 「募る」と「募集」の件。ネット記事をみて、えっと驚き、つい笑ってしまう。これをどう解釈するか。「集」という字の持つニュアンスに期待したのだろうか。いや、そんな切り抜け方でも通用してきた事が重なり、権力が「募って」きたとみるべきではないでしょうかね。

求めていたのは、それだったか

2020年01月29日 | 教育ノート
☆6 ボツボツと四半世紀前の事

 いくらでも書けそうな気はするが、思い出し疲れ(笑)も出てきたので、少し歩を速めて記し、いったん締め括ることにする。


 研究指定を受け、翌年の公開に向けて学校が動き出した。
 職員異動規模もその年度は大きく、少し様相も変わった。

 教頭が昇任し異動となったので、この年から「学校報」を書く担当となった。
 ワープロ文豪5で、写真も取り込みながら校外への通信活動がまた始まった。

 考えるとそこから退職まで途切れなく、ちょうど20年間延べ8校で学校報を書いたことになる。ふと想う。同じようなキャリアを持つ教員は果たしてどのくらいいるのか。

 微々たる上達ではあるが、間違いなく編集技能はアップした。
 量として平均しても週1以上は発行しているはずで、総計1000は軽く超えるだろう。
 今確かめたら、初年度は87号まで出していた。



 「馬音」で始まり、「馬音」で終わったことにも因縁めいたことを感じる。
 ここは思い切ってライフワークだったのかと言ってしまうか(笑)。


 さて、指定研究は「教科」「道徳」「特活」の3分野でそれぞれに進行していった。その詳しくはあまりに膨大になるので書かないが、いくつか印象深く忘れられない点がある。

 一つは二年目、公開に向けて最後の指導主事訪問だった。
 授業参観し、研究協議をし、指導助言をうけるいつものパターンである。
 その場を総括する担当主任指導主事の助言は、ずいぶんと改善指摘が多かった。
 もちろん評価していただけた点も少なくなかったが、自分自身はその助言全体が腑に落ちなかった。
 公開日まであと三か月ぐらいではなかっただろうか。

 普通はタブーのことなのだろうが、細かい点を含めて反論の手紙を出した。
 そのいちいちは覚えていないが、大きく二つ、教育事務所としての一貫性を問うこと、そして指導助言が職員の励ましとなり得たかというメンタル的なことだった。
 あくまで私信であると断り、思いの丈を述べたことに後悔はなかった。
 学校に対する見方、私個人に関することで、何らかの影響があったはずだが、表面的な大事にはならなかった。

 もう一つは研究紀要の改善である。
 「読まれる紀要」への試みであり、典型的なのは巻頭言に換えての「巻頭対談」という形だった。
 校長と教育長に「豊かな心」をテーマに語ってもらい、それをまとめた。
 何が「豊か」かは、それぞれに異なるだろう。
 しかし、少なくとも意義のない前例踏襲は辞めたいと思った。

 その後、どんなふうに波及したかはわからないが、そんなこともできる、こういうやり方もあるのだなと、少しでも心に留めてもらえたように述懐できる。


 上の娘が3年生の時赴任し、卒業するときまで4年間在職した。
 その学年2学級に対して、同一展開で「やまなし」の授業をすることもできた。
 職員で「劇団馬音」を組織して、学習発表会や祝賀会等で演じたりもした。

 よく動いたなあという思いがふつふつと湧いてくる。


 今「働き方改革」という言葉を聞くたびに、学校現場を想像して気にかかるのは「働き甲斐」という点だけである。

 ただ忙しく目まぐるしく過ごした時期ではあった。
 しかし、確かに「働き甲斐」はあったなあ、と四半世紀前を強引に括ることはできる。

たよりをたよりにして

2020年01月28日 | 教育ノート
☆5 ボツボツと四半世紀前の事

 『授業づくりネットワーク』誌(学事出版)94年10月号に「たのしい実践」という枠で5ページにわたって、「学級通信で鍛える」と題した文章を載せた。
 それはその年に学級通信という「すばらしい特権」を失ってしまった自分の一つの区切りであったと言えるだろう。
 一方で、職員間の通信活動にも興味を持っていた私は、その年に不定期ながら10回ほどの教務だよりを出していた。

 そして、初任者二人が加わった翌95年度、通年で45号の教務だより「為」(つくる)を発刊した。
 4月中に出した5号までのタイトルを拾ってみよう。

1号 いいスタートをきる

2号 どんな学習ルールをつくるか
3号 学級経営案をつくる
4号 鍛えたい力①~視写、聴写
5号 「ウキョーシン」って何ですか


 事務的な連絡や指示が中心にならないよう、できるだけ自分の言葉で具体的な例を示しながら、書いたつもりだ。
 今読むと当たり前のことが多いが、まだ技術や技能が共有財産であることが徹底していない時期だったと思う。
 オープンに互いの実践を公開、交流しあう雰囲気づくりには一役買ったはずだ。

 この教務だよりにざっと目を通してみると、二年目のこの年に踏み出して提案し、学校ぐるみで実践できたことは多い。

 例えば、前年までの運動会から一歩踏み出し、PTA参加の枠を拡大した。
 これは地域からも好意を持って受け入れられた。
 そして、図書集会、ふるさと学習会という全校イベント。これらは当時としてはかなり斬新ななかみだった。コーナーを複数設定して選択制にするという試みだった。
 もちろんまだ不十分な面はあったが、子供たちには好評で活気ある時間を創造できたと評価している。

 「新しい学力観」「開かれた学校」「生きる力」…次々に登場してくるキーワードを、どのような形として具現化するか。それが本当に子どもの力に結びつくのか。迷いはあったが、創意工夫しながら進むことの充実感も感じてはいた。


 そんななか、次年度からの文科省・県教委指定が決まる。
 「豊かな心を育む」というビッグな文言は、囁かれ始めた「総合」を意識させるものだったが、ピントが甘い気もしていた。

歴史的な混沌の中で

2020年01月27日 | 教育ノート
☆4 ボツボツと四半世紀前の事

 たしか「指導方法の改善」という名目で、ティームティーチングの職員加配が始まっていた。
 郡市内で児童数の多い学校が対象になって動き出していて、N校もその一つだった。
 滑り出しは研究主任が主担当として算数などの教科で、いわゆるT2として入るのが多かったろう。そこから教務や教頭へと拡大し、授業の持ち時数の数的な例が示されてきた。

 変わりゆく児童の実態に照らし合わせれば、妥当な策だったと思う。
 しかし、職員全体としての隙間がなくなり、効率化のもとに余裕を失っていく状況も見られた。それが「ゆとり教育」というフレーズの浸透とともに、学校の多忙が進んでいった軌跡と重なることも皮肉に思える。


 さて担任外の自分は、当初からTTよりいろいろな時の補教、あるいは、特定の内容の授業を受け持ち、担任に空き時間がある方がいいのではないかと考えていた。
 また要望があれば単発の授業をし、担任に授業の見てもらう(子どもを観察する時間として)ことが有効ではないかとも考えていた。
 たしか最初に詩の授業を行った4年生の学級で、若い担任から「ベルばらみたいだ」(懐)と言われた記憶がある。そんな演劇的ではなかったと思うのだが…。

 本格的とは言えないが、6年生の2学級に週1時間程度空けてもらい「作文教室21」と名づけ、短作文の授業を継続した。11月から2月まで各組21時間(欲しかった)構想だったが、なかなか調整がつかず十数時間で終わってしまった。
 これも、野口芳宏先生が教頭職で「作文週1時間」を受け持っていたというお話を聞き、提案したものだった。
 内容は自慢できるものではなかったが、2学級で同じねらいで進めたこと、短作文連続単元の一例を示せたことなど、多少の成果はあったのではないか。

 今、記録を見返すと、私たちの世代には懐かしい「『私は、教室の窓から外を見ていました』という文につながる一文を書きなさい」という指示からその授業は始まっていた。

 展開スタイルは「説明・例示 →記述 →発表・交流・まとめ」と時間で区切った。作品紹介も学年通信を使って行った。
 今改めてみると、学習状況調査にはずいぶん役立つだろうなと、早すぎた実践(笑)に思えてくる。
 いや、そういえば自分はずいぶん前から仮説社などの資料でこうした文章表現を志向していたことを思い出した。


 94年は歴史的と言える「自民党・社会党・さきがけ」の連立政権が誕生した年である。その騒ぎがどのようであったか、今は思い出せない。そして年が明け、1/17で始まった95年は、3月に地下鉄サリン事件が起きる。

 世の中の騒がしさが、そのまま学校現場に映しだされたわけではないが、やはり大きく舵がきられている時期であることを今さらながら感じる。
 95年度も続けて綴ってみたい。

ギシギシと雪を踏みしめて

2020年01月26日 | 読書
 火曜の朝、久しぶりにギシギシと雪を踏みしめる音を鳴らしながら、職場へ歩いていく途中、「雪が降って、ほっとしたな。なんか気持ち悪くて…」と、除雪作業をしているご近所の方に声をかけられた。

 気持ち悪く感じる心がよくわかる。
 これだけ降雪が少ない年はめったにないし、なんとなく溜まり溜ってドカッとくるのではないかという不安がある。
 長年、この地で暮らしてきた人としてはごく自然かもしれない。

 もちろん、そのことを心配性というのは簡単だが、雪に限らず、昨今の自然災害頻発や被害の酷さを目にしていると、漠然とした畏れのような意識を抱いてしまうのだろう。

 ふと、連想が働く。
 人間はこのまま地球を牛耳るような姿勢で進んでいっていいのか。
 いわゆる環境問題を語るときに、根本にある一つの考えだと思う。
 所詮、私達人類が君臨している時期も、長いこの星からみれば、一瞬に過ぎないのだから。


 先日見た雑誌インタビューの記事を思い出した。
 原発絶対反対を掲げる『通販生活』に、田中俊一原子力規制委員会初代委員長が登場した。
 専門的な考察、判断についての是非はわからないまでも、彼の語ったこの潔さは心に残った。

Vol.184
 「千年先、二千年先のエネルギーの行く末を、今の人間が心配する必要はありません。100年たったら何が起こっているかわからないし、世の中もどうなっているか分からない。科学技術というのは当面100年ぐらい見通してもいいけれども、それ以上を考える必要はないというのが私の歴史観です。」

 一つの仕事に向き合い、突き詰めていったときに展望できる地点を、歴史観をもとに見通すこと。
 そういう心の中に、もしかしたら永遠が芽生えるかもしれない。

 雪を踏みしめて、ずいぶん遠いところに思いを馳せた。

限られた時間の中を人は進む

2020年01月25日 | 教育ノート
☆3 ボツボツと四半世紀前の事

 意を尽くす話し合いの価値は認める。
 しかし、仕事としての会議はそれを幹とはできないだろう。

 教員になった頃は、冬になると締め切った職員室にたばこの煙がたなびいていた。時にその中で繰り返される、思想や矜持のぶつかり合い…と、今は昔のはなし。


 94年5月「職員会議実施要項」と名付けて数ページの冊子を作った。

 昨年までの職員会議録に目を通し、月ごとの協議内容と提案部会、責任者を一覧にしておくことが一つだ(これは今ならごく普通になっているし、PC管理で簡単だ)。
 そして、もう一つは時間管理である。
 これは時刻明示と案件処理区分だった。
 具体的には、勤務時間を越えそうな場合は一定の時間を示して予告する。
 同意が得られれば延長、延長が困難な場合は案件を三つのパターン(担当部会一任、時間をとった継続協議、管理職一任)で処理していく内容だった。
 これによって、職員会議はほとんど時間内で済むようになった。

 「時間を守る意識」は当時もっとも強調したいことだった。
 数年前の指定校公開が拍車をかけたのか、研修会議が夜遅くまで続けられるという「伝統」があった。
 これについては少し時間がかかったが徐々に正常化できた。
 その2年後、また文科省指定を受けることになるが、この時に一定の形を作ったのは結構大きかった。

 研修を個人ですることはいくらでも構わない。しかし、他者と共に行うためには、最もマネジメントするべきは時間だ。
 ただ、その中で活発な論議を交わせなければ、単なる管理にしかならない。要は焦点化させること、柔軟な発想を呼び起こす設定や下準備だと考える。

 まとまりはつかないが、そのために結構あれこれと動き回り、浸透できたような気がする。
 今思っても、ベテラン教員は温かく、中堅層は活力があり、新人層は個性的で、いいメンバーだった。いろいろな人に支えられた。楽しかった思い出として残っている。


 職員会議実施要項を「緻密だな」と評価してくれたT校長は、職員室内の隣の席だった。
 ワープロ作業しつつ、ずいぶんと話に耳を傾けならねばならなかった(笑)し、すぐ動く態勢で待つ秘書みたいなものだった。

 「一緒にやるぞ」と声をかけられ、トンカチを持って校庭の遊具点検をする。
 さらには、「通知表を見るぞ」と言われ、校長室で全学年の通知表点検もした。
 校長が所見欄にあまりにたくさんの付箋を貼り付けるので、これではあまりに担任が難儀と「必要なし」と勝手に判断し、こっそり付箋を外してしまう生意気ぶりも発揮できるようになった。
 当然ながら、手書き、修正液使用の時代の話である。

 もっとも、このT校長とこういうひと時を共有できたのは、わずか四カ月。
 共同作業と言えるものはそれが最後になったのだった。

 夏休み。旧盆を来週に控えた日の早朝、I教頭より電話が入った。

 「校長先生がよお、なんだか身体の調子がうまくなくて…、」

 何のことだと思った。
 自宅で就寝中に急死したという意味とわかるまで、少し時間がかかった。
 さっそく駆けつけ、まだ布団の中に眠ったようにしている姿を見たことはいまだに忘れられない。
 隣席で「来年になったら、~~したい」と退職後の夢のあれこれ語った口調もまだ耳に残る。

 大変な事態であった。
 携帯電話がまだ普及しなかった時期である。葬儀に関する細々としたことも職場で行った。
 夏休み中であっても対外的な行事等は結構あった頃、停滞は許されなかった。

 休み明け、二学期が始まり、新校長を迎えて通常業務に戻っていった。

 こんなふうにしながら、痛ましい出来事を時間と共にみんなどこかへしまい込み、人は進んでゆくのだと思った。

4月23日のキセキと言われて

2020年01月24日 | 教育ノート
☆2 ぼつぼつと四半世紀前の事

 校長は留任だったが、教頭以下いわゆる7年部と称される担任外は総入替であり、4月当初は大変だった。

 1日に赴任して、次の日だったろうか。新入学生の保護者が見え入学式のことについて、泣きながら「約束が違う」と訴えられたことがあった。特殊学級児の扱いに関することだった。
 当時はまだ障害児教育に対する理解も進んでおらず、親はもちろん担任になる教員も複雑な感情を抱えていた。(特別支援学級という名称が使われる10年前なのである)
 その話し合いの場に同席した自分も無力さを感じた一コマだ。

 仕事全体の把握が求められる教務主任の仕事、前任校で3年経験したが、規模やシステムが全然違う。
 職員から「これはどうするんですかあ」と訊かれても、「訊きたいのはこっちだよう」と半笑い、半泣き顔でよく対応した記憶がある。
 まだ、PCによるデータ引継ぎが一般的でなく、文書綴りを見ながら新たにワープロに打ち込んでいく仕事が山ほどあった。二週間ほどは帰宅もずいぶん遅くなった。

 そしてなんと4月23日という早い時期の運動会実施である。今なら絶対に考えられない設定だが、既決事項であった。
 はっきりしたことは覚えていないが、とにかく猛然と準備を進めたのではないか。

 その運動会当日、早朝から雨が降ったり止んだりするなかで、校長に言われた。
 「さあ、どうする。決断するのは教務主任だ

 「えっ」(絶句である)

 一般的な常識とか法規とか、持ち出して議論する余裕もなかった。
 若さと勢いだけ(今なら天候データが参考できることが羨ましい)で「では、やりましょう」と、合図を花火屋さんに連絡した。

 午前6時を期して狼煙がバーンと打ち上げられた。
 その瞬間、ザアーッとまた降り出した雨の音が忘れられない。

 職員室待機をしていた私たちは、それから何本も「本当にやるのですか」という問い合わせや「何を考えているんだ」という苦情の電話を受けることになる。

 子どもたちの登校時刻まで約2時間。この間に、いろいろなパターンを想定してプログラム変更の場合など職員が動けるようにしておくことが大仕事だった。
 降りやまない場合、いったん晴れてまた降り出した場合など、いくつかの想定で指示を文書にした。

 どうにか雨は小降りになり、止みそうな気配の中、グラウンドでの開会式までこぎつけた。

 審判長の役目にあった私は「少しぐらいの雨に負けないで、春になった喜びを表し、思い切って走り身体を動かす会にしよう」と、ややヤケクソ気味に全児童を前に呼びかけた。

 願いが通じたのか、次第に天候は回復し、プログラム通りにやり切ることができた。

 全終了後、朝からの一日を振り返り「4月23日の奇跡だな」とある若い職員たちが言ってくれた一言が忘れられない。

 半数が異動したという事情もあり、当初少しよそよそしかった職員同士もこの辺りから団結力が高まってきたように思えた。


 このバタバタした時期が過ぎて、手を付けたかった仕事があった。
 教務の大事な役割としてある「会議の管理」…これに一石を投じたかった。

ぼつぼつと四半世紀前の事

2020年01月23日 | 教育ノート
 学校を退職した年の4月冒頭から何回か懐古録を書いた。

 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160402
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160404 
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160406
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160407
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160409
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160411
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160414
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160415
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160416

 それから昨年末も平成回顧という形で、やや裏面的な振り返りを記した。
 今、また少し書き残しておこうと思ったのは、「過去の整理」は大事だと改めて考えたからだ。

 教育界では「変革期」というフレーズは頻繁に使われるが、現在の状況もまた大きな山場のような気がする。
 結局、自分自身の立ち位置と考えの確かめだけに終わるかもしれないが、それも何かを支えると信じて、キーボードを叩きたい。

  ☆1

 山間部へき地校で複式学級を2年続けて受け持った私が、新年度(94年度)の異動内示をK校長から知らされたのは、トイレの中だった。

 笑い話ではない。
 3月卒業式当日、祝賀会を某所で行っていた最中にトイレに立った時、その場に居合わせた校長が「4月から、N小で教務主任だから」と手を洗いながらぼそっと言った。
 「えっ」と異動先よりこのシチュエーションかと驚いた。

 教職員の年齢層バランスが歪なこともあり、担任を外されるかもしれないと予想していたが、案の定であった。
 
 まだ30代でやりたい授業構想はたくさんあった。
 しかしまた学校づくりという視点にも興味を持っていた。
 それは、法則化運動の中で教育課程、学校づくりが次第にクローズアップされていた時期だったし、野口先生が教頭職で出版していた学校運営に関する本にも刺激を受けていたからだ。

 学年2学級規模、児童数約400の学校は、自分の母校であった。
 この年度替わりでおよそ半数の職員が替わる大規模な異動。

 少し経ってから、懇意にしていただいたM教育長に、「あまり大きく替わったので、従来のことが見えにくく困る」と訴えたら、「今までのやり方を変えようと思ったから、替えたのだ」と、その意図を知らせてくれた。

 ぐっと責任の重さを感じた。
 当時、数年前に文科省指定公開をした体育科の実践校として名が知られていた学校は、外から改革を迫られていた。
 たぶんそれは、子どもも含めた内からの願いがあったのかもしれない。

そこが決断した場所だ

2020年01月22日 | 読書

 【あなたがいる場所】(沢木耕太郎  新潮文庫)


 既読とわかっていても手にしてしまうには何か理由がある。書名が惹きつけるということも一つあるかな。この文庫の「あなた」とは、読み手を指している気がする。そして九つの短編のどこかに「あなた」が居ると提示しているようにも思う。七年前に読んでいたが、自分のいる場所が少し違ってきた印象を受けた。

 自分をつくる選択の連続(2013/12/20)


 当時残した感想は、やはり学校の現場人ならではという書きぶりだ。もちろん半分は今もそんな感じである。しかし今回新たに(残していないだけかもしれないが)、興味が惹きつけられた箇所がいくつかある。一つは、『虹の髪』で中年の官僚が自分を振り返り、「淫したことがないかもしれない」とした表現である。


 「淫する」は「みだらな」という意味の前に「度を越して熱中する」ことを指す。こうした渇望を抱える者は結構多いはず。「淫」とは高揚感を与えるが、同時に人生を損ね、逸れさせる危険性を孕む。自分がその経験を持つか持たないか、あるいは乗り越えたかを、ある程度の齢になると振り返る時があるのだろう。


 最後の『クリスマスプレゼント』には、心打たれた。一人暮らしの老年男性が、離れた息子に送る荷物詰めの場面から始まる。絵本の事や幼い頃に過ごした感覚の叙述など、現在の自分に近いものを感じたのだろうか。大事なことはたいてい後から気づかされるのは、「物語」の常道的な筋と言えるがいつも頷いてしまう。


 角田光代のあとがきは、今回も素晴らしいと思いつつ読んだ。今回も「人生は選択の連続」という意識を強く持たせられるが、その場その場における決断、決意ということも齢を重ねるに従って、意味が違ってくると教えられた。少し長いが、以下の文章を引用する。さらっと語っているが、少し叱られた気分になった。

 大人の決意はもう少し、自覚的である。そして、彼らが為すのは、その後を決める類の決断ではなくて、彼らが彼らとして生きてきた、その時点での決断である。だからそれは、どんな人になるか決めるのではなくて、どんな人になったかを示している決断にも思える。