すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

今、気になるのは実験の行方

2020年05月31日 | 読書
 地元の方が書いた本を2冊改めて読んだ。回顧録的内容で見知った人物もいて興味深い箇所も多かった。気になったのは実名である人とそうでない人がいることだ。もしかしたら、創作上の初歩的常識なのかもしれないが、何故だろう。TVドラマだとフィクション色が強いから、朝ドラで変な?役名でも驚かないが…。


 新型コロナ感染に関わってだろうが、新聞で自殺予防に大きく紙面が割かれていた。経済的事情を苦にしての…は有りがち理由となり意図はわかる。一方誰かが喋っていたが、この感染拡大で自殺者数が減っているとの情報もあるらしい。学校や会社に行かなくていい事態が抑止につながったのか。なんとも気になる。


 女子プロレスラーの自殺の話題がずいぶん続いている。番組もその当事者も知らなかったのでなんとも言えないが、少なくとも有名か無名かの違いはあれ同様の事例は頻繁に起こってきたはず。抜本的対策が必要なこと、そして匿名性の持つ毒の強さは大多数が分かっている。法規制がどんなふうに進むか、気になる。


 「野球に喩えれば、まだ一回の攻防が終わったばかり」と、かの8割おじさんこと西浦教授がTVで語っていた。先は遠いがアフターコロナをめぐる様々な論述が増え、目まぐるしいほどだ。マクロな観点ではなくきわめてミクロな観点で受けとめてしまった一節は、「村上ラジオ」でかの村上春樹が語っていたことだ。

 この「自粛期間」のせいで、僕らの生活にとって「なくてはならないもの」が何か、「なくても別に困らないもの」が何か……そういうことが少しずつ見えてきたんじゃないかな、という気がします。そういう意味では、ある種壮大な「社会的実験」みたいなものが、世界規模でおこなわれたんじゃないでしょうか。

 この実験はよく観察して、結果を細かく記しておく必要がある。

「安全・安心」の甘さに喝

2020年05月29日 | 雑記帳
 題名を見て自分にも当てはまるかと思いつつ、『「昔はよかった」病』(パオロ・マッツァリーノ)という新書を読んだ。13章にわたり治安やクレーム、絆とふれあい、商店街等々昔との比較で話題になりそう点が、暴き出され?ている。しかし冒頭が「火の用心」の夜回り風習の事で、いささか興味を失くしたのだが…。


 第8章「安全・安心ウォーZ」で、ぐっと惹きつけられた。教職最後の十数年に、この「安全・安心」というフレーズをいやというほど聞いてきた脳が反応したのだろう。何度も繰り返されて「またか」と慣れてしまい、じっくり考えずに過ごしてきたが、何か小さなわだかまりが残っていて、そこが刺激されたのだ。


 著者は、章の冒頭「”安全”と”安心”は水と油ほど違う」と言い切る。確かに語意そのものは違うのだが、何故か「安全・安心」とセットにされて法規化されたり吹聴されたりしている。「決定的な違いは、危険(リスク)に対する態度」にあり、安全確保が安心につながるという通俗的な文言の甘さを指摘しているのだ。


 つまり「安心はこころの状態」に過ぎず、現実の危険と冷静に向き合う「安全対策」とは、ある面で相容れない。それを使う矛盾を著者はこう語る。「安心は、安全であることを保障しないのです。安全の実現のためには、安心することは許されません。」屁理屈を超えて、二語を並べる精神が中途半端を引き起こさせる。


 「安全・安心」が頻繁に使われ出したのは90年代後半。歴史的な事件等を紐解いても理由はわかる。政治家のスローガンとしてもよく使われ、実際に優先されているのはどうやら「安心」の方だ。統計的・科学的に探る「安全」がないがしろにされるから、先の「マスク」のような政策になるのではないかと気づく。

カキフライな訳

2020年05月28日 | 読書
『カキフライが無いなら来なかった』
 (せきしろ 又吉直樹  幻冬舎文庫)
『まさかジープで来るとは』
 (せきしろ 又吉直樹  幻冬舎文庫)

の続きで…。
  
 人気番組らしい『プレバド』が日曜昼に週遅れで放送されている。
 先日はレギュラー出演者の梅沢富美男が、俳句作りで「永世名人」に昇格する場面を、たまたま観ていた。
 講師である夏井いつきが、ランクアップの訳をこういう賛辞で表した。

 「季語を信じる力がある

 それが俳句をつくるうえでの最大ポイントでもあるかのように、力強い言葉だった。

 そうかあ…句作など年に一度、二度しかやらないが、今さらながら自分にはない力だと痛感する。
 だから…自由律でやってみたらどうだ!
 と、そんな単純なものではないだろう。

 そんなことが頭をよぎりつつ読む。
 『まさかジープで来るとは』の解説で、俵万智は「(自由律とは)ただの『自由』ではなく『自由』でありつつそこに『律』がないとダメなのだ」と断言する。

 「律」とはそもそも「秩序、きまり」である。
 「自由」と相反する語との組み合わせであり、考えようによってはこれほど難しいものはない。

 で、『カキフライ』の句である。
 そこに「律」があるのか、という問いを立ててみよう。



 無理矢理この句を俳句?風に仕立てたら

 「カキフライ 無いなら来ない 冬の宴(えん)」となろうか。

 これではしょぼい姿はイメージできるが、それほどのインパクトは感じられない。残念、つまらないという感情は見えてもエネルギッシュさが伝わらない。
 それは定型でまとまっているからだとも、あまりに陳腐な下句をつけたからだとも考えられる。

 それに比べると「カキフライが無いなら来なかった」という潔さは、そこに憤まんやるかたない姿が見えて、印象的だ。
 カキフライにかぶりつきたかった話者の現状が垣間見える。

 使った語の流れに、若干の音韻的な要素も混じっている。
 だからエビフライより、カキ鍋より、カキフライがふさわしい。

 しかし、これが「律」と呼べるかどうかは自信がない。


 と、まあほんとに愚にもつかないことを書き並べてしまった。
 締めくくりは、読了記念に作ったことない自由律の句に挑戦。

 「布マスク2枚待つ気あるの」

こんなに文庫本が誘ってくるとは

2020年05月27日 | 読書
 『カキフライが無いなら来なかった』
  (せきしろ 又吉直樹  幻冬舎文庫)

 『まさかジープで来るとは』
  (せきしろ 又吉直樹  幻冬舎文庫)


 ここ数日、この2冊が風呂場読書のお相手だった。
 自由律俳句とエッセイと写真による構成。
 エッセイはなかなか達者だなという気がした。いずれも短いけれど、その世界にひき込まれる文章も多い。



 世界観が似ている二人なので、俳句は名前が記されていないと明確にはどちらの作品が判別しにくいかもしれない。
 ただ2冊読了すると、うっすらと滲み出てくる気配もある。
 『まさか~』で解説している俵万智によると、それは、せきしろの「とほほ」と又吉の「シュール」と区別されるらしい。
 ページの端を折っている箇所をみると、個人的にはどうやらせきしろの方が共感できる度合いが近いかな。

 『カキフライ~』の解説が、金原瑞人で少しびっくり。
 お気に入りの絵本『リンドバーグ』の訳者である。金原はこの本を「ひとつの文学的事件だと思う」と評し、このように書いている。

 なにしろ、日常の断片のような、俳句と短い散文と写真を使いながら、これだけ読者の自主的・積極的な参加を要求するのだから。


 又吉の句に一つ参加してみると…

 「転んだ彼女を見て少し嫌いになる」

 この湧き出た感情「嫌い」はどこに向けられているのか。
 状況からすれば、対象は「彼女」とみるのが自然だ。
 しかし、話者は冷静であることが「少し」でわかる。
 その意味で、直截的に書いているようでかなり俯瞰的だ。

 さらに、いつ、どうして嫌いが湧き起ったか。
 転ぶ瞬間か、転んだ後か、転び方か、転ぶときの表情か、転ぶ以前の状況設定か。
 そうなると、もしかしたらと視点を変えれば、嫌いの対象が自分になる。
 一つは一緒に居た自分に、何らかの責任があった場合。
 もう一つは、自分がとった行動や湧き出た感情を見つめた場合。

 …とこんなに深読みをする必要も義理もないけれど、読んでいると、想像以上に「」を設定したくなるように誘ってくる。

 そもそも『カキフライが無いなら来なかった』という書名にしても、なぜカキフライかを想像、分析してみることから始めると、なかなか興味深いではないか。

 以下明日へ。

ぼっこれあんべぁの似合う人

2020年05月26日 | 雑記帳
 先週、職場で雑談していたときに田植え機の話となり、非常に懐かしい言葉が飛び出した。「ぼっこれあんべぁ」。地域的にどの辺りまで通用するかわからないが、口にした人は私よりずいぶん年下なので、少なくとも羽後町や秋田県南部では、ポピュラーな遣い方だったろう。「ぼっこれる」+「あんべぁ」の複合語だ。


 2語とも『秋田のことば』には見出し語として載っていない。もう一つ厚い『秋田方言辞典』も調べてみた。「ぼっこれる」は「ぼっこれる⇒ぶっこわれる」として表記されている。前書では「ぼっこれたまぐら」として、かの有名な「くされたまぐら」(何にでも口出しする人)と同義として載せられているのみだった。


 「あんべぁ」は「あんばい」でこれは「塩梅・案配」という語の訛りだ。しかし秋田弁としては頻度が高いと思われる。方言辞典の方には載っていたが、『秋田のことば』には、単独でなく「あんべぁわり」(具合が悪い)として挙げられている。「いいあんべぁ」などもよく使われるはずだが、訛りでは見出し語は無理か。



 何故「ぼっこれあんべぁ」が胸に引っかかったかというと、どう訳すかと考え即座に「壊れかけ」と口をついて出たためだ。それから「ぼっこれあんべぁのradio」(笑)という曲名がすぐ連想され、そこから最近「ぼっこれあんべぁ」という語を使わなくなった…そういうモノが少なくなった…修理もしない…すぐ棄てる…


 「ぼっこれあんべぁ」の響きのよさに惹かれて、そんなふうに想が連なってしまった。今「だましだまし」の精神で、物品ならず身体も支えている自分にはぴたりと似合ったということか。それにしても困難な世の中で、TVに登場する面々の中にも「ぼっこれあんべぁ」が多いなあ。あっ、名前と同じあのお方も…

定年後に考える定年後

2020年05月25日 | 読書
 「定年(後)」をテーマにした書籍は、いわゆる団塊世代をねらって二十年ほど前からたくさん出版されているはずだ。自分も時々手にしてきたし、刺激になったこともある(実行できているかはまた別)。著者の多くは当然年上だったが、同齢の人たちも書くようになったと、改めて「定年後だな」(笑)との思いを強くする。


 『俺たちの定年後』(成毛 眞  ワニブックスPLUS新書)


 成毛眞は同世代の一つのモデルとして注目していた。華やかな経歴通りに軽快で歯切れのいい語り口だ。この新書は読者層を50代ぐらいに想定した「60歳からの生き方指南」。「やりたいこと」を「わがまま」にするための発想をせよ、人やモノや時間との「つきあい」方を変えよ…まあ、ある程度予想できる提言だ。


 ほんのいくつか自分も出来ていると思う内容もあったが、やはり生活の拠点が都会か地方かという違いは大きい。交通、文化、地域社会等々かなり複数の観点で指摘できる。もちろん、いずれであっても行動を支える金銭的余裕があれば実現できる。しかし馴染めるかどうかは、背負ってきた環境による度合が大きい。



 それはさておき「自分を拡張するツール」という考え方はいかにも著者らしい。スマホの新調ばかりでなくメガネや双眼鏡等、意外に細かい。他章で「照明」や「服装」があったように、快適に過ごすための目の付け所に感心させられる。ツールは一人一人違っていいが、肝心なのは「使いこなす精神」のあり方なのだ。


 最終結論は「やりたいことをやり、やりたくないことはやらなくていい」。この言をどのレベルで考えるか。「やりたくないこと」に対する許容度、負荷のとらえ方は…そんなふうに思い巡らすと、年齢に関係なく結局は「心身」の慣らし方に思えてきた。感染問題を抱える今、受動的ばかりではいけないと言い聞かせる。

まってる。絵本が届く

2020年05月24日 | 雑記帳
 先月だったと思うが「小山薫堂 東京会議」というBSの番組で、放送の最後に小山が一冊の絵本を朗読した。その書名は「まってる。」。外国の絵本でそれを小山が訳したらしい。コロナウィルス感染によって非常事態宣言がなされた中だったので印象に残った。当然、制作する側もそれを意図したものだったろう。


 絵の中身は詳しくは紹介されなかったと思う。その時はそれほど直接読みたいなあと感じなかったのだが、先週ネットで話題にされていてふと思い出した。うちの図書館蔵書にはなかった、では購入してみるかと通販サイトを当たったら、評判で品薄らしい。コンビニ系書店でなんとかなりそうな表記があり、注文した。


 送料のこともあったので、最近発売された絢香「遊音倶楽部~2nd grade」のCDも一緒にポチっとした。届くまで時間はかかるかもしれないとのんびり待つ気でいたが、思いのほか早く出荷メールが届いた。そして昨日、無事到着。まず絵本の版型にびっくりした。A5変形という横長である。体裁は非常にシンプルだ。



 早速包みを剥がし、一方のCDをディスクに入れて流しながら、絵本をめくってみた。ふむふむ。「”おにいちゃん”ってよばれる日を まってる。」から始まり、日常の一コマが連なり、人生のいわば「喜怒哀楽」(ちょっとイメージは違うかな)が表現されている。それぞれのページを繋ぎ、象徴するのが赤い毛糸だ。


 ひとつのモノをどのページにも登場させ意味づける手法は、他にもあった気がする。版型にマッチさせた構成がいい。間違いなく大人向けだ。人の結びつきの有難さを考える今、なおさら心に響く。最終ページは赤い毛糸の写真で、めくった時に、まるで嘘のようにスピーカーから絢香の歌う「糸」が聴こえてきた。


欲をかくなと教えてくれる

2020年05月23日 | 雑記帳
 私をタケノコ(ネマガリダケ)採りに連れだしてくれたのは、亡くなった叔父である。学生の頃が最初だったと思う。栗駒のシーズン期に数年兄らと一緒に出かけた。見つけて手を伸ばしながら次を探すような「山菜取りあるある」が身についた。その場で調理したり温泉に入ったり、楽しかったことが思い出される。


 30~40代は休日も忙しくしていたため、ほとんどそうした機会はなかったが、50代から近くの里山に入り、自然から頂く恵みをまた採りはじめた。知識がないので限られた種類しか手をのばさないが、秋キノコを含めてもタケノコが一番面白い。しかし遠くまで出掛ける技量はないので、シーズンはわずか2週間だ。



 4月のタラノメ、スジノコ等が終わり、数本見え始めたのが5月連休の翌週。その週末にはわずか1時間半で結構な量が採れた。残り1週間ぐらいで終わりになるだろうと少し心が逸った。だから木曜朝は小雨ではあったが、もう一度入ることにし合羽姿でポイントへ向かった。前回ほどではないが程々に生えている。


 小雨が止まずそろそろ上がりと道の方へ向かっていたら、細い水の流れを挟んだ向こう側に背の高い竹林がある。ちょっと入るかと欲が出てきた。近くでは樹木伐採作業があり泥が流れ込んでいるが大丈夫だろうと、足を踏み出した瞬間、ズボッと嫌な音とともに長靴が泥にめり込んだ。おおっ、蔓に捕まるしかない。


 田植え時の水田レベルを超えズブズブ深い感じだ。必死に片足を踏ん張り、蔓を引っ張って脱け出た。ああこれは「欲をかくな」と誰かが教えてくれている。採取する幸に加え、野鳥の声を近くに聴く楽しみも、そしてちょっとした辛苦も味わわせてくれる自然の深さを想う。導いてくれた叔父に今さらながら感謝した。

人生相談回答者の本質

2020年05月22日 | 読書
 先日読了した小説『できない相談』と書名は似ているが、こちらは人生相談の新聞連載欄をまとめた一冊だ。ある書評で見かけて興味が湧き読んでみる。著者の小説は得手ではないが、この文章は読みやすく、書評通り面白く感じた。こうした回答者に必須なのは、人生経験の量ではなく、経験を質に変える才能だ。


 『誰にも相談できません』(高橋源一郎  毎日新聞出版)


 相談の中身は多くがそうであるように、恋愛、家族、仕事、性格等々がほとんどである。中でも夫婦、親子、嫁姑などが目立つが、家族関係、離婚歴、子育てにおいて、相談者の困り事を上回るような経験がある著者なので、最も身近な自らの実例を吐露しながら、そこから導き出した意思をストレートにぶつける。


 相談者のほとんどは「解答」を求めて投稿している。しかし「回答者」が放つ言葉とは、今持っている問いに対する解決策というより「新たな問い」の立て方、またはずらし方と言えるのではないか。現実の苦しさ、厳しさに近視眼的思考に陥っている者に対し、複眼的、俯瞰的になることを奨める達観の文章が続く。


 作家だけに構成上の工夫もうまい。ある家族の相談を、その家の「子どもから届いた手紙」という形で紹介し、問題の核を明らかにしている。また占いが気になる相談者には、「知人の占師」の言葉として、「信じる意味」を伝えたりしている。作家による創作だとは断定できないが、その工夫は寄添いから生じている。


 子育てに悩む母親への回答は、全身全力で事に当った者だけが心の底から語っているような印象をうけた。個人の物語から導き出す思想と言ってもよい。
「わたしにとって子育ては、自分が愛する能力と子どもたちに教えてもらったことです。愛してあげてください。それだけでいいじゃないですか。他のことなんかどうでも。」

その欠片を手にとって眺める

2020年05月21日 | 読書
 Webちくまに「piece of resistance」として掲載された文章が単行本化された一冊だ。

 『できない相談』(森 絵都  ちくま書房)

 全38篇、一篇が4~6ページなので「掌編集」というべきか。
 テーマはpiece of resistanceとあるように、「日常の小さな抵抗の物語」と帯文通りだろう。



 この作家は間違いなく短編の名手だと思っている。
 それゆえ、最初この程度の量だと「あれっ」と思ってしまい、肩透かしをくらったような気分になった。
 もちろん、テーマの切り取り方や表現に文句はなく、ついそこからの展開を期待してしまうので、ある意味でやはり手練れなのだ。


 しかし、途中から「これは…」と頭の中で思いついたのは、この一冊は落語の小噺集として十分成立するのではないかということだ。
 現代社会の小さな綻びや個人にある偏執的な思いなとが、実によく切りとられている。

 そんなふうに考えたら、なんだか立川志の輔の声が頭の中でするような錯覚に陥った。
 師匠談志は「落語は、人間の業の肯定」と言ったが、ある意味通じる感覚がそれぞれの話にあるような気がした。

 例えば、ネタバレになるが「満場一致が多すぎる」という一篇を紹介すると、こんな流れだ。

 会社の役員会がいつも「上役」の顔色を見ながら満場一致で決まることに不満を持つ主人公の課長は、それは真の民主主義とは言えないと、ある日ついに決意し、会議上で震えながら「満場一致による議決には警戒すべき盲点がある」と問題を提起し、覚悟して賛否を問う。そしてその提起は、満場一致の挙手で決定される…という具合だ。


 どんな人にも一つ二つ、他人からみれば妙なこだわりがあるものだ。
 しかし突き詰めて考えると、案外それがその人を表す芯になっているのではないか。

 こだわりというより、piece of resistanceと言えば少し格好いい。

 自分のpiece of resistanceを手に取って眺めてみることも大切だ。