すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

感情を分け合っているか

2019年03月31日 | 読書
 教育やカウンセリングの場では、「傾聴」が重視される。
 相手の話を丸ごと理解していく、そのためにあまり口を挟まず、頷きや同意の言葉で、対象者の思いや考えをできるだけたくさん引き出そうという手法だ。
 それは確かに安心につながったり、気づきを呼びおこしたりする。

 そんなことを頭に入れつつ、実際の家庭や職場での会話を想えば、もう一つ違う視点が原則になるのかと考えた。


Volume.156
 「忙しい日々のなかでは、どうしても効率性が優先される事務的な連絡が多くなりがちだ。しかし、人間は指示と応答だけのコミュニケーションには耐えられない。逆に、ささいな会話のなかでも感情をわけあうことを志向できる。」


 購読している雑誌の連載「喚起すること」にドミニク・チェンという方が書いた一節である。

 ポジィティブ心理学という分野で著名なセリグマン博士の講演の中から、次のような箇所を引用していた。
 「相手の話を聞くときには、相手がいままさに語ろうとしている状況をよりよく思い出せるような質問をしなさい

 状況設定によってむろん異なるが、良い事があったことと切り出した相手に「へぇ、よかった」と答えるだけでは「関係性の発展に寄与しない」のだと言う。
 そうではなく「その時にどんな感じがしたか」を問うことにより、相手にその時のことを再体験させることが大切である。
 そして、聞き役である自分も、そのときの感情を追体験できるというのである。

 おそらく聞き上手と周囲から評される方は、その点に長けているのではないか。


 一緒に何気ない会話をしているとき「感情のわけあい」ができること。

 良好なコミュニケーションにするために意識したい姿勢だし、そのための技術も必要だ。

たどりついたか、ショーケン

2019年03月30日 | 雑記帳
 ショーケンが逝った。思い入れのある者は限られるだろうが、私には間違いなくスターの一人だった。買いためた数百のLPレコードを処分してもう20年以上になるが手元に残したわずか十数枚に「健一・萩原 熱狂雷舞」という1枚があるほどだ。GS全盛期にはやや反感を覚えていたが(笑)、その後は注目していた。



 世間的には俳優としての評価が高い。若い頃の「太陽にほえろ」「傷だらけの天使」「前略おふくろ様」という、いわば歴史的なドラマ主演もそうだが、黒澤明映画「影武者」などに見られる、やや狂気がかった役柄は絶品だった。また、少し枯れてきた感のあるここ数年の演技では個性的な存在感が際立ったように思う。


 NHK大河における幕末の岡田以蔵、5代将軍徳川綱吉、そしてなんと言っても「利家とまつ」で演じた明智光秀はなんとはまり役だったことか。なんと今年の「いだてん」にも配役されている。第20代総理大臣高橋是清、2.26事件で暗殺された首相である。最後にどんな「最期」を演じるか。その巡り合わせを想う。


 シンガーとしてのショーケンは、歌の巧さというより演技的歌唱が際立つ。だから有名な曲で言えば「酒と泪と男と女」「大阪で生まれた女」そして「愚か者」など、他の歌い手たちより味が深いと思っている。少しマイナーだが「ぐでんぐでん」という曲が好きだった。20代の深夜によくがなり立てて歌ったなあ。


 「♪ああぐでんぐでん 俺とお前は ぐでんぐでん」というサビのリフレインは、彼の人生そのものかもしれない。孤独を気取りながらも事件を起こしたり、何度も離婚を繰り返したり…結局、誰かに救いを求めた。その弱さを隠さなかったゆえの魅力か。「♪廻り道でも 道は道 はるかどっかにたどりつく」合掌。

武士道精神に入り込めば

2019年03月29日 | 雑記帳
 貴景勝は大関昇進の口上でどんな四字熟語を使うのかなと、夫婦で話題にしていたら、少し体をかわされた感じの「武士道精神」だった。なるほどと一瞬は思い、まあ堂々と潔くみたいな感じだろうと考えつつ、少し気にかかる。「武士道」ってそもそも何?広辞苑の語釈は「日本の武士階層に発達した道徳」である。


 中身はともかく、一般的に「武士道」という時パッと新渡戸稲造の名が挙がる。これは諸外国に向けて日本人の精神構造を解明、紹介した意義が大きい。しかし武士道に関する解釈は、ウィキペディアによれば「厳密な定義は存在せず、時代は同じでも人により解釈は大きく異なる」とある。その点は留意するべきだ。


 とは言っても、多くの辞書に共通するキーワードは「忠孝・節操・信義・礼節」等である。そして倫理として見た場合、大きく二つに分かれる。「死を賭して主君に奉公する」と「主君・家来ともに儒教倫理に基礎をおいて振る舞う」前者は「~と云ふは死ぬ事と見付けたり」で有名な『葉隠』。後者は「士道」の考え方だ。


 貴景勝は細かい点までこだわったわけではないだろうし、主従関係ではなく核になる強靭な精神をイメージしているに違いない。さらに、自分の攻めの特徴つまり突き押しを考えた時に思い浮かぶ、何事にも正対する構え、姑息な手段を用いず、まして卑怯な振舞いをしないことが挙がる。今、一番聞かせたい人たちは…。


 そう言えば、ドラマ『まんぷく』で母親役の名台詞であった「私は武士の娘だから…」。一種のギャグのように「恥ずかしい真似はできない」ことの言い訳のように使われた。ただ、根本精神にある「」の概念は、欧米化が進むなか衰退した貴重な価値であった。武士道にも密接に通ずる。そう思うといい口上だった。

詩が姿を現わすとき

2019年03月28日 | 読書
 少し恥ずかしい話だが、高校から大学にかけて詩のようなものを書き散らした時期がある。大学に入って最初に参加したゼミが「詩と音楽」だった。「詩論」の本を意識的に読んだこともある。しかし十分に理解はできないままだが…。先日「役割と詩」の件を書いて、ふと思いつき書棚から一冊引っ張り出してみた。


2019読了32
 『詩の力』(吉本隆明 新潮文庫)



 単行本は2003年に出ている。「現代日本の詩歌」という新聞連載を集約したらしい。従って、いわゆる現代詩が中心だが俳句、短歌も、さらには歌謡曲、ポップスの歌詞まで取り上げられている。編集者の要望もあったらしいが、中島みゆき、松任谷由実そして宇多田ヒカルの章もある。著者の読み方には触発された。


 「歌詞という表現」という章に優れた歌詞の観点を「言葉の強い選択力と行と行の続き具合のすばらしさ」とずばり記してある。平易な言葉を用い、心情や風景を強くイメージさせる詞は、多くの現代詩人たちには書けないとも言っている。抽象度の高い語句や着想の方向性、強靭さだけで「詩」の力は語られない。


 現代詩といえば「わかりにくい」が定番だった。その点を著者は吉増剛造の章で、このように言い表す。「読者の側からいえば、詩の価値が文字の上に現れておらず、詩人の内面に隠されているわけで、その価値を受け取るのがとても難しくなっている」。昨秋に聴いた吉増剛造の、あの強烈な朗読の意図ともつながるか。


 単純に音声化したから価値が伝わりやすくなるわけではない。しかし、エネルギーは見えやすくなる。「詩の力」を様々な過程でとらえる時、その力が最大限に高まるのは口にした段階だろう。そう考えると、あらゆるモノに「詩」があるとは、おそらくそれを褒め称えた時明らかになる価値が出発点だ。詩が姿を現わす。

評価の耳目を持つ面白さ

2019年03月27日 | 雑記帳
 某地方局の番組モニターに応募し、この1年間務めてみた。指定されたテレビ、ラジオ番組があり、その中から月に4,5本視聴し形式に沿ってレポートをする形だった。「独り視聴者委員会」を自称するほど好きな分野なので、さほど負担を感ぜずにこなせたし、評価の耳目を持って向き合うことの面白さも味わった。


 数えてみると50本以上は書いているので、総括的な点を記しておきたい。まず、モニター対象になる番組は当然地方局制作である。ラジオで帯時間帯で放送されるレギュラー番組から、時季に応じた観光CM的なレポート、さらには硬派なドキュメンタリーと、種類はあるがややパターン化していることは否めない。


 それでも特にラジオなどはよく耳を凝らして聴くと、いろいろ工夫されているものだなあと改めて気づく。音だけでイメージ化を図るために、ナレーションはどんな要素を大切にするか伝わってくる。特にスポーツ中継などは顕著だ。ふだんTV視聴に慣れた者にとっては刺激的だし、ある面でいい頭の体操にもなる。


 当たり前とはいえアナウンサー個々の巧拙の差に気づく。特に新人アナは在京局も全く同様だが、地方だと人数が少ない分目立つ。ゆえにベテランになるとこれほど技能が高まるものかと驚く…これもやはりラジオで痛感する。またBGMの入れ方一つとっても納得する点も多く、細部に宿る価値を見つけた気になる。


 ふだんは気に留めない媒体も、評価する立場で向き合うと作り手側の意図だけでなく、放送全般に影響を及ぼしている存在や空気などにも気づく。民放ゆえにCMの分量、配置などもそうだ。メディアリテラシーという語はかなり一般的になったが、時々気合いを入れて対象を見つめないと錆びつく一方だと自省した。

あと数話で「まんぷく」になるか

2019年03月26日 | 雑記帳
 NHK朝ドラ『まんぷく』もあと数話となった。もともと安藤百福には興味があったので、習慣的に(笑)楽しく視聴した。しかしドラマとしての出来がどうかと言えば、繰り返しの展開が多く、変化には乏しかった気がする。ステレオタイプと言っていいかもしれない。それも朝ドラの特徴であることは承知しているが。


 前半の頃、糸井重里が『まんぷく』のキーワードを「信じる」だと書いていた。萬平・福子の夫婦の絆が一番だろうが、周囲の者もその熱量に引き寄せられるように「信じる」力を高めてゆく。それに対照的な存在なのが福子の母と友人である世良。二人の言動が香辛料となり結果的に「信じる」が強調される形だ。


 ただ、前半の進駐軍のような強力な敵がその後あまり現れなかった。ゆえに成功物語が平凡に映った気がする。ここ数年見続けていて残念なのは長丁場の着地のさせ方だ。残り数回に、期待する高揚感が描かれるか。さて、先日『あまちゃん』前半のみの再放送を懐かしく観た。そしてあの頃のある感情を思い出した。


 震災の翌々年の放送、舞台が三陸、物語の始まりが2008年だったこともあり、脚本の宮藤官九郎があの震災をどう取り入れるかが話題になっていた。結局、直接的に災害を描かないが、展開の大きなきっかけとなる形をとった。あの時、当日の回を迎えるまで少し心が騒めいていた日々が続いていたことを思い出したのだった。


 登場する人物たちへの思い入れがあったのだろう。この人たちもあの津波を受けるのだろうかと心配になった。ドタバタ感のあるドラマだっただけに余計考えたのかもしれない。キャラクターへの共感とともに事実の重みが残っていた要素が大きい。視聴者とは勝手なもので、自分の中の「本当」しか心配していない。

とりあえずのうれしさを愛でよう

2019年03月25日 | 読書
 「食堂」と何気なく使うが、よくよく眺めると「」とは大袈裟に思えてくる。講堂、公会堂…堂々なんて語もあるほどだからね。堂は「土台の上に高く作った建物」を表し、神仏との関わりも深い。広辞苑によると、そもそも「ジキドウ」と読み、寺院の食堂を指していて意味が拡大した。食は神聖なものとも言える。


2019読了31
 『食堂つばめ② 明日へのピクニック』(矢崎存美 ハルキ文庫)


 3年前に読んだ本の続編。臨死体験をした者が足を踏み入れられる「街」にある食堂が舞台。何らかの理由で死線をさまよう者がそこを訪れる形になるわけだが、食事や食にまつわることを思い出しながら「蘇る」ことが基本の流れだ。ただ今回は、生に戻らず死にゆく者や戻っても臨死体験を覚えている者も出てきた。


 「食堂」の存在意義をこう語った箇所が面白い。「この街に来た人を生き返らすためにだよ。生きることを思い出すためには、食べることが一番わかりやすくて効果的なんだ」。食べていることは確実に生きていることだ。妙に納得させられる。食を疎かにしないとは、美食やグルメと称される行動とはまた別次元である。


 「おいしいものを食べると、とりあえずうれしい。」…この何気ない一言は意味深い。そもそも誰であれ、うれしいという感情を常時持ち続けているわけではない。「とりあえず」のうれしさが必ずあること、そして多くあることは、人生の幸せを形作る材料としてかなり高いと言えよう。食事の秘めている可能性を想う。


 食堂の女主人は「その人なりに人生を全うした人は無理には止めません」と語る。人生の全うには人それぞれの形があるが、よく「最後の晩餐」が話題になるように、食が大きな支えであるのは間違いない。そして味を決める最終的な要素はどこで関わるにせよ「人」であると、改めて感じさせてくれた物語だった。

圏外思考宣言その3

2019年03月24日 | 読書
―――どんなものにも『役割』と『詩』がある

2019読了30
 『圏外へ』(吉田篤弘  小学館文庫)



 数年前まで多用していた言葉の一つに「当事者性」があった。様々な組織や業務について検討を求められることが多く、世代的にもそうした会に携わることが増えていた。その中でプランやアイデアを提示する側に立つとき、ずいぶんと「当事者性を持って」とアピールした気がする。それは誰に向けたのだったか。


 言うまでもなく、圏外ではなく圏内にいる人たちである。自分の願いや見通しを明らかにしながら考えて、決断してくれるように求めた。しかし今考えると難しい話だ。例えばある特定の活動について検討していく場合であれば、そこにある「役割」をどうするか議論はできても、「」について語り合う余裕はない。


 「」とは役立たないものだが、心の中に張り巡らされたり、溜まっていったりして、気持ちに寄り添ってくれる微細なものとでも表現しておこうか。実は皆それぞれ持ち合わせているが、表立って口にしたりしないだろう。そういった部分をムダ、非効率と切り捨ててしまうことによって、逆に失うものはないのか。


 圏外から見つめると、意外にそんな全体像を捉えられたりする。だから、よく改革に必要な人材として「よそ者、若者、馬鹿者」が挙げられるのかもしれない。つまりは圏に収まらない者としての典型だからである。地域の自然、文化等の良さを口にする時も、役割だけでは語られないことは誰しも知っているだろう。


 「圏」という語は捉え方によって大きくも小さくもなる。人間が物理的に脱け出せない圏以外であれば、様々に自分を取り巻く圏を柔軟に行き来したい。つまり圏外思考とは、圏を見渡しながら立ち位置を確かめ、生の充実を図ることだ。見えづらい圏の存在を指摘してくれる他者の存在も不可欠だ。一歩踏み出そう。

圏外思考宣言その2

2019年03月23日 | 読書
 「私はいま圏外にいる。この小気味良さである

2019読了30
 『圏外へ』(吉田篤弘  小学館文庫)



 あれは平成16年度だから今から15年前、秋田県の教職員広域人事交流が本格化した(そして今その実態は見事に鎮まった)。その記念すべき(笑)節目に「圏外」異動を言い渡された。実際は二十数キロしか離れない完全な通勤圏内ではあったのだが、勤務や教育を取り巻く片々のことを、明らかに「圏外」と意識した。


 自分にとっては当時も現在も貴重な経験と思えている。些細な点だが今まで普通に感じていたことが否定される現実、そして何故私たちはこんな小さな圏に囚われているのかという疑問…その中でも比較的自由に事を成したのは、鈍感さとともに、ある意味で縛りの解かれた解放感が後押ししてくれたのかもしれない。


 ここで語った圏とは行政上の圏に近い。ただそれは同時に心理的な圏と重なっていた。しかし、よくよく考えると瑣末な事とは言え、交流人事とはある意図を持った圏の拡大ということが出来よう。一律化、平準化を狙う。情報化の進展が後押しをした。実は圏外に出たわけではなく、より広い圏の意識の強制だった。


 さて、携帯端末が象徴していることは大きい。全てがそれで操作される世の中に近づきつつある。多くの便利なものがそうであるように、使っているつもりが使われている状況に陥っていないか。自分と他をつなぐのではなく、心身をぐるぐる巻きしている鎖のような存在になっていないか。極端な話と笑えるのか。


 昔のように頻繁に圏外サインが表示される時代ではない。しかし脱出を求めるなら、スイッチ一つで可能だ。この一節は、生きている現実は圏に縛られない空間、時間にあることを意味している。「世間にも世俗にも世界にも追われることなく、しかし、それでいながら、しっかりとこの世の地図上の現実に立っている

イチローを、聴かないのか。

2019年03月22日 | 読書
 と某放送局のキャッチコピーを真似しながら…。

 昨夜のイチロー引退のニュースに驚いた。
 ただ考えてみれば、日本人ファンにとってはいい花道だったとも思える。

 イチローの名言のひとつに「結局、言葉とは『何を言うか』ではなく『誰が言うか』に尽きる。その『誰が』に値する生き方をしたい」がある。

 引退会見が書き起こされていたので、拾ってみた。

 似ている言葉を語る人は少なくないだろうけれど、Volume.155としてイチローが語ったことを心に留めておきたい。


◆子供たちへのメッセージ

「自分が熱中できるもの、夢中になれるものを見つけられれば、それに向かってエネルギーを注げるので。そういうものを早く見つけてほしいなと思います。それが見つかれば、自分の前に立ちはだかる壁に向かっていける。向かうことができると思うんですね。」


◆ファンの存在が生み出す

「ある時までは自分のためにプレーすることがチームのためにもなるし、見てくれている人も喜んでくれるかなと思っていたんですけど、ニューヨークに行った後くらいからですかね、人に喜んでもらえることが一番の喜びに変わってきたんですね。その点でファンの存在なくしては自分のエネルギーは全く生まれないと言ってもいいと思います」


◆はかりは自分の中にある

「あくまでも、はかりは自分の中にある。それで自分なりにはかりを使いながら、自分の限界を見ながら、ちょっと越えていくということを繰り返していく。そうすると、いつの日からかこんな自分になっているんだ、という状態になって。だから少しずつの積み重ねが、それでしか自分を越えていけないと思うんですよね。一気に高みに行こうとすると、今の自分の状態とギャップがありすぎて、それは続けられないと僕は考えているので、地道に進むしかない」


◆遠回りして自分に出会う

「進むだけではないですね。後退もしながら、ある時は後退しかしない時期もあると思うので。でも、自分がやると決めたことを信じてやっていく。でもそれは正解とは限らないですよね。間違ったことを続けてしまっていることもあるんですけど、でもそうやって遠回りすることでしか、本当の自分に出会えないというか、そんな気がしているので。」


◆頭を使う野球を

「本来は野球というのは……ダメだ、これ言うとなんか問題になりそうだな。問題になりそうだな。頭を使わなきゃできない競技なんですよ、本来は。でもそうじゃなくなってきているのがどうも気持ち悪くて。ベースボール、野球の発祥はアメリカですから。その野球がそうなってきているということに危機感を持っている人って結構いると思うんですよね。だから、日本の野球がアメリカの野球に追従する必要なんてまったくなくて、やっぱり日本の野球は頭を使う面白い野球であってほしいなと思います。」


◆体験が支えになる

「外国人になったことで、人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんですよね。この体験というのは、本を読んだり、情報を取ることはできたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので。孤独を感じて苦しんだことは多々ありました。ありましたけど、その体験は未来の自分にとって大きな支えになるんだろうと、今は思います。だから、辛いこと、しんどいことから逃げたいと思うのは当然のことなんですけど、でもエネルギーのある元気なときにそれに立ち向かっていく、そのことはすごく人として重要なことなのではないかなと感じています」