すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

正論の前に「おちつけ」

2021年01月31日 | 雑記帳
 先日、職務上のことでこんな言い方をしてしまった。

「気持ちはわかるけど、それは正論ではない。」

 続けて、こんなふうにも喋った。

「それは感情の問題であって、ここは論理的に進めなければいけない。」

 具体的な内容は控えるが、規定のある件について実際のあり方をめぐって話し合った。

 まあ、その問題が生ずるのはひと月先で、もし予想される事態になったら自分は柔軟に対処するであろう。
 しかし、そのことを先取りしつつ、規定を勝手に捻じ曲げてはいけないと考えたからだ。

 この問題は今のところ予想として回避されそうだ。条件が変わってきそうだから。と、少しばらせばコロナ関連だ。


 さて、今この伝わりにくいような事柄を独白めいて記したのは、次の文章に出会ったから。

 「正論は印象に勝てない」

 これはベストセラー『人は見た目が9割』の著者竹内一郎の新刊に添えられたコピーである。


 なるほど。
 「勝ち負け」の基準をどこに置くかという根本的な問題はあるにしろ、正論だけで人を納得させることは出来ないという点はわかる。

 では「印象」とは何か。

 取りあえずは「表情」か。
 そして「語り方」、声色や抑揚や緩急などか。

 そんなことを結構指導してきたつもりだが、さて自分に当てはめるとうまくいってないと、後で思い起こす。
 感情が先走って論理的なことを言おうとしている状況を自嘲してみる。


 書家石川九楊の作


おちつけ」…愛読する『ほぼ日』でグッズが再発売されたので、買うことに決めました。

大らかな時代のポータブルテレビ

2021年01月29日 | 雑記帳
 昨日も書いたように、町広報を読み続けている。
 そうすると、大半の方々には価値のない、どうでもいい情報だが、個人的にきわめて懐かしい、心の奥で眠っていた記憶を呼び起こされるような記事に出会うことがある。

 下の記事がまさにそれだった。



 記事の主役は私の大叔父(祖母の弟)である。
 小学校4年の頃だと思う。
 この「一等に当たった」という話題は、しばらく続いたように思う。
 町部にあった実家は、周辺の親類たちがよく立ち寄る家だったし、とうの大叔父などは町会議員や様々な役職に就いていて、三日に一度は必ず顔を出していた。

 今だと「個人情報」そのもので、到底記事になる出来事ではない、いや、してはいけない部類だと思う。
 それだけに、時代の大らかさを感じる。

 そして一等商品が「ポータブルテレビ」であることも、時代を感じさせる。
 不確かではあるが「赤色」ではなかったか。あっ、もちろん白黒テレビである。


 ちなみに、それ以下の賞品も横に載っている。



 3等を見て、思わず笑みがこぼれた。
 これらは当時役立ち感のある貴重品だったろう。

 令和3年の「お年玉」1等は30万円だった…それは当時のポータブルテレビと同等なんだろうか。それとも…。喜んだ人がいたのは確かなはずだが。


 浅吉さん、わが家は今年も「切手シート」2枚だけでした。

それは1958年の記事だった

2021年01月28日 | 雑記帳
 現在、「広報うごを紐解く」と題して、勤務している図書館のブログにシリーズとしてアップしている。創刊時から1年ずつ区切って目に付いた記事を紹介している。昭和の市町村合併によって誕生したのが昭和30年4月。その2年後に第1号が発刊され、月に1回(2回時もあり)ペースで継続されてきている。


 「町と同い年」の年齢なので、自分の幼児期からの出来事を拾っていくような感じだ。公式ブログであり私的な感情や意見は控えめではある。しかしいやあこれ…と考えさせられる記事も少なくない。年度内は確実に続けられると思うのでこのページでも折を見て紹介したい。いわばB面…通(笑)好みに渋くいきたい。


 昭和33年11月に発行された20号の紙面に驚いた。



 町の広報に「討議法(ディスカッション)のいろいろ」と題されて、「話しあい」の仕方がレクチャーされている。
 それは大きく四つに区分され、さらに細かく複数示され、図化などもされているのである。

◎円卓式討議(ラウンド・テーブル・ディスカッション)
◎対談式討議(インタビュー)
◎公論式討議(フォーラム)
 ・レクチャアフォーラム(講演式討議)
 ・フィルムフォーラム
 ・ディベイドフォーラム
◎講壇式討議(シンポジウム・ディスカッション)
 ・陪席式討議(パネルディスカッション) 
 ・バズ・セッション(六六式討議)


 拙くも国語教育実践を続けてきた者として、なぜこうした提案が広まらなかったのか、少し振り返ってみたい。知識として持ってはいたが、教育界全般にこうした手法の広がりは、少なくとも昭和のうちは感じられなかった。自分にしても手掛け始めたのは平成初期、つまりこの記事から三十数年後ということだ。


 粗く言えば「読み書き」優先の教育、それは高度成長期の社会が求めていたからだ。言われた通りに黙々とこなす、事務的な処理力をつけるには、都合がよかったのだろう。集団を育てていく場合、文字言語と音声言語の特質の違いは指導上の大きな要素とも言える。「時間」「記録」「評価」…対照的な手立てが必要だ。


 もちろん「読み書き」中心で伸びた力はある。しかし「話す聞く」が「他者との関わり」と強く結びつくことが、個の成長を考えるうえで大きなポイントではないか。育たなかった議論の文化…。昔の広報を読みながら、その文章に宿る「言わねばならない」力を感じることが多い。それはきっと話合いで鍛えられた。

小説は水車のように働く

2021年01月26日 | 読書
 『ちくま』2月号を読んでいたら、ある書評で洒落た一節に出会った。

「言わずもがなのことではあるが、おもしろい小説があればそれはミステリである。ミステリとして読むことのできない小説が読者を魅了する可能性はない。」

 おっと思う。この「ミステリ」がいわゆる分野としての推理小説を表しているわけではなく、神秘や不思議というもともとの意味なのだろうと思いつつ、重層的な遣い方に感じた。文章はこう続く。

「理由は単純である。ミステリではない小説には問い(謎)がないからである。」

 なるほど。小説を書くきっかけは問いであり、謎であるという点は当然のように見えて、指摘されて気づかされた。



 筆者である横田創(小説家)という名は初めて見たし、当然作品も知らない。
 書評の対象は新刊本『睦家四姉妹』(藤谷 治)という書名で、想像するに家族小説?のようだ。どんな筋なのか全く見えない段階ではあるが、取り上げて寄稿したからには「ミステリ要素」が詰まっているのだと思う。

 そこからまた筆者の面白い自論(たぶん)が展開される。

「ミステリとしての形式は大きくふたつに分類される。読み進めるうちに過去(謎)が解き明かされてゆく推理小説型と、未来(謎)が解き明かされてゆく冒険小説型である。」

 そんなふうに区分することは、可能なのかもしれない。
 ただ明確に分類できるというより、どちらの比重が大きいかとか、構成によって変化がみられるのが多いだろう。
 現に、取り上げた小説も「全体の構成は冒険小説型、章ごとの構成は推理小説型を選択した連ドラ型のミステリ(小説)である」と記してある。


 勝手に連想を働かせれば、人の生き方もそんなふうに解釈できるのかもしれない。ミステリがあるからこそ面白い
 過去の謎を解き明かすことは稀かもしれないが、未来を解き明かさなければならないのは、常に突きつけられていると言ってよい。

 しかし、現実にはそんなにドラマチックではないし、その日常を少し増幅させてみたいという願望が、小説などに目を向かわせる。
 直接、自己のミステリの解決策が示されるわけではないが、どこかに示されることによって、心が動かされることを期待している。

 
 この書評の結びの部分も洒落ていた。上手い表現だと唸った。

「小説は語らない。何も言わず回る水車のようにただそれは働いている。ミステリとは意味(謎)の灌漑システムである。」

物欲は枯れていいけれど…

2021年01月25日 | 読書
 この文庫も雑誌書評で見かけて購読した。毎度書くように、整理整頓下手を自認しているので、この手の本には目がいく。題名から、ある程度の結論は導きだせる気がする。つまり「老いたら、収納を減らせ」「老いたら、収納に気を配れ」のどちらか、もしくは両方ではないか。実際、読了したら、そうでもなかった。


 『老いと収納』(群ようこ  角川文庫)


 2021.1.25 今朝の太陽、よく晴れる

 おひとり様女性作家のマンション暮らし、溜まりに溜まったモノを処分する場面から始まったエッセイ。途中、選書を間違えたかなという気になった。やはり女性なので、衣類やキッチン、化粧品などの項目が並び、正直関心が湧かなかった。『欲と収納』という文庫も出しているようで、愛読者向けなのかもしれない。


 そして、これは「収納」というよりその前段階の「所有」の問題ではないかとも感じた。唯一、読み入ったのは「こんなふうに暮らしたい」という章で、著者が読んだ関連する本の紹介も入れながら、いわゆる「物とのつきあい方」について、あれこれ見つめ直している箇所だ。「断捨離」とは少し視点も異なるようだ。


 「物を持たない生活なのか、物はあるけれど、それらを楽しむ生活なのか」と、目指す方向を定めることを説く。確かに「老いたら、減らせ」は理にかなっているのかもしれないが、処分することによって生活が楽しめなくなるとしたら、悲しい。「物欲」は次第に枯れていいけれど、使う、楽しむ欲を持ち続けたいと思う。


 著者は「心の贅沢と物欲が、微妙に一致してしまっているところがあって、その塩梅が難しい」と正直に書く。物質的な豊かさと精神的な豊かさは違うけれど、モノと付き合い方は長年培われてきた個別の感覚と言える。「置いておく・傍にある」と安心が得られるモノ…確かにある。それが他人には不要に見えても…。

重要火急は自分の中に

2021年01月23日 | 雑記帳
 今頃になって「不要不急」の反対語って何だろうかと頭の中に浮かんだ。もちろん意味はわかっているので、この熟語が言われだした当初から行動基準として「必要か」「急ぐことか」と考えてはいるはずだ。しかし四字熟語に慣れてくると、ふと逆は何かと知りたくなった。ネットではかなり前から話題になっていた。



 かいつまむと候補になるのは、次の六つ。「必要緊急」「必要火急」「必要至急」「重要緊急」「重要火急」「重要至急」ということだ。使用された件数の順に並んでいる。必要と重要のニュアンスの差は大事だ。専門の研究者たちの意見もあり興味深い。辞書の世界で高名な飯間浩明氏からは次のツィートがされていた。

 『まあ反対語は固定しなくてもよろしいんですが、「不要不急」と同様、「―の外出」「―の買い物」「―の支出」「―の事業」「―の政策」……などの言い方ができるのが、きれいな反対語と言えるでしょう。「必要緊急」はその点、きれいとは言えます。』


 四字熟語の場合「きれい」に使えるかが一つのポイントになるのでは、という見解は納得できる。ところで、先日紹介した川柳「大発見人生半分不要不急」を思い起こせば、人生の残り半分は「必要緊急」となるのかと考えるが、まあそれは大袈裟か。ただ「必要」または「緊急」なことにはなるはずだと納得する。


 あまりに大雑把だが、必要なのは衣食住。緊急なのは危険回避としてみるか。括ってみれば「生命維持行動」だ。しかし、それは広大な幅を持ち、質も異なり、なんだかレベルがあるような気がする。衣食住そのものに生き甲斐を求める者もいるし、生命の危険を承知の上で冒険に挑む者も、歴史上数多く存在した。


 さらに、不要不急に見える芸術やスポーツにこそ人生の喜びがあるといった正直な思いを吐露する者も多い。結局、一つの物事が、不要か重要か、不急か火急かは他者からは判断できない。社会の目ばかり気にしていて、何の人生ぞと思う。ただし、某大国前大統領のような振る舞いは、甚だ「傲岸不遜」でしかない。

全て分けるか混ぜるか

2021年01月21日 | 読書
 『入れたり出したり』(酒井順子)のプロローグ「分けると混ぜる」を読み、いくつか連想が働く。「わかる」とはそもそも「分ける」から来ているという論を読んだことがある。ここでもある文章が引用されている。「全ての学問は、分類することから始まる」。分ける作業が「わかる」第一歩という考えは説得力がある。


 著者は、分けたがりの人の「快感」を指摘している。例えば「皮を剥く」ときの気持ちよさなどを挙げている。そこなのかとは思うが、分類するときのすっきり感は確かにあるだろう。しかしそれが単に区別だけならいいが、そこに序列ができたり、反発や対立が出てきたりすることが、人間社会にあることが問題だ。


 では、「混ぜる」がよしかと言えば、これも諸手を上げてとまではいかない。「混ぜる」は確かに「和」に通ずるし、グローバルやバリアフリー的な考え方とも相性がいい。常に白黒決着つける、明確に評価、判断することが難しくなった世界では進むべき方向かもしれない。しかし「混ぜるな、危険」という語もある。



 昔話になる。学習指導法にも研究団体によって「派」めいた状況がある。仮にトップダウン方式、ボトムアップ方式と分類してみると、これらを単純に混ぜることはかなり危険を伴う。学級担任ならば、両方のいい所をと考えるのは自然だが、それを実現させるための筋道は、かなり意図的計画的でなければならない


 「分けると混ぜる」を考えていくと、最終的には著者のいうように、どちらに「快感」を持つかで収めなければならない。といっても今の社会が「混ぜる」をベースに動いていることを前提に、自己の言動を分類することが求められる気がする。混ざっていいもの、絶対に混ざらないものの「分類」作業になるのか!

何かにハマる一冊

2021年01月20日 | 読書
 少し古い雑誌の文庫書評コーナーを見て、関心が湧いたので取り寄せてみた。この著者は以前週刊誌で連載を持っていたので、目にしていたがさほどの関心はなかった。それでも1,2冊は単著を読んだかもしれない。エッセイストとして名が知られているし、この題名のインパクトはなかなかではないかと思わせる。


『入れたり出したり』(酒井順子  角川文庫)


 本編の冒頭の章が、この書名となっている。買い物帰りに著者はふと思う。「あー、人生っていうのは入れたり出したりの連続で過ぎていくのだなァ…」。ただこういう入り方や設定はありがちと言えばありがちではないか。例えば「人生というのは開けたり閉めたりの連続」または「走ったり休んだりの繰り返し」など。


 もちろん展開構想があっての切り出しには違いない。しかし、二律背反は大袈裟なれど、二つの対照的な動作、物体、概念をテーマにするのは珍しくはない。要は、何を取り上げるか、だ。この著では「燃えるものと燃えないもの」「一位と二位」「大と小」「旅と旅行」「〇と□」…と対比・類比が実にバラエティ豊かだ。



 28のテーマがあり、人によってハマルものが必ずある。個人的に「露出と隠蔽」が面白かった。人間は露出好き(趣味や体質と言い換えていいかもしれない)とそうでない者に分かれる。「身体的」「精神的」両方の場合も片方の場合もある。こんな駄文を書く者は露出好きかもしれない。ただ、色っぽいのは隠蔽だろう。


 「入れたり出したり」も結局「出し入れ行為は快感」というまとめ方になるが、性行為の連想のみには止まらない。経済活動はまさにその感覚を求めているではないかと言われれば、頷かざるを得ない。さてこの本全体を貫く考え方は、プロローグの「分けると混ぜる」にあるのではと読みつつ考えていた。続けてみたい。

何度も何度も

2021年01月19日 | 雑記帳
 何度も天気予報をチェックする。ここ一か月、ネットで何回天気予報を見ただろうか。一日1~2回ではない。積雪量も気になったし、除雪作業をするときの天候状態も選びたいし…。とにかくyahooの「今日の天気」「雨雲の動き」「雨雲レーダー」をこんなに見たときはなかったなあ。完全に習慣化してしまった。


 何度も寝返りを打つ。なまった身体が雪仕事によって「」を入れられたか、寝入りはいいのだが、途中で齢相応にトイレに起きて、それから覚醒してしまうことがある。そこから数分か数十分単位で寝返りが続き、ウトウトして浅い眠りがあればいいほうだ。多少役立っているのは抱き枕。何か摑まるものが欲しい。


 今さらでも頼りたい

 何度も同じ本を読む。先日風呂場読書に持ち込む文庫本がなく、書棚から手にしたのが『悩むことはない』(金子兜太)。当然読了済みだが、糞尿愛好などの大らかな語り口に惹きつけられてまた読み入る。「即物」と「対物」の箇所にあっと思わず頷く。そしてブログの感想メモを調べたら、これがなんと3回目だった。


 何度も水作業をする。自家水道ポンプがある。もちろん消雪用で飲用にはできない水である。少し雪の収まった先週から長いホースを買ってきて家の周囲に廻し、いくらかでも積雪の高さを沈めたい。水の力とは偉大で進捗状況がよく見えて嬉しい。ただしいわゆるアカミズで手元が狂い、自分にかかると悲惨である。


 何度もアラームが鳴る。アラームをセットする習慣はない。しかし家の中でこの頃、日中にピピピピと鳴り出す時がある。しかも結構な音量で。複数ある時計のアラームスイッチが入っている。犯人は1歳半の男子。とにかくそうした操作を至る所でしまくる。その度にビクッとする翁。目を覚ませ!と言いたいのか。

ホンロウが思い出せない

2021年01月17日 | 雑記帳
 雪が少し収まってきて、改めて机周りを見回すとかなり散乱している状態だ。元旦から忘れず付けてきたアナログ日記も11日でストップしたことを4日後に気づき書こうとした。師走から止まない雪、そして雪害、事故さらに感染症拡大等にホンロウされた半月だったと思い、さて、ホンロウの漢字が思い出せない。


 『翻弄』…おおっ、そうだった。しかし…。「弄」は「もてあそぶ」という意味でその通りだが、「翻」つまり「ひるがえる」とは何だ?「裏返る・反対になる」というニュアンスは感じるが…。こういう場合はシソーラス(類語)が役に立つ。そうか、つまり「振り回され、煽られ、ばたばた」している状態を指している。



 納得したところで、そんなにばたばたしていたかと自問する。確かに、勤務している図書館が13日火曜に朝の段階では通常開館、その後2時間後に町の方針が示されて、急遽休館になったときは少し驚いた。しかし危機管理とは結構付き合いが長いので、動揺もなかった。では「雪・雪害」の面はどうかと言えば…。


 ここ2,3日落ち着いたのでほっとしながら、今後のことも考えながら作業出来ているのではないか。TVや新聞で流されるほどの事故が身近な場所や町内で起こり、そこは確かに心穏やかでいられない。人生には思いもかけない事が起こる…簡単に口にするが自分には「まさか」が起きないと思っているのが普通だ。


 どんな状況にも自然体でいられる人…今朝、たまたま見たヨットレーサーの白石康次郎さんなどはその域だろう。常に今自分に出来ることを坦々と行う、その積み重ねが出来る幅を広げ、深度を作る。そうなると簡単にアクシデントにも翻弄されない。さて、とりあえず玄関横の積もった雪を少しは崩しておこうか。