すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

栃ノ心ノ心ノ芯

2018年05月31日 | 雑記帳
 大相撲夏場所回顧のスタートは、やはりこの異常?人気がどこから来るのかという疑問だ。今回は先行抽選に外れ、発売開始をPC画面の前で待ち、10時と同時にアクセスしたがもはやいい席は取れず、逡巡しているうちに予約サイトは閉められた。それにしてもいい席はTVで観ると常連さん方の多いこと、多いこと。


 不祥事や休業力士が目立っても、これだけ人気が続くというのは大相撲自体の面白さを感じている人が多いに他ならない。では面白さとは何か。それは様々な要素があるはずだ。様式美を持つ格技、きわめて特殊な勝負形態、若手や小兵、老練という、個性溢れる贔屓の力士たちを応援する楽しみも大きいと言えよう。


 予想しなかった鶴竜の優勝は、いわば王者たる白鵬の実力低下を示していると言ってもまんざら的外れではない。白鵬の上手さも体力的な面の支えがあってこそで、加齢に直面しているだろう。鶴竜の相撲にはなんとなく勝っている印象を持つ。なんとなく負けていた今までと違う何かが備わった。でも長続きするか。


 なんといっても栃ノ心の活躍は本物だと思わされた。優勝した場所にいわば覚醒したと言っていい。先場所に続いてその揺るがない力が前面に出ていた。取り口を解説するわけではないが、怪力に頼るだけだった相撲が、体幹を生かして攻防することで決め手がアップした印象だ。鍛えが心の中にも芯を作ったはずだ。


 さて、勝負事ゆえに様々な手が取られるのは当然だ。しかし観続けると「それはない」と思ってしまう勝負がある。正面からのぶつかり合いこそ正道、体格有利な者や番付の格が上である者が、立ち合いから変化するのはやはり見苦しい。正々堂々相手に向き合う意味は、立場によって異なることを考えさせられた。

最期の言葉を大事にみる生き方

2018年05月30日 | 読書
 死生観は極端に言えば三種類だと加地伸行は言う。死後何も残らない」「肉体は消滅するが、精神は霊魂として存在」「肉体・精神ともに存在」とし、類型的には順にマルキシズム、仏教とキリスト教、儒教や道教と位置付けた。日本人の多くが葬儀、先祖供養をしている事実は、仏教と言いつつ儒教の考え方に基づく。


 精神は慰霊によって現在に帰り、肉体は子孫の継続によって現在を生きる、つまり「生命の連続」を意識しつつ暮らすと言ってもいいだろう。加地は「黙って仏壇の前に坐れ。一生懸命に、未来にそして祖霊に祈ることである」と締め括る。そんな思考回路が出来ているからこそ、下のような本も出版されると思った。


2018読了57
 『いかに死んでみせるか ~最期の言葉と自分~』(弘兼憲史 廣済堂新書)


 弘兼は、同世代やそれ以上をターゲットとしながら人生指南本を多く発刊している。少し毛色が違うかなと手にとったが相通ずる内容が多い。この新書の前提としての死生観はやはり、上に挙げた三つ目なのだと思う。そうでなければ「最期の言葉」を取り上げたりはしない。その言葉は引き取った側にしか残らない。


 スティーブ・ジョブスが病床で語った言葉の紹介から始め、有名人だけでなく、市井の方々の言葉も拾い上げている。それまでの生き方を象徴する言葉を残す方、生き方とはかけ離れた意外な言葉を残す方、心に秘めていた思いを吐露する方、さらに残った者や社会に対して挑戦的な一言を残す方など、実に様々である。


 立川談志が放送禁止言葉を呟き去ったのは痛快だし、その人生を象徴している。ぼんやり生きていれば、多くの場合「最期の言葉」を残すことは叶わないかもしれない。「終活」にその要素を、というのが著者の趣旨である。それにしても著者自身は「実は、俺は…」と絶句する予定という。そこまで脚色しなくともねえ…。

切実な未経験問題は…

2018年05月29日 | 読書
 どんな人間でも経験できることは限られている。生まれた時代が違い、国が違い、人種が違い、性別が違い…まっ当然ではあることだ。俯瞰してみれば、経験しようがしまいが何ほどのこともない、などと悟った人や世捨て人のような口も利きたくなるが、現実世界には、正直遠慮したいことはうんとある。まずは…。


2018読了56
 『国家は破綻する』(藤巻健史  幻冬舎)


 今、国家としての心配の種は、半島絡みの戦争に巻き込まれること、それからハイパーインフレか。この本は後者つまり財政に関する警告である。正直9割は理解不能…。ただ、国債をめぐってその金額が膨大で増え続けていることへの批判と、それは日本国内だから心配ないとする論が対立していることは知っていた。

 著者は、日本人が買っているつまりそれは、世界が手を出さないからと指摘し、危険要素を次々と明らかにする。そして自衛のための策をあれこれ促す。しかし、いくら円暴落と言われても「保険」としてドル資産を買うほどの決断もできないし…となると残るは、生活の質転換と極めて個の問題へとすり替える自分。



2018読了57
 『死の準備』(近藤誠、他   洋泉社)


 こちらは避けきれない個別のこと。と思って読むと、これがまた「死」が本当に個人的な問題なのか、迷いが出る。世の中では「終活」という言葉が一般的になっていて、もはや「死」が社会問題化していることは事実だ。この新書は十数年前の出版だが、そうした混乱をある面では先取りしていた。著者陣も多彩だ。

 今、生きている自分が、「死」を納得できるものか。そもそも難しい。しかし数多の論はあれど、そろそろ「死生観」は身につけねばならないお年頃である。その意味で加地伸行が、死生観は「きわめて少数の類型しかない」と記した意味は大きいと感じた。意識しなくとも何かしらの考え方が身についているはずだ。

ローカルに生きるために

2018年05月28日 | 雑記帳
 土曜日にあった「みらいの編集室」のイベントで、近隣で店を開いている二人のゲストの話を聞いた。トークセッションの趣旨は、以下の通り。

 ~秋田県南エリアで「郷土食」をテーマに、古き良き豊かなライフスタイルを提案し続けている人気カフェ&料理店。ここを切り盛りするふたりの女性オーナーをトークゲストに迎えて【食 × 編集】をコンセプトに、暮らしを豊かにしてくれる「台所のおはなし」や「ライフスタイル」についてお聞きしていきます~


 面白いと思ったことがいくつかあった。一つは「台所」という視点で、一般的なシステムキッチンは、シンクとコンロの間のスペースが狭いという話が出た。調理をする場所を十分にとらない発想とは一体何か。家族全体での消費から個別消費への移行を促し、推し進めている時代、キッチンの幅はその一つの典型だ。


 世帯の人数さらに食産業のあり方の激しい変化、それらとリンクするように住環境もセットされる事実を今さらながら知った。私たちは、その点を意識しないと、既製品だけに取り囲まれて身動きできなくなる。もう一つ、「麹屋」を営む女将が意外なことを言った。「ここには米しかないから、いい」。逆転の発想だ。


 産業面で稲作に頼ってきた本県秋田について、知事も危機感を正直に吐露したことがあった。しかしまた、違った視点で言えば「米しかない」ことが様々な工夫を生み出し、文化を作りあげてきたことも厳然たる事実である。経済としては、それを売れるようにすることが大切だが、価値はそれだけではないはずだ。


 いわゆる「伝統食」を残すべきかどうか、というテーマも考えさせられた。個人的な嗜好や郷愁的な部分で必要はあるにしろ、文化財的な扱いになっていくのだろうか。伝えられる必然性が私たちの暮らしには希薄になっている。しかしゲストは「残さなくてもいいが…そこに到る知恵のようなことを…」と語った。


 確かに目をつけたいのはそこだ。仮に「伝統食」と称される食べ物を再現することは、その気になれば現在でもたやすくできる。問題は、今住む土地でそこに育つものをより美味しくより長く残さずに食べて、暮らしていくサイクルを意義付け取り戻すということではないか。ローカルに生きる基底に据えたい価値だ。

焦点化される「やってまったあ」

2018年05月27日 | 雑記帳
 朝ドラの「やってまったあ!」が流行るかどうかは微妙だが、自分の場合の「やってまったあ」のパターンは、かなり焦点化されている。「落とし物」である。財布、切符、スマホ、カード…どこかへ置忘れではなく、落とすのである。従って、家人とどこかへ連れ立つときは、切符やカードなどは預けるのが習慣である。


 時々、その習いが崩れるときがある。ちょうど半年前に一人旅を許され(笑)大東京で趣味ごとを楽しんでいた二日目の朝、それは起こった。JRを使うなら切符は危険だし、SuicaつきVIEWカードなのでチャージをして…と快適に使っていた。一泊した巣鴨の駅から乗り池袋で降りて構内改札に差し掛かったとき、あ無い。


 「やってまったあ!」とはもちろん(当時は知らない)言わず、おおおうっと心の中で叫ぶ。クレジットカードなのだ。あれっこういう時はどうするんだっけ…自分を落ち着かせながら、まず自宅へ電話。呆れられつつカード紛失の手続き連絡番号を教えてもらい、また改札へ行って手続きをし…忘れられない旅となった。


 大寒の日に転んでスマホを落とした。この顛末はこちらへ。しかし、いつもそううまく運ぶとは限らない。過日、好天に誘われ町内一の眺望を誇る大平山へ、晩春の風景を収めようと出かけた。木々の緑も鮮やか、いいショットが撮れた。場所を変えて…と少し高い地点に昇ってみたら、足元にやや細めだがタケノコが…



 そこから悪夢が…車に戻り袋を持ち、リモコンキーでロックをし、ボタンつきの後尻ポケットにしっかりと入れ、いざ竹藪の中へ。急な坂に転びながら、予想ほどではないが多少の収穫を持って愛車の待つ場所へ。さて帰るかと、ポケットを探ると…「やってまったあ!」…スマホも車中だ…急にハルゼミが鳴き始めた。

聞いてほしい聞きたがり

2018年05月26日 | 読書
 このベストセラー新書を何故読んでいなかったか。心の底で「自分には聞く力がある」と自惚れていたのかもしれない。実践の中心的分野であったし、ポイントに関しては知っているつもりだ。読み終えて確かに技術的な点の多くは了解していた内容だったが、聞く行為の本質や原動力について改めて考えさせられた。


2018読了55
 『聞く力 心をひらく35のヒント』(阿川佐和子  文春新書)


 「まえがき」にあった「聞き書き甲子園」のことに興味を覚えた。話す・聞くという行為は、いわばある者の脳にあることを他者の脳へ移動させることとも言えるが、一人から取り出された内容がそのまま収められるわけではない。受け取る側の理解度や感覚の違いなどによって、入る抽斗は違うし、容量の差もある


 著者が、長年インタビューを続け、成功や失敗を例に語る秘訣、それはあくまで彼女の個性に依ることが大きい。人間への関心が強い人だ。父が小説家の家庭という特殊環境で育ち、一般人と落差のある経験を積んできたことが背景にある。だから聞いてほしいし、同時に聞きたがりでもある。つまり抽斗が多く、深い。


 第一章の4「自分の話を聞いてほしくない人はいない」という題の挙げ方は、ビジネス書でもよくされる。それは、表面上の無口や話下手はいるにしろ、人間は表現したい存在であり、きっかけさえあれば共通手段である言語を引き出せる確信を持っているからだ。要するにきっかけを作る工夫。それを多様に備える。


 「私は貴方の話を聞きたい」をいかに相手に伝えるか。身も蓋もない言い方だが「相手次第」である。まず相手を知ることから始まるので、リサーチが必須だ。ただそれも万能ではない。いい質問の準備ももちろんだが、真正面すぎる。TVでの印象では、彼女は目の表情と相槌の使いこなしを身につけ、多用している。

未熟者は常套句を選ぶ

2018年05月25日 | 雑記帳
 今回の日大アメフト問題について語られたなかで、「言葉」を取り上げた文章が目に留まった。いずれも考えさせられた。


 5/24の地元紙(共同通信配信か)で、評論家の玉木正之は「言葉軽視の未熟な指導者」と題した文を寄せている。

◆スポーツの指導に一番大事なのは、選手に掛ける言葉の質だ。指導目的や目指すべき方向をきちんと説明する責任がある。だが、内田正人前監督と井上奨コーチは言葉を軽視しており、未熟と言わざるを得ない。(後略)


 特定の個人が未熟であることだけを指しているわけではあるまい。そうした傾向が我が国のスポーツ界には少なくないだろう。


 同じ5/24に、中島岳志は次のようにツィートしている。

◆日大アメフト問題も、やはり「言葉の崩壊」という問題だ。「クオーターバックをつぶせ」という発言を、社会問題化した後になって「思い切って当たれという意味」と弁明し、勝手に言葉の意味を変えてしまう。世界は言葉によって成立しているので、言葉が崩壊すると世界が崩壊する。

 言葉の軽視というレベルでなくなってきている。社会全体に蔓延している気配もある。その責任の所在の一つに、国家をリードしていくべき方々の諸問題が続いていることがあるのは確かだろう。


 5/22に小田嶋隆がツィートしたことに、私たちはきちんと向き合う必要がある。

◆「言葉足らずだった」「誤解を招いた」という形式で発信される謝罪は、一見、反省しているように見せかけていながら、その実、「言葉を読解しきれなかった人間」「誤解した聴き手」の側に主たる責任を転嫁してしまっている意味で、著しく誠実さを欠いた態度だと何度言えばわかるのだろうか。

 常套句になりつつある謝罪、お詫びを選択しようとする心に潔さはなく、似たようなことを繰り返して堕落していくのだ。

万智先生に紙上弟子入り

2018年05月24日 | 読書
 撮った写真のブログを再開するときに、言葉も添えてみたく最初俳句もどきを書き込んだ。しかし、どうにもモヤモヤ感が残り、短歌形式の方が多くなっている。いくらか継続的に作りだしたのは、もう十数年ぶりだ。その頃手にとってまだ書棚に残っていた!新書を再読した。不勉強者には絶好のテキストになった。

2018読了54
 『考える短歌』(俵万智  新潮新書)




 副題として「作る手ほどき、読む技術」とある。第一講から第八講まであり、ポイントを数えると15個ある。最初の「『も』があったら疑ってみよう」が示すように、非常に具体的であり、作品添削をもとにしているのでわかりやすい。鑑賞コーナーでは歌人たちのプロの技について解説がつき、著者の意図は明確だ。


 つまり短歌における「言葉の技術」を具体的にどこまで伝えられるか、ということだ。詩歌は心の揺れを表現することであり、技術は二の次という論はいつの時代もあるだろう。しかし、言葉という道具の使いこなしによって作品の照度は大きな違いを持つ。心と言葉の「往復運動」をより活性化させるのが、技術だ。


 この著で取り上げられた歌人の作品に対しても、シビアな目で批評してみせる。たとえば、かの与謝野晶子の「世を去りて三十五日この家にわれと在りしは五十日前まで」という一首を「それほど上手くはない」と書きながら、「技巧を超えた迫真性」と、不器用にしか歌えない悲しみの表現と捉え「数字の重み」を説く。


 結局、言葉の選び方とは何か。歌の持つリズムという観点を念頭に置きつつ、表現したい自分の「心の揺れ」にいかに迫れるか、ということである。日常会話とは違う「場」に示そうとするとき、常にこれで正確か、もっとふさわしい言葉はないか、と振り返る習慣は大切だ。迷っている時間は有意義だと納得したい。


 今日もまた心の行きつ戻りつを迷いの道に一つ捨て置く

五月晴の空に問ふ

2018年05月23日 | 雑記帳
 先週末の大雨から一転、ここ数日は五月らしい好天気が続いている。田植え作業も始まり、その光景が青空の下で鮮やかに映えている。一昨年のこの時期に、旅行から真夜中に帰宅した時、近所の田圃でライトをつけながら植え付けていて驚いたことがあった。お天道様が見守ってくれる一番の仕事だった気がするのに。


 日曜は父の命日。実家に顔を出し、兄を誘って町内で月1回の「そば会」(茅ぶき山荘・格山)へ。その後、思い立って近くのカフェ「阿専」を訪ねることにした。足を踏み入れたその地区も田植え作業の真っ最中。店は残念ながら開いていなかったが、表札にはまだ懐かしい名前が…。Kさんが亡くなりもう13年か。



 ワラビ、タケノコと素人山菜採りには嬉しいシーズンだ。今年ももう数回それなりの恵みをいただいた。私はいわゆる里山のみだが、何年か続けていて気付くことは、山の荒れだ。だんだんと人が入らなくなっているからか。反面、熊騒動とは別に立ち入り禁止の立て札も目立つ。不寛容な空気が山際にも漂ってきた。


 天気に誘われ久々にペンキ塗りを実行。こうした作業は嫌いではないが、後からこうすれば良かったと思うことがしばしばある。そうして慣れてスムーズに運ぶ頃に終了するのが常だ。何が必要で、どういう順番が無駄ないか…しかし再びやる時は忘れているだろう。決定的な失敗でもしない限り、結局懲りない奴だ。


 作業を終えTV視聴。例のアメフト事件で、加害者である学生の記者会見が生中継されていたので見入った。その落ち着いた返答ぶりに感心し、悪い行為に違いないが、この若者の人間性を歪めてはならないと思う。競技の本質を不条理な勝負事と混同する輩はどこにもいるし、誰しも可能性を持つ。自らの心を問え!

産婆のような仕事

2018年05月22日 | 読書
Volume103
 「『まだ見ぬもの』は、もともとその人のなかに存在しています。それにかたちを与えてこの世に引き出すのが教育者の役目です。そしてそれが誕生する瞬間に立ち会うのが、教師の醍醐味と言ってよいでしょう。


 数か月前の雑誌を見返していて、ページ端を折っていた箇所があったので、読み直してみた。
 上野千鶴子がゼミの受講生から「お産婆さんみたいな存在」と言われ、「そのとおり」と続けた言葉。


 教育の原則を考えるうえで、とても重要な要素が詰まっていると感じた。

 一つは、「まだ見ぬもの」がそれぞれの中に存在すると信じること。
 よく言われることでありながら、一番忘れられがちな気もする。常にそういう向き合い方をしていないと、失われていく感覚だと思う。

 そして、教育とは「それにかたちを与えてこの世に引き出す」こと。
 「かたち」ということが大きなポイントになるだろう。
 それは直接的には顕在化するものを指すが、かなり幅広くとらえるべきだろう。個によって様々な「かたち」があることに、教師は気づかねばならない。

 「誕生する瞬間に立ち会う」…それを何より嬉しがることができてこそ、教師としての仕事ができたと言っていいのではないか。
 「学びの成立」などという言葉もあるが、データだけでは見えない、腹の底にストンと落ちる感覚こそ本物だろう。

 そういう印象を持った実践を自分はいくつ思い出せるだろうか…

 わずかではあるが、今でもそれらは心の中で輝きを放っている。
 幸せなことだ。