すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

不健康なまま、トショル

2018年12月31日 | 雑記帳
 真冬日の続く年の瀬だが、「ガラスの六十代」(笑)としては今年も結構楽しい1年であった。病弱いやアチコチにがたが来ている身体は承知済みで、それをどうにかやり過ごす術も徐々に身についてきている感じだ。「健康の為なら死んでもいい」という処世訓を、「不健康なまま生きる」に変更しようかなと考えている。


 今年もコンスタントに遠出した。10月から孫のお世話が始まったので、それを意識して計画した。7月のフェリー&愛車を使った北海道巡りと9月の中国早回り旅行(笑)は、やはり印象深い。性格上冒険してはいないが、それでも振り返ってしみじみ思い返される風景、考えさせられる諸事が多く、いい時間を持てた。


 続けている映像関係のボランティアは一層充実したように思う。地元美術館主催の芸術祭記録も昨年同様にダイジェストの他にPR版もつくり、FBにアップしたらシェアも広がり1800を超えるアクセスがあった。エンディングは会心の出来だったと自負する。機材は揃えられないが、撮影や編集技術は上達したかな。


 町の「手作りふるさとCM」への参画は3年目だ。今年の作品は、構想提案と撮影、編集を一手に引き受け、周囲の若き才能と協力のおかげで好仕上がりになった。ご承知のようにいい賞も取れたが、それ以上に審査会でのお褒めの言葉が嬉しく響いてきて、何歳になっても評価されることは楽しいものだと実感した。


 嬉しいと言えば7月に野口芳宏先生ご自宅での素麺塾に久々に参加し、俳句会で最高点となり、先生ご自筆の短冊を賞としていただいた。まさに「家宝」となった。「骨太の男の季節真夏来る」という有難い句。あまりに遠い現状に自身を嗤うしかない。不健康なまま…とふざける者は戒めにしなければ、と真冬に思う。


 後半三ヶ月は特に、孫の成長を強く実感する季節となった。カメラで日々撮った画像を編集するため改めて見直すと、自力で立った時から伝い歩き、そして一歩、数歩、さらに自在に歩くまでの場面が収められている。その画面には、周囲の寄り添う気持ちの歴史も映り込んでいるようだ。幸せな時を過ごしている。


 今年も本サイトに訪問いただき、拙文におつき合いくださった読者の方々、誠にありがとうございました。

 来年はもっともっとよい年を!

 それぞれに、そしてみんなで作りあげていきましょう。

何かをし過ぎる人よ、読め

2018年12月30日 | 読書
 読みかけの本はあるが、この一冊が最終読了か。おそらく今年一番多く手に取った作家吉田篤弘で締められることに満足だ。短編集で、連作」とあるのは、直接的な関わりが深くないからだろう。けれど、誰の人生もそうであるように、何かと何か、誰かと誰かはどこかでつながり、それぞれが大事なピースだ。


2018読了121
『台所のラジオ』(吉田篤弘 ハルキ文庫)


 自分が吉田作品に惹かれる訳が確かになった気がする。小説には当然ながら、複数の様々な性格を持った人間が登場する。その中でこの作家が愛すべき対象とする人物は、ある特徴を持っている。例えば「なぜ、速いことをよしとするのか理解できない」「若々しいものや瑞々しいものが苦手」と口にする人たちである。


 端的に括ると、常識的な価値と考えられていることに染まらずに生きている人たちと言えよう。それゆえ苦労している現実を持つ人もいるが、秘かな愉しみを見つけたり、傍からみれば意味のないようなことに没頭できていたりする。例えば、ひとつの食べ物を同じ手順で食べるといった行為を、こう説いてみせる。


 「云うまでもないが、快楽とは反復のことであろう。体に反復を与えることが快楽であり、体に反復を覚えることが快楽なのだ」…この思想は次の表現にもつながる。「流れたのは時間だけだ。嵩んだのは時間の重みだけだ。」だから、この短編集に登場する店、人、食べ物等には不動の魅力があり、揺らがず存在する。


 とかく、みんな動き過ぎ、走り過ぎ、喋り過ぎ、気にし過ぎ!と何かの漫才のようだが、経済優先の世の中に振り回されている。歳末に噛み締めたい一言が最終話に載っていた。「何かを見つけることだけが大事なのではなく、何も見つからないこともひとつの結論なのだ」…どんな一年だったか、振り返る夜にしたい。

歳末、キニナルキが降る

2018年12月29日 | 読書
 『ちくま』1月号の読み応えはいつもと変わらないが、考えさせてくれる表現が目についた。


Volume.133
 「六十代前半のおっさんたちは、どうも最近、年齢の話に過敏というか、あんまり年齢を意識させることを言うと極端に落ち込む場合がある。ガラスの六十代は取り扱い注意なのだ。」

 ブレイディみかこが書いている連載の一節なので、具体的にはイギリス、つまり英国男子(笑)を指しているのだろうが、日本にも当てはまるかなと考えてしまった。
 当の自分は棚上げすると、やはり定年退職、定年延長、年金等々の問題と直面するから、いろいろと考え込むことはあるのかもしれない。
 世代的に「ガラスの六十代」とは、なんとなく言い得て妙だ。


Volume.134
 「嫌われること好かれることが、現実世界より簡単に頻繁に起こる中で、『もういいや』ってそこに振り回されるのを放棄して、やりたいこと、したいことを優先できたひとから、ネットの自意識から逃れていくのかもしれない。」

 「エゴサ」とはなんことかと思ったら、エゴサ―チ(自分の本名やハンドルネームなどをインターネット上で検索して、その評価や評判を調べること)の略らしい。そのことを話題に、最果タヒが書いている。

 自己顕示欲を表す場としてネットはお手軽だけど、本人の思うほど効果?はあるわけがなく、その点に気づくかどうかはネット以外の場と同様じゃないかと思う。
 道具としての有用性を生かすことに絞っていけば、エゴサはエゴサなりの意味が出てくる。


Volume.135
 「足がある人は歩ける、足がない人は歩けない、というのは本当だろうか?足がないというインペアメント(症状)と歩けないというディスぺアビリティ(能力欠如)は同じことなのだろうか。そうではない。」

 萩上チキが、障害に関する新書の書評に書いた。「障害学」の考え方だそうである。
 「自立」する力を高めることが子育てであり、教育の仕事だと疑わずに生きてきた。今は否定できないけれど、ひょっとしたら優先順位としてもっと考えるべきことが出てくるかもしれない。
 そこを揺さぶらないと、蔓延する自己責任論、不寛容な社会に同調していく気がする。

 取り上げられた新書『なぜ人と人は支え合うのか』(渡辺一史)が、今年最後の注文Bookとなるか。

もう一度、叱られる…

2018年12月28日 | 雑記帳
 S先生とは二度同職した。初めは大学を卒業したばかりで臨時講師となり、山間部の小規模校に勤めた半年間だ。「カミナリ先生」と題してここにも記した時期で、まさに右も左もわからない状態だった。記憶はおぼろげだが、S先生はおだやかな表情でいつも見守っていてくれた。酒が入ると陽気で楽しい方だった。


 次は、町平坦部の学校で一緒になった。採用後3年を経ていたが、「イノシシ教師、うまくまわれず」と題し綴ったほど、あまりに思い出深い職場であった。生意気を絵に描いたような教師だったので、管理する側からみれば本当にやっかい者の自分を、陰になり日向になり支えてくれたのはS先生だった。間違いない。



 S先生はその学区に住居を構えており、何度かご自宅へお邪魔して酒を酌み交わした。なかに忘れられない思い出がある。組合活動に関する話をしていた時だった。その時分、研究集会などへ非組合員として参加しながら、加入を躊躇っていた私は、前任校での職員の不甲斐なさや運動の半端さを指摘したのだった。


 それに対しS先生は毅然として持論を展開した。めったに見せたことのない強い口調だった。その詳しい中身を一つ一つは思い出させないが、ふいに自分が涙を抑えられなくなったことは鮮明に浮かぶ。ああ叱られていると思った。協力や団結を子どもへ偉そうに語る自分のいい加減さを、見事にえぐられたのだった。


 長くおつき合いさせていただいた。地元に詳しいゲストティーチャーとして勤務校に招き、子供たちの前で語っていただいた時もある。奥様を亡くされてからも、しっかり心身の管理をされていることに感嘆したものだったが…。訃報に接し最近の無調法を詫びずにいられなかった。もう一度叱られるべきでした。合掌。

忖度なき爽快感

2018年12月27日 | 読書
 注文した文庫本が届いた。通常は風呂場読書が多いので400ページ以上だと4日ぐらいはかかるが、案の定面白くなってしまい、読み続け2日で読了。「5.5」で初めて登場した人物が好対照な存在として描かれていて、竜崎の信念を際立たせている。もちろん単独でも十分楽しめるが、続けて読む愛読者にはたまらない。


2018読了120
 『隠蔽捜査6 去就』(今野 敏  新潮文庫)



 新登場する若い女性警官の根岸とのやりとりが興味深い。熱心な根岸は少年少女のために献身的に夜回りをしている。その独自な判断に、竜崎は苦言を呈し、合理的な説明を求める。根岸の思いに触れ、組織の合理化とは何かと自ら問い直し、そこに一般市民の警察への求めを見出して「一つの合理性」と結論付けた。


 機構や組織の中に入る者にとって、考えねばならない本質的問題点がある。「企業の合理化というのは、経営者のための合理化だ。被雇用者にとってはとても合理的とは言えない措置だ」…自明のことだろう。しかしこれは様々な場に当てはめられる見識であり、組織にとって本末転倒にならないための警句とも言える。


 視点人物である竜崎の言葉は、いつも小気味いい。「ジャーナリズムよりセンセーショナリズム。それが今の日本のマスコミの現状だ」という的確な批判。「無意味と思える指示も、組織内では有効に作用することがある(略)メッセージのための、メッセージだ」という現状把握、コミュニケーションの意味付けになる。


 解説を作家の川上弘美が担当したことに驚いた。数年前から今野敏作品にハマりだしたという。そこに記された一文は、自分も含めて多くの読者が惹かれることと同一だ。「竜崎には、忖度というものが、ないのです」。この一種の美徳によって世の中がいかに汚されているか。読者が爽快感を覚えるのはそのためです。

時事を笑い倒せ

2018年12月26日 | 雑記帳
 先週土曜の夜NHKで「時事ネタ王2018」という番組をやっていた。漫才、コントで時事ネタを扱うコンテスト形式の内容。出演者はそれなりだったが、時事といえばやはり、ザ・ニュースペーパーや爆笑問題、それから渋いところで松元ヒロあたりは出てほしい。ただ若手に取り組ませるというねらいはいいと思う。


 6組は「パワハラ」「米朝首脳会談」「米中貿易摩擦」「不正入試」「仮想通貨」等を取り上げた。さすがに切れ味鋭いという感じはなかったが、昔の演芸番組はあんな雰囲気もあったと思い出す。コメンテイターの茂木健一郎が「毎週やってほしい」と言っていた。M-1審査員への悪口で盛り上がるよりずっといい。


 出演していないがウーマンラッシュアワーを除けば、時事特に政治に関わることは、お笑いにふさわしくないと考えているのが最近の風潮ではないか。大衆の笑いが権威や時の権力に対して向けられるのは当然だし、それを語る者が益々減ってきていることに、漠然と不安を覚える。噺家にはまだ少しいるようだが。


 モデルのローラが、沖縄の辺野古基地移転問題に関しての署名を呼び掛けた。そのことをテレビのバラエティ番組が取り上げて話題になったようだ。TBS系が入らないのでネットで様子を知るのみだが、「大舌戦」をまとめた爆笑問題太田の一言には、納得した。「全ての表現には政治的なメッセージが含まれている


 マスコミに出て語る者にどれだけその自覚があるか。ネット上の発言、SNS等も同様である。直接的かどうかではなく、今自分が表現するこの行為は(まさしくこれも)どう位置づけられているか、意識することだ。言いたい自分をどれだけメタ認知できるか。守るべき「表現の自由」に裏打ちしたいことだと思う。

喋る前に食べ味わえ

2018年12月25日 | 雑記帳
 『部首のはなし』を読んでいたら「膾炙(かいしゃ)」という語があった。「人口に膾炙する」…見聞きしたことはあるが、実際に使ったことのない慣用句だ。広く世間に知られているという意味だろう。解説によると、「膾」とは「なます」という読み方があるが、生肉の刺身を表している。「炙」はあぶった肉のことである。


 「膾炙」とは「おいしい料理の代表」で、いつの時代も喜んで賞味されるということから、世間に幅広く知れわたることを「人口に膾炙する」というようになったそうだ。あくまでよい意味でもてはやされる慣用句で、その点は留意したい。今年も残すところわずか。そんな作品、人物、出来事等はいくらあったか。


 冬季五輪やサッカーWカップ、それから大リーグの大谷選手、それからノーベル賞受賞の本庶氏など当てはまるだろう。個人的に印象深いのは、8月に行方不明の幼児を発見した尾畠春夫さんだ。ボランティア精神の塊のような姿勢であった。まさに人口に膾炙したが、群がる報道は本人にとって迷惑千万だったのではないか。


 本県に関わることで言えば秋田犬と金足農は挙げてもいいだろう。戌年でもあるしザギトワ選手絡みが話題を呼んだ。金足農については言うまでもない。ただ、これもまた「人口に膾炙する」ため深く関わった報道には、行き過ぎた面があった。有名税などという言葉もあるが、もはや、便乗商法とそう違いがない。


 「人口」という言葉は、「人の口・うわさ」を意味する。従って、そもそも「膾炙」と組み合わせられたことを考えると、口の「食べる」「話す」という二つの機能の順位は決まっている。食べ味わう前に喋り始めるのが、最近のヒトの悪い傾向だ。世の中に多くの膾炙があふれ、美味と思わなくなっているのだろうか。

口実のXmasと書いた頃

2018年12月24日 | 教育ノート
 先月の小旅行、泊まったホテルにこんなものが飾られていて、思わずパチリと…。



 クリスマスはいつも学期末と重なり慌ただしかったが、それなりに浮き浮きとしていたのかもしれない。
 だらだらとそんな気分を綴ったこともあったなあ…


◆◇◆ 口実のクリスマス (2004/12/24) ◆◇◆


 すべて口実であることはわかっている。

 仏教と神道の国?が、クリスマスを祝う必要などないことは言い尽くされてきているが…

 人は、クリスマスを口実にして、ツリーを飾り、ケーキを買い、唄をうたい、プレゼントを贈る。

 クリスマスの日は「会いたい人に会いに行く」のだと思ってしまう。(by JR東海)
 輝くイルミネーションに吸いつけられるように、舗道や広場を寄り添って歩いたりする。
 しゃれた店で、見つめあったりする。


 愛情を消費行動で表す絶好の日とでも言えばいいか。
 はたまた商業活動が愛をテーマに展開する集大成と呼ぶべきか。
 そんな薄っぺらで、刹那的なことでいいのか!

 いいんです。

 と軽く腰を砕いてみたが
 自分には、クリスマスの甘い思い出などはない。
 わずかに中学、高校の頃、仲間たちとはしゃぎまわったことが、写真の断片のように残っているぐらいだろうか。

 家族が出来てからは、それなりの日ではあった。
 ツリーを飾り、ケーキを買い、プレゼントを夜中にそっと置き…
 娘たちが大きくなるにつけ少しずつその日の空気も薄まってはきているが、今年もまた、ケーキとローストチキンは準備している。


 ささやかな者にとっては、それが、ささやかな愛情表現だろう。
 もちろん自分で気づき、自分で築く愛情こそ価値が高いのだがクリスマスを口実にすることは、けして悪いことでもないだろう。

 そして、クリスマスの日の過ごし方は、その人の一年を結構象徴しているような気もする。

 しかし、明るい窓辺で団らんを過ごす家族にも、ワイングラスで乾杯する恋人たちにも、「きっと君は来ない ひとりきりのクリスマス」を送る者にも、神様は平等に、やさしく微笑んでくれると信じたい。


 アーメン
 (って、ウチは神道ですから)

 ◆◇◆◇◆◇◆


 今の家を建てた年だな。
 懐かしがっている雰囲気があるのは、娘たちがそれなりに成長した頃だったからか。
 さらに懐かしくなっている、二人きりのクリスマスイブ(笑)

年の瀬読書、目を見開く

2018年12月23日 | 読書
 腰痛がなかなか治まらないので、寝転んで読書するかテレビを見るしかない。

 でも年の瀬になかなかいいフレーズに出逢えたので良しとしよう。


2018読了118
 『隠蔽捜査5.5 自覚』(今野 敏  新潮文庫)


 手元に未読小説が並んでいないので、シリーズ6の文庫本が届く前にと思って再読した。5.5はスピンオフで登場人物を主人公にした短編集だが、やはり格好いいのは竜崎伸也だ。展開もスピーディーで、ぐいぐい読ませる。

 それぞれの主人公の竜崎とのやりとりがなんとも言えずしっくり胸に入る。特に「検挙」の章は、典型的だ。警察上部からの検挙数・検挙率アップの通達に、現場は反感を抱き、数字を上げつつも実態が混乱する。

 困り果てた中間管理職が署長の竜崎に訴える。似たような事態は、警察現場でなくとも予想されるだろう。詳しく実状を聞いて判断する竜崎の言葉が痺れる。上部からの指示をこう斬り捨てた。

 「理念のない数字などに意味はない。」

 言ってみたい。


2018読了119
 『部首のはなし』(阿辻哲次  中公新書)


 漢和辞典を使っていて、字の成り立ちが辞典によって異なることは当然ながら知っていた。ただ、部首による分類や画数まで辞典によって違う例がこんなにあるとは思わなかった。

 この新書は、「部首索引を使いこなすには、習うより慣れろ、という格言に従うのが最適である」ということを理解しやすいように、部首についての興味深い話を紹介している。読み応えがあった。

 若干の知識はあったつもりだったが、さすが漢字研究の第一人者の持ちネタは多く、へええーと思うことがいくつもあった。特に「想像」が本来は「想象」と表現されたという『韓非子』の説は興味深かった。

 ゾウの生息範囲が南に移り、中国では実物を目にすることが出来なくなり、民衆は、土の中から出てきた死んだゾウの骨をたよりにどんな動物かあれこれ考えたのだと言う。

 「実際には見ることができない事物を脳裏に思い描くことを『想象』、つまり『象を想う』と人々は表現したという。」

 想像もしなかった。

つめたい世界地図の海の色

2018年12月22日 | 雑記帳
 冬至。太陽が最も南に遠ざかる日、北極圏では一日中太陽が見えない時季である。ここで暮らす者にとっては太陽が復活してくる日として祝ってもいいが、南半球では逆になるわけだし、常にそんなことが繰り返されて、この地球は廻っているわけだ。世界地図や地球儀をそんなふうにぼんやりと眺める時間も貴重だ。


 井上陽水の初期の曲に「つめたい部屋の世界地図」がある。孤独を抱えた青年が自分の部屋で船出を妄想する、と言ったらあんまりか。そうしたセンチメンタルな歌なのだが、中にこんな詞がある。「やさしさがこわれた 海の色はたとえようもなく悲しい」。孤独感を重ねたその情景にふと、かの「辺野古」を浮かべた。


 昨日の朝刊にロシアの大統領が、沖縄に関わることで「『日本の主権がどの程度の水準にあるのか分からない』と批判した」と載っていた。外交・防衛は、言うなれば「やさしさ」とは対極にあるかもしれない。しかし、国々を隔てるのは海であり、陸地に暮らす大多数の民の感情によって海の色は変わっていくものだ。


 ソ連時代のシルクロードを旅した某女史が、小さな村で買い求めた世界地図。当たり前だけれどソ連が中心になっている。日本は、と見ると台湾を細長くしたような島の形で、北海道や九州などはなかった。そして通訳を介してロシア文字の地名を読んでもらうと、三沢、横須賀、岩国、佐世保、長崎、広島とあった。


 つまり米軍基地被爆地のみで東京さえ記されていなかったという。冷戦時代の頃だからと思いたいが。報道を読んでもロシアとの平和条約締結の条件は、結局のところあまり変わらない気がしてくる。どこかの小さな村で売られている新しい地図には、沖縄に加え国後、択捉そして山口、秋田と記されるのだろうか。