すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

8月、読んだ読んだ

2022年08月30日 | 読書
 今月は少し珍しい読了記録となった。文庫や新書が多い読書傾向の自分だが、小説単行本を4冊も読んだ。以前メモした『ミス・サンシャイン』(吉田修一  文藝春秋)を皮切りに、家人から「何か読み物を」とリクエストされたので、図書館から3冊借りてきたのだ。以下のようなラインナップ、一週1冊ペースだ。


『ミス・パーフェクトが行く!』(横関大 幻冬舎)

『じい散歩』(藤野千夜 双葉社)

『クスノキの番人』(東野圭吾 実業之日本社)




 『ミス~』はエンタメ小説というジャンルだろう。首相の隠し子である女子キャリア官僚は父の懐刀でもあり、次々に難問を処理していく。親子関係が暴露されても活躍する場を移しながら、周囲を巻き込み「解決」してみせる姿は小気味いい。軟弱な総理や老獪な対立者たち等なんとなく現実想起させられ、笑える。


 『じい~』は、建設業を営み戦後を生き抜いてきた80代爺の家族と社会を巡る現実が、切なくも軽やかに描かれる。惚けの入った妻と「問題」を抱える三人の息子たちがまさしく令和の今を伝えている。それはいわば「負」のように思えるけれど、最終的な到着地は断定できないのが人生である。散歩は続くのだ。


 大人気作家の小説は久しぶり。さすがに人物描写は手練れだなあと感じる。この『クス~」』は展開としてはそれほどの仕掛けはなかったという印象だ。しかし、キーワードとなる「祈念」に象徴されるテーマは、今私達が最も考えるべきかもしれない。人は日々、家族や周囲の者に何を伝えているか。伝わっているか


 と、まあいずれもベッドでごろんと読んだ、読んだ。ただこの期間、もっと夢中になって、読み続けていたのはコミック。「BLUE GIANT」(石塚真一)10巻、これは一週間足らずで部屋や風呂場で読み切った。実は去年買ったヨーロッパ編を改めて読み直したら面白くて、つい注文した。感想をいずれメモしたい。

今年の処暑、花火の頃

2022年08月27日 | 読書
8月22日(月)
 休館日なのだが、午後から放課後子ども教室の読み聞かせ&工作があるので、午前中は自宅で準備。昼飯を食べて高瀬小へ向かう。90分日程を無事に終え、帰宅して甲子園大会決勝をTV観戦。「白河の関」越えを確実にした満塁ホームランに驚く。さすがの実力だ。問題はあるにしても東北人としては素直に嬉しい。


8月23日(火)
 県内のコロナ感染者がまた記録を更新した。職場でも家族に陽性者が出て自宅待機者も出た。換気に気を配らねば…。今日のこども園での読み聞かせも中止となり、絵本セットだけ届けに向かう。教育施設の大変さをつくづく感じる。優勝旗「白河の関」越えをネタに高校野球に関する蔵書紹介をブログにアップする。


8月24日(水)
 昨日は処暑。雨も降りだいぶ暑さも収まってきた。ウクライナ独立記念日ということを聞き、ブログでも関連付けた。考えてみるとコロナも世界情勢もずっと重く圧し掛かったままだ。午後から会議があり美郷町へ。久々の対面会議である。ともあれ「読書の秋」が近づいてきている。やるべきことを坦々と行おう。


8月25日(木)
 出勤日ではないが、こども園の学級閉鎖で預かった孫と一緒に朝から図書館へ行く。図鑑を広げてみせる。20分ほど居たら飽きたようで早々に退散。あとは家で戯れる。明日、読み聞かせで訪問する予定のこども園から実施するかどうかの連絡が入る。厳しいようだ。小説やコミック読み、ドラマ録画で過ごす午後




8月26日(金)
 大曲の花火は行けないが、ブログネタにする。県立図書館から訪問があり1時間半を超す情報交換を行う。俯瞰してみると、本町のような規模で図書館運営が困難になる理由は明らかだなあと改めて考える。ふと気づいた点があり午後はその作業を行う。図書館だよりを仕上げたので、帰宅してから印刷に取りかかる。


8月27日(土)
 午前中は出勤。月例の「絵本とあそぼ」の会に高校生が登場し、とても嬉しかった。来週以降のこども園や校読み聞かせの選書を行う。無事にできるといいが…。お昼ちょうどに帰宅し、孫と共に涼麺を食す。今晩は大曲の花火、今年はまだ感染も怖いし申込みはせず、TVで見るか。さて、来年の今頃はどうだろうか。


5分で何字書けるか

2022年08月25日 | 雑記帳
 「読み」といったら「書き」ということで…。
 いわゆる視写を試してみよう。

 条件として適当なのは、先日音読した文章の続きだろうと判断した。
 「未熟と老耄」(里美清一)
 かなと漢字のバランス、難語句もあるし、その文章を原稿用紙に書き写してみた。

 結果は237字(句読点も含めて)。


 
 「視写」も熱心に取り組んだときがあった。
 これは担任時代だったので、若干の記憶がある。
 中学年の目標値は1分25~30字だったと思う。

 丁寧に書くことは第二義で、普通に書き写す速さを上げることもねらっていた。
 教材の文章をまとまりでとらえて、ノートに向かうことも大切だった。
 それから「聴写」なども取り組んだなあ(と、しばし瞑目)。

さて、我に戻ると1分47文字程度なので、字の粗雑さはともかく、これもまずまずか。
 しかし、ボールペンに力が入り過ぎて、手が痛くなる緊張度合いの強さに我ながら笑える。

5分で何字読めるか

2022年08月21日 | 雑記帳
 唐突に始めた「5分間チャレンジ」
 
 まだ暑いので運動系はダメだから…ということであまり動かずできることを。

 文字を声に出してどのくらい読めるだろうか。
 大人が読む通常の難易度があり、初見に近いものが妥当だろう。

 たまたま2009年10月号の『新潮45』(ある対談記事を読みたくて書棚から出していた)があったので、その中から選ぶことにした。
 読んだ記憶のない「未熟と老耄」(里美清一)の論考に決めた。

 スマホでタイマーをセットし開始。
 17文字×23行×3段のスタイルなので、目に入りやすいが結構難語句がある。
 途中三度ほど引っかかってしまった。



 結果は、2635字(句読点も含めて)。
 1分だと520字程度か。こうしたことの平均データなどないとは思うが、まずまずだろう。
 速く読んでも、声を出すと内容は入ってくるということは確認できた。
 
 そう言えば、隣市で教頭をしていたときに、6年生の国語だけを受け持っていて、速読を薦めたことがあった。
 当たり前のことだろうが、頭脳明晰な子たちは速かったし、こうしたトレーニング的な活動を好んでいたなあ。

 まあ、自分がやるこの姿は他人からみたらボケ防止活動にしか見えないか。
 もちろん否定しない。諸機能は使わなければ衰えるのは自明の理だから。
 


 

5分でアップしてみた

2022年08月20日 | 雑記帳
 世の中のスピード化にノルわけではない。
 「5分」といったら結構なことが可能ではないか、ふとそんな妄想に取りつかれた。
 スマホのタイマーをセットして、題名を書き、この本文を打ち始めた。
 ブログだから、やはり写真は1枚欲しい。
 昨日の昼に食べた、この夏初の「冷やしラーメン」はどうか。
 久しぶりだったので撮ってある。
 サイズを調整しながら、画像アップロード開始。



 これで20秒ぐらいはかかるなあ。
 残りあと40秒をきった。
 これからプレビューをして…と書いたところで10秒きった。

 アップします。

その伝染もこの伝染も

2022年08月18日 | 雑記帳
 昨年の8/18の日記には、県内のコロナ感染数が29名、湯沢管内は1人と記してあった。今日の報道で秋田県は昨日に続いて記録更新?し1800名を超した。そして管内はとうとう100名超。いつ罹ってもおかしくない状況である。TVでは社会経済状況が…と盛んに言っているが、この態勢、体制でいいのかと思う。


 政治家への不信は慣れっこだが、危機を自分の都合のいいものとそうでないものに露骨に分けている感が否めない。そうした態度は伝染していき、それで悲惨な目に遭うのは、やはり弱い立場にいる者だ。そしてこうした思いに囚われる時、民衆が強い力を求め硬直した世の中になる傾向となることにも注意深くありたい。



 一年前の記事は東京五輪のこと。今回の某企業不正報道がまたあの頃の胸糞悪さを思い出させる。五輪誘致から開催に到るまでの様々な不祥事、大会中は盛り上げに必死だったが、終了後はあっけなく忘れ去られたよう。アスリートたちにも相応の責任があるとはいえ、情けない。まさに「金と欲にまみれた」結末だ。


 今となっては驚いてしまうが、昨年は今頃20日間も図書館は休館だった。管内感染者が日に1,2名の時期だった。質的な違いはあれ次々に伝染していく頻度は比べ物にならない状況はやはり危機なのである。個人として断ち切る術がない。完全隔離は社会生活と相容れないし、100と0の合間でどちらに振れるかだ。

その書名には仕掛けがいる

2022年08月17日 | 読書
 すでに8月に入ってすぐの頃に読了していたが、感想メモをなかなか手につけなかった一冊がある。昨日、町内の「二十歳のつどい」が行われて、図書館だより特別号を出したと館ブログにもアップした。その会の様子が関係者が発信しているわけだが、記念講演の題がその書名と同じだった。講師はブラボー中谷氏。


 講演のこの著書との関連は、中味を聴いてないのでなんとも言えない。ただ、マジシャンであればタイトルの使い方は想像できる。ましてブラボー氏。「このステッキは今から花束になる」と語って演じれば、確かにその通りに進むわけだから…。もちろん、そんなネタを使いながら「言葉の力」を語ったことだろう。


『言葉は現実化する』(永松茂久 きずな出版)



 著者の主張はただ一つ「いい言葉を口にする習慣を身につけること」である。それ自体は、数多の啓発本、ビジネス書によく書かれる言葉である。付随するいくつかのことも目新しいとは言えない。例えば「思考より言葉のほうが強い」「現在の自分を肯定する」「自分はできると口に出す」…言霊の考えが基盤となる。


 類似本は多くあるが、この本の価値は高い。耳障りのいい語だけのように見えても、実はしっかり根が深い。「笑われたところが、あなたの出発点」という覚悟を強調することで、表面的なポジィティブトークのススメと一線を画す。笑われたりバカにされたりする経験を自分にどう取り込めるか、丁寧に説明してあるからだ。


 ブラボー氏は手品と話術で二十歳の観客を笑わせながら、言葉の遣い方を論じたのであろう。彼には地元愛と長い経験に裏打ちされた実績があり、心に響く内容だったのではないか。まったくの想像いや捏造として、締め括りの一節を考えてみれば「言葉は現実化する。しかし手品ではないが仕掛けがいる。それは…

「待つ」は放棄や放置ではない

2022年08月15日 | 雑記帳
 「待つ」存在でありたい。
 また、ぼんやりとこの本を開く。
 気にしなかったわけではない。かと言って始終思っていたわけでもない。書き綴りたくなる気持ちが湧いてくるのを、待っていたというべきか。


『「待つ」ということ』(鷲田清一 角川選書396)

「1 焦れ」P18より
 待つことには、偶然の〈想定外の〉働きに期待することが含まれている。それを先に囲い込んではならない。つまり、ひとはその外部にいかにみずから開きっぱなしにしておけるか。それが〈待つ〉には賭けられている。ただし、みずからを開いたままにしておくには、閉じることへの警戒以上に、努めが要る。〈待つ〉は、放棄や放置とは別のものに貫かれていなくてはならないからだ。



 時々、夜半に目が覚め、次から次へと思いが浮かんできて、再びの眠りモードになかなか戻れないことがある。職場や家庭のこと、身近なあれこれが脈絡なく頭を駆け巡るわけだが、そのことを一歩引いて眺めたとき、それはいわゆる「心配事」と括ってもいいようだ。自分はいったい何を案じているのか…未来だ。


 眠りを毎日の「小さな死」と捉える考えがある。そう想うと、死と死の間に浮かぶ「未来」に悩まされるとすれば、なんとも哀しい生の時間である。できれば明るくて穏やかなイメージが湧けばいい。現実から途切れなく続く未来には「想定外」が含まれ、様々な可能性のある道に枝分かれしていると、俯瞰してみる。


 「待ってみよう」…なかなか口にできなくなった言葉だ。効率化、迅速化がもはや常識とされ、その枠で積み上げられた価値だけが膨らんでいく。しかし些事に葛藤し逡巡するのは、実は糸を縒りあげることに似ていて、心の強靭さを作る面もありはしないか。そうした心遣いの有様を時代遅れと切り捨てたくない。

立秋過ぎて日記

2022年08月12日 | 雑記帳
8月8日(月)
 先週はこども園読み聞かせが続き、中学生の職場体験もあったのでやや慌ただしかった。今週は盆踊り休館前に結構準備を進めることがありそうだ。午前中は家族の保険手続きや買い物等で出かける。午後はのんびりしてから孫をこども園へ迎えに。家に帰ってきてからもパワー全開の孫に、夏バテの文字はない。



8月9日(火)
 先月から少しずつ進めていたアンケート集約をようやくまとめる。あとはどう一歩進めていくかだ。図書館ブログは「山の日」にちなんだ蔵書紹介二日目。盆過ぎの放課後教室の読み聞かせ選書に入る。県内ではコロナ感染者が1300超となり最多を更新している。久しぶりにドジョウ鍋を食して、スタミナをつける。


8月10日(水)
 明日の祝日に、子どもたちの絵を使った絵灯籠のイベントをするのでPRのブログアップ。町内の二つの小学校を訪れ、今後の連携など校長と話す。二人とも旧知であり楽しく話す。甲子園では能代松陽は初戦敗退。大リーグでは大谷が二桁勝利に届き、偉業達成。今まで少なかった当管内の感染者が初めて50を超す。


8月11日(木)
 「図書館絵灯ろう」開催。昨日のうち家族にもPRしたので、始まってすぐ二人の孫も来て楽しんだ。15日に開催される「二十歳のつどい」用の図書館だよりを仕上げて、印刷。そして盆踊り期間に文集の作品紹介をすることを思いつき、準備を進める。再来週の読み聞かせ用やごろ寝読書用の本を8冊借りて帰宅。


8月12日(金)
 何度か足を運ぶ予定だが、盆踊り期間休館を夏季休暇に充てたので帳簿上は長い休日が始まる。午前は自宅からブログアップした後、孫と一緒に買い物に出かける。やや人出が目立つ。午後はのんびり過ごすが、時折雨が激しくなり心配になる。被害のあった県北など不安だろう。心穏やかにお盆を迎えたいものだ。


宝くじ買う前に「ルール」

2022年08月11日 | 読書
 さすがにこの齢になって啓発的な本を頻繁には買わないが、ネットでよく訪れる知人が薦めている記事を見て、たまに注文する時もある。内容はある程度予想がつくのも年の功か(笑)。しかし、わかっていることと実行していることはまた別の話。結局、自己怠慢、悪しき生活習慣を自覚することになる結末が多い。


『宝くじ・超当せんデータ「当たる人のルール」がわかった』
 (女性セブン編集部 小学館)




 宝くじを定期的に買う習慣はない。もちろん当たったらいいなあと買わずに思っている時があるので笑えてくる。関心があったのは「当たる人のルール」だ。女性誌の記事の集約だから、ほぼ予想はつく。そして大方違いはなかった。「物事を丁寧にする」「身の回りをきれいに保つ」そして「何事も前向きに受けとめる」


 もちろん具体的には結構細かい「心掛け」が出てくる。そうした日常を平穏に送っていられるのなら、宝くじのお金など必要ないのではないかと思えてくる。…そうだ、そこがミソなのだ。つまり偶然にも大金を手にして身を持ち崩す習慣を持たない。だから、その心配が色濃い者に「神」は微笑まないのだ、と思う。


 この本では、それを象徴的な語で表している。「運の器」だ。器の分量を超えた幸運が仮に訪れると受け止められずに破綻してしまうわけだ。おそらくそうした例は多いに違いない。もちろん器の大きさが決まっているからと言って運命が変えられないわけではない。変えられないのは「宿命」であり、運は切り開ける。


 「立命」という語がある。「運がない」とぼやいているより、自分の出来ることを突き詰めていく、好きことに没頭していく…その喜びに目を向けることが唯一の「ルール」かもしれない。どうしても「金」がちらつくなら、次の格言を身に沁みこませたい。章ごとに置かれているが、冒頭の一節が一番すとんと落ちた。

 金が人生で何をなしうるか、金が人生で何をなしえないか。このふたつの問題を正しく解く人は、金の真の正当な価値を知る人である。 (哲学者 サンタヤーナ)