すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

絵本に宝物を探すわけ

2021年05月31日 | 読書
 穂村弘の書くエッセイのファンで、『本当はちがうんだ日記』や『によっ記』などを読んだ時に、ああこれはオレの事だと強く共鳴したことを覚えている。しかし、さすがに短歌に関する論考は難解に思えた。やはりプロの歌人は違うと認識させられた次第…。今回の絵本に関するエッセイは、その中間のような感覚だ。

『ぼくの宝物絵本』(穂村弘 河出文庫)



 「MOE」という絵本の月刊誌に連載されていた文章がまとめられた一冊。絵本との出会いから始まり、自らの絵本コレクションを偏愛的?に語っているようでもあり、同時に鋭い分析もしている。読んだことのない絵本が圧倒的に多いが、この後何冊か求める予定なので、楽しみがある。ところで、驚き感じ入ったのは…。


 「彼らにはいくつかの特徴がある。 その1 車の免許をもっていない。 その2 身の回りのモノが生きているようにみえる(らしい)」という箇所である。「彼ら」とは、著者の同様の「歌人の友達」を指す。これは著者が独特というより、歌人のもつ特質に近い印象を受けた。そうか、歌人の精神とはこれだと得心した。


 つまり、ある方向の便利さや有用性に関心を示さない。そして物質からの命を感じとる技をもっている。「ある方向」とは微妙な言い方だが、速さや他からの評価のようなことを示す。「物質からの命」とは、単なる擬人化ということではなく、自らの思い入れを深くしていく術とでも言えばいいだろうか。この本では…。


 「もうひとつの世界」という表現。想像力と言い換えられる要素も含む。この部分が徐々に希薄になっているのが現代社会だろう。だから、人は絵本(それ以外にもある)に惹かれる。なくても別に困らないように見える「もうひとつの世界」。しかし、絵本にある「宝物」とはまさしくそれで、人はそこでバランスをとる。


オオカミ話、本物篇

2021年05月29日 | 絵本
 オオカミの絵本を手にしながら、では本物のオオカミの話はないかと思った。動物学のような本ではなく、絵本として…。2冊見つけた。この国にかつて生息していた「ニホンオオカミ」「エゾオオカミ」。その存在は、いまだに時々話題になったりする。子供たち向けに物語を知らせることは意味があるだろう。


『むかし日本狼がいた』(菊池日出夫 福音館書店) 



 信濃弁?のばあちゃんによる昔語りの形で始まり、昔のオオカミの生態を描いている。人間がオオカミを「大神」と崇めていた頃、動物たち同士や人間との関わりをわかりやすい話に仕立てた。人間による開発のために絶滅することになるオオカミは、自然保護・環境保護の一つのシンボル的な存在といっていいだう。

 ばあちゃんの話の収めは、「(原文はひらがな)昔、人も狼も熊も猿も猪も鹿も兎も鳥も、みんな山の恵みで生きていたもんだ」という言葉。どちらかといえば淡い色彩でやさしいタッチ、可愛い表情や動きで描かれるオオカミや他の動物。怖いイメージはなく、年少の子どもたちに読んで聞かせるには、手頃に思える。



『エゾオオカミ物語』(あべ弘士 講談社) 



 こちらは「ふくろうおじさん」がモモンガに聞かせる形で始まる。オオカミの誕生から狩りの仕方、えものになるエゾシカのこと、そして自然の生態系のこと。アイヌの人々との関係は「”こわい”というより、尊敬しあっていたのかもしれない」と表現する。そして気候変動や開拓事業による、絶滅の結末が語られる。

 上の本とは対照的に、黒、紺、紫、白などを基調とした色遣いで荒いタッチがオオカミの強さと同時に、絶滅に至るまでの苛酷さを表している気がする。文章の語り口は平易だが、重みのある言葉で北海道の大きな森をイメージさせる。小学校の上学年以上ならば筋と絵を絡めて印象深く受け止めてくれるかもしれない。

オオカミに決めたので

2021年05月28日 | 絵本
 昨年は「クマ」を取り上げ数冊続けて読んだことがあった。今回はこの一冊に触発されて、「オオカミ」を拾ってみたい。オオカミに対するイメージは絵本であれば「赤ずきん」に象徴されるだろうが、それを思い出しただけで、つくづく面白いキャラが一般的だと想像される。この話のオオカミも、ある意味トンマだ。


『おおかみの おなかの なかで』
(マック・バーネット文 ジョン・クラッセン絵 なかがわちひろ訳)
 



 ある朝、出会いがしらにオオカミに食べられてしまったネズミ。おなかで泣いていると、静かにしろと怒鳴られる。そこにはアヒルが住んでいて…お腹の中の二匹は仲良くなって楽しく暮らすが、そうとは知らないオオカミには迷惑な話。ある日、オオカミが森に来た狩人に鉄砲を撃たれ、ねらわれる。話は急展開し…。


 動物のお腹の中の話という設定は、他の絵本でも見られることがある。この話はネズミとアヒルの会話が愉快だし、狩人が登場してからの展開に、人物に共感できる要素が強い。ジョン・クラッセンのとぼけた味わいの絵がマッチしていて、とてもいい一冊に仕上がっている。一読して、読み聞かせたいと感じた。


 この本はかなり間を意識したい。冒頭の食べられる場面、朝から昼への時間経過、オオカミが「おなかのこえ」を信じる場面、アヒルとネズミが決意し、飛び出す場面、そしてラスト。十分に立ち止まってページをめくりたい。痛快な文章と対照的に落ち着いたトーンなので絵を把握するにも時間がかかるかもしれない。


 オオカミといえば、お気に入りの一冊としてこの本を挙げたい。本格的に読み聞かせを始めた2年前から、自分の一つのレパートリーとしたい(まだ未消化ではある)と考えている。この絵本については以前書いているので詳しくは書かない。絵本を読む者にとっては素敵なテーマだし、表現の仕方も個人的に合う。

声の未熟さを今も嘆く

2021年05月27日 | 雑記帳
 武田砂鉄の『ワダアキ考』というネット連載を楽しみにしている。今回のタイトルは「國村隼が今日も静か」。この内容が実に興味深く、読みこんでしまった。喫茶店などで客の声の大きさが抑えられている現状から入り、ドラマでの國村の台詞の声量の小ささと、その印象深さについて語っている。すぐ思い浮かぶ声だ。

 武田が感じている、次の箇所は本当に納得できる。

「『てめえ、この野郎』というセリフがあったとして、泉谷しげるが大声で言った後に広がる光景は擦り傷や打撲って感じがするが、國村隼が小声で言った後に広がる光景って、瀕死か死である。しかも、自分で殴るのではなく、自分の手は汚さずに誰かにやらせる、そんな気がする。」


 子どもの頃から、周りにいる大人や学校の先生などに「声の大きい人」は居た。明朗さや快活さを表すとも言えるが、そればかりではない。一概に決めつけられないにしろ、武田の記す「声の大きい人は信じてはいけない」という感覚は少しずつ自分にも溜まっている気がする。声量の大きさは圧迫や強引さにも通ずる。



 武田は、静かな声の持ち主として國村の他に姜尚中も登場させ、ささやくような声を聞き取るときにスポットをあて、こんな見解を示す。「人は、その人にさらなる声量を求めるのではなく、周囲の音を減らすことで対応しようとする。」…確かにと思う。注意力を働かせるためには、声の小ささは有効に働く場合がある。


 自身の地声に関して客観的判断はできないが、けして小さくはない。だから教職にあった時、声の発し方に気を配ったと思う。それはいい精神修業でもあった。機会は減ったが、今もって「人間の本質は声に最も表れる」という三好十郎の言葉を思い出すのは、事あるたびに「本質」の未熟さを嘆く場面があるからだ。


 どうでもいいことだが、國村隼とは同齢である。國村は数十年前から同じ印象でずっと年上と思っていた。外見はもちろん、声の個性という点でもイメージは成熟?している。

「今」に活きる読書

2021年05月26日 | 読書
 先週から今週にかけて読了した本。

『木皿食堂』(木皿 泉  双葉文庫)

 エッセイ、インタビュー、対談等が収められている。一番メジャーなのは『野ブタ。をプロデュース』の脚本ということになろうが、その番組を観ていない自分にも、文章から夫婦二人のいい息遣いが伝わってくる。書名に「食堂」と名づけるほどに「食」にこだわりがあることもよし。作品をもっと見ると決めた。

 「シナリオ講座」の記録も収められていて、そこでの「オリジナリティ」の説明に得心した。オリジナルの反対語を「マニュアル・ノウハウ」と捉え、脚本を書く本質をずばりこう語った。「日常の中で、当たり前と思われていることを、本当は違うんじゃないかと、切り取ってみせる。」…この視点でドラマを見てみたい。


『常識的で何か問題でも?』(内田樹  朝日新書)

 2014年から2018年までの「AERA」連載コラムである。まえがきを読めば(読まなくとも氏の文章に触れている者は予想できるが)、この新書の肝は次の一節だとわかる。「僕は『リスクを過小評価し、最悪の事態に備えない』態度を日本社会の重篤な病だと診立てています」…そして、今この国はその渦中にある。

 第2章「真の知的成熟は何か」の冒頭コラムは心揺さぶられた。道徳の教科化に関する論だが、実に明快に語る。「人間が真に『道徳』的問題に出会うのは、『上位者が間違った指示をしている場合』『定められたルールを機械的に適用するとたいせつなものが損なわれる場合』である」これも今、まさに直面している。


『あしたのことば』(森絵都  小峰書店)



 月遅れの新着図書コーナーにあったので、寝室読書用に借りた。冒頭篇「帰り道」が国語教科書(小6)に収録されている。この単行本は9篇がそれぞれ違うイラストレーターが表紙絵と挿絵を描いている。「人気イラストレーター」と帯にはあったが、たった一人しか知らなかった。不明を恥じる。少し関心を高めたい。

 それぞれの話はさすが短編名手らしい仕上がりだ。全体を貫いているのは「ことば」の持つ多様性への理解とでも言えばいいか。それらはコミュニケーションのあり方、常套句と意味、自然に対する向き合い方等を考えさせてくれる。表題作は最終篇。「あしたのことば」は「今」を真に生きることからしか生まれない。

小満の頃の身辺雑記

2021年05月25日 | 雑記帳
 「小満」とは、草木が茂ってあたりに満ち始める意とある。まさにその時期。ただし、自分の頭の中もそんな感じで鬱蒼となるのか。


 2021.05.24朝 sendo

5月20日(木)
 今日は通常であれば勤務ではないが、町の監査があり出勤した。午前中に監査は終了。午後からは夏休みワークショップの内容について某氏と30分ほど相談する。少し四方山話をすると健康の話題になるのは、齢のせいだろう。退勤後、父の命日なので実家へ行き、手を合わせる。大相撲の朝乃山騒動にがっかり。


5月21日(金)
 勤務はないので用事を済ます一日にする。と思ったら朝からディスクレコーダートラブル、ああ!気を取り直し、役場へ行ってマイナンバーカードの交付を受ける。その後マイナポイント手続きをスマホで行おうとPCで説明をみるが、面倒になり中断。堪え性がなくなった。五輪についてのIOCの言い方に腹が立つ。


5月22日(土)
 夜半に雨が降り山は濡れているだろうが、孫たちが来ない日なので連れ立って収穫を目指して朝6時前ポイントへ向かう。1時間半ばかりで結構採れた。ずぶ濡れになり車の始末が大変だ。10時過ぎに図書館へ。定例の「絵本とあそぼ」。民間保育園の子たちが参加してくれて少し賑やか。夕食のタケノコ汁が美味しい。


5月23日(日)
 朝9時に絵本グループの方々と大型絵本等の購入の相談をする。後はのんびりと過ごせる一日で、録画したドラマを観たり購入した絵本をめくってみたりする。オークスは話題の白毛馬が勝てなかった。大相撲は終盤予想外の展開で面白くなり、いい幕切れとなった。県内コロナ感染者が1名まで減る。この傾向で…。


5月24日(月)
 タケノコ採りはもう一度と決めていたので、今日も6時前からポイントへ。先日よりも多い収獲となった。斜面のきつい箇所で滑って転ぶ。帰宅後、皮むき作業を少し手伝いながら、併行してA3プリンターで、図書館だよりの印刷を進める。その後先日断念したマイナポイント申請を、1時間かかってようやく終了。

ちょっと懐かしくちょっと難しく

2021年05月23日 | 絵本
 谷川俊太郎の詩を授業で扱ったのは、言葉遊びの類が多かった。それ以外はなんといっても6年生の『生きる』。読解、そして群読など、少し懐かしい。そう言えば『生きる』は小室等が曲をつけて歌っていた。あのアルバムは、もうとうの昔に手元にはない。久しぶりにじっくり読んだので、そんなことを思い出した。


『ほしにむすばれて』(谷川俊太郎・文 えびなみつる・絵) 


 「ゆうやけは よるの はじまり」と文が書き出され、中表紙には夕焼けと電線の絵が描かれている。あとのページは星空や月の絵が並び、「ぼく」による語りが展開される。内容の中心は星好きな「おじいちゃん」のエピソード、そしてその家族に継がれていく思い。すべてひらがなで記されていることも意味深い。


 よく「星空を見ていると人間がちっぽけな存在に思えてくる」といった表現を見かけることがある。現実に心からそうだと認識できる時間をいかに多く持つか…それが結構、生き方に関わるのではないかと考えた。天文に限らず、大いなる自然に対して、素直に向き合う大切さが迫ってくる話だ。素朴なタッチの絵が合う。


 「俊太郎特集」(笑)で最終候補に残った一冊。時間的な点と3年生には難易度が高いと感じたから取り上げなかった。やはりこれは高学年以上だ。それにしたってこの分量の言葉でストーリーをイメージさせるには、読みの説得力が要求される。明瞭な発音、語の押さえ、間のとり方、改めて意識させられる一冊だ。

「ともだち」を真正面から読む

2021年05月22日 | 絵本
 谷川俊太郎という「しばり」をかけて読み聞かせ用の本を探したが、実際なかなか難しい。絵本の翻訳もレオレオニ以外は数が少ない。3年生が相手だということもあり、「ともだち」という題材が目に付いた。小学校の中でその言葉を意識し始める頃だ。真正面にその題を挙げて展開させるには、詩人の言葉が頼りだ。


『ともだち』
 (谷川俊太郎・文  和田誠・絵) 玉川大学出版部 2002.11



 全72ページ。文章が右ページにある見開き。一行か二行で簡潔に記され、それに合う和田誠の独特なイラストが描かれている。「ともだちって」「ともだちなら」「ひとりでは」「どんなきもちかな」「けんか」「ともだちはともだち」と小さいテーマが並ぶ。最後に「あったことがなくても」と広がりあるテーマで結ぶ。


 出版先もテーマもなんとなく「道徳」に使われそうだなと思ったので、検索してみたら、ネット上にいくつか実践が載っていた。いくつかの字句をチョイスして使えば、教材としては有効だろう。しかしまた、まるごと読んでいくという形も必要ではないか。「ともだち」とは、それだけの多様性をもつテーマであろう。


 読み聞かせる場合のコツは何か。くり返しの語をどう読むか…同じ調子か変化をつけるか。全体的な流れのなかで強弱・緩急をどうつけるか、この2点か。その視点で読むとまた心に刻まれることもある。いずれ、最後の写真6枚のめくりは落ち着いてやりたい。一つの字句でも残ったら、読み聞かせる価値はある。

実在するものには影がある

2021年05月21日 | 絵本
 日本一有名な昔話「桃太郎」の次は、「しゅんたろう、だよ」と言って日本一有名な詩人の作品を読むことにした。谷川俊太郎の名前は教科書にも多いし、特に「スイミー」は国語科教材の代表的作品でもある。レオ・レオニ作品の訳は数多い。同じコンビの並ぶ棚から、面白いなあと思った一冊を取り出した。


『うさぎを つくろう』
 (レオ・レオニ  谷川俊太郎・訳)好学社 2007.05


 
「はさみ」と「えんぴつ」が作り出した二匹のうさぎ。なかよく遊んでお腹がすき、はさみとえんぴつに頼んで「にんじん」を描いてもらい、食べてしまう。ぐっすり眠ったあとにまたお腹がすいたが、今度は、はさみもえんぴつもいない。探しまわっていると、突然、大きな赤いにんじんが目の前に!しかも本物で…。


 非常に単純なストーリーだが、心に残る展開だ。全ページに背景がなく、登場するモノ一つ一つの存在を強調するつくりだ。二匹のうさぎは、一つは線で描かれ、もう一つは紙の切り抜きという、いわば「薄い」存在でもある。それらはお腹がすくことによって、行動を起こす。新しい出来事にもひるまないで向かう。


 ていねいに言動を読み進める必要がある。谷川は、扉の文章に、原作の副題が「ひとつの寓話」と記されている点について紹介している。何を教訓とするか、谷川は「本当に実在しているものには、影があるのだ(略)影は人生を立体的に豊かにする」と書いている。「影」を感じさせる声を発する…難しいが意識したい。

オレの好きなドラマたち

2021年05月20日 | 雑記帳
 見逃せないと必ず視聴しているドラマは、今季のクールでは『コントが始まる』『大豆田とわ子と三人の元夫』の二つだ。しかし、視聴率はあまりよくないとのこと。自分としてはいい感じで観るものが、世間の評価と異なることは前から結構あった。「好み」と言えばそれまでだがその違いは大切にしてもよくないか。


 この二つのドラマに共通する魅力は、人物の台詞の緩急がはっきりしていることかなと大雑把に考える。表面的には、テンポよく畳み掛けるようなシーンと無言、表情のみで表現するシーンがちょうど上手い具合に構成されているというか。もちろん、俳優のセンスがそれを支えるので、出演者も好みということだ。


 着実に成長している一人に、仲野太賀がいる。まだ太賀と名乗っていた頃に『ゆとりですが、なにか』での演技が印象的だった。あの脚本が宮藤官九郎であり、それがNHK大河『いだてん』の小松勝役にもつながったのか。今出ている『コントが始まる』の脚本は金子茂樹かあ。ああ、面白かったなあ『俺の話は長い』は…。


 と完全に偏愛モードになりそうだ。クール遅れの再放送でみている『俺の家の話』もクドカンだし、おふざけムードとシリアスのバランスの良さが面白さにつながっていることは明らか。ここで見えてくるのは、人物の表裏の表現を好んでいると自己分析する。だから、その落差や振れ具合の大きさに魅力を感じる。


 恋愛コメディ的な類は端から駄目だし刑事ドラマも少しマンネリである。ジャンルや舞台設定に限らず、サスペンス感を引き出せるのは人物自体のミステリにしかない…おっ、なんかいいこと言ったような…。それを引き出す脚本家や演出家の力が大きい。『ドラゴン桜』は見てはいるが、先が読めるだけに今一歩だね。