すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

感染するのは病気だけではない

2020年03月30日 | 雑記帳
 新年度に向けての打ち合わせを持った。年度替わりの確認や新たな分担を話し合ったが、自分の用意する資料をつくるために以前のデータを見直してみた。服務ということに関して、図化を試みたときがあり懐かしく見入った。「激しく移り変わる社会状況のなかで」と題して、私達を取り巻く背景を4点挙げている。

・ プライバシー優先、公共心の衰退
・ 地域や仕事による結びつきの弱体化
・ 既得権益の是正と新しい格差
・ 価値観、職業倫理の変質



 以前から言われ続けてきた事柄であり、改めて眺め変わらず同じだという思いと、新展開を見せていると感じるようなこともある。これらの要素がからまりあって「閉塞感・不安感の拡大」があり、それが公的な仕事に向けられる目の厳しさにつながる。厳しさは当然の成り行きであり、受けとめるタフさが必要なのだ。


 そして、「閉塞感・不安感」といったとき、どうしても感染症拡大のことが思い浮かぶ。現状では明後日から通常にもどることになるが、明日またどうなるか展開を読めない。この感覚は自然災害とは違っていて、今までにないものだ。『FACTFULNESS』が、将来的危機の一番に挙げたことを改めて納得する。


 頻繁に流れるニュースやネット情報を「見過ぎない」ことも、平静を保つには有効だろう。しかし信頼をベースに有益な情報を得ることはもっと大事だ。日本赤十字社が載せた「新型コロナウイルスの3つの顔を知ろう!~負のスパイラルを断ち切るために~」に強く共感した。感染しているのは、病気だけではない。


 病気以外に「不安と恐れ」そして「嫌悪・偏見・差別」が感染していく。もはや対岸の火事で収まらないことは誰の目にも明らかで、冷静な言動こそが求められる。有名人の死により動揺が拡がり人々の意識も変化するかもしれない。その時にしっかり心を見つめるためのワクチンになる。FBにもリンクを貼った。学びたい。






信じて食べての良し悪し

2020年03月29日 | 雑記帳
 できれば穏便に着地させたい災禍である。しかし地方に居ても状況がきつくなることも予想されるし、何はともあれ栄養をつけて免疫力強化!をテーマに小旅行したのだった。今だとネットを通じての事前情報収集は必須で、評判をある程度信頼して、食や泊のことを決めるのは一般的だ。今回も抜かりはなかった。


 三陸の海の幸に舌鼓をうって英気を養うことが目的だ。昼食は陸前高田市。無類の牡蠣好きなので本来なら夕食で堪能したいところだが、今回はランチなのでやや控えめに蒸し牡蠣、フライ、グラタンで済ました。大ぶり、熱々のフライが美味い。評判通りのお店であった。かぶりついてからの写真となってしまった。



 海辺に建つ創業85年というお宿は、震災被害に遭ったがその翌年正月から営業を再開したらしい。総12室という規模で、中高年にはちょうどいいと思った。部屋に置かれた施設案内書の表紙に、なっなんと日本一有名な詩人による折句の詩があるではないか。かの方もお泊りになったのだろうか。しみじみとする。




 この宿での食事のねらいは、家人ご希望のフカヒレである。コラーゲンが欲しくなるお年頃ということか。旅行サイトに載っていた宿のアピールも口コミもよかった。そしてコースの後半にお出ましになった、そのフカヒレの姿煮は…流行りの「自分史上一番」という語を使ってしまうほど、迫力がある代物だった。



 お肌がブルルンとなったかはさておき、翌日は多少の土産物を買いつつ帰路につく。経路のある市で立ち寄りたい蕎麦屋があった。そこも評判では「超人気店」「ハマる」といった語が並んでおり、平日にも関わらず駐車場は満杯であった。回転が速く少しの待ち時間しかなかったが、出てきた蕎麦は…。最後にがっかり。好みは様々だろうけど安易に信じてはいけないと、また勉強になりました。

構えを持った生き方を学ぶ

2020年03月28日 | 読書
 今週初めから『人を助けるすんごい仕組み』(ダイヤモンド社)という震災の翌年に出た本を読んでいた。著者の西條剛央氏についてネットを使った学習のことで見かけてたどっていったら、「ほぼ日」につながったりして興味が湧いたので買い求めてみた。「構造構成主義」の研究者というが、まさに「行動」の人だった。


 この本を携えながら、週末に三陸・気仙沼へ年度末家族慰安旅行(笑)。気仙沼へは震災翌年から意識的に出向き、わずかばかりの買い物支援をしている。ここ2,3年ご無沙汰していたので、ずいぶん整備は進んでいると感じた。昨年建てられた「震災遺構・伝承館」も見学した。「忘れない」ことは大事だと改めて思う。


 どうしても学校を取り巻く状況に目が向く。苦難を乗り越えて期日遅れで卒業式を行った映像が印象深い。しかし実際出来なかった学校も多かったはずだ。今の感染による状況と考え合わせると、結局この時代の災禍が自然災害と感染症流行という二つにあることが、ここ十年で明確になったというべきではないか。


 備えという以上に、構えを持った生き方が必要になる。『人を助ける~~』で最終的に強調されるのは「問いの立て方」だった。それも単純な形ではなく、目前の事象の意味や自分の心の底に光を当てるような問いである。例えば「緊急事態宣言の是非」ではなく「宣言下における問題抑制のあり方は」となるだろうか。



 構造構成主義の何たるかはまだ理解できないが、「何にでも通用する『原理』」の志向は「状況」と「目的」を考えることに尽きるようだ。情報に振り回されがちな現況。しかし目的を忘れてはいけない。そうすれば何かしら「方法」が導き出せる。置かれた場で為すべきことを為そうと、穏やかな海を眺めて思った。

穴のあいた季節に考える

2020年03月26日 | 教育ノート
 今の災禍により卒業式が出来なかったり、縮小されたりしたことが全国共通なので、「ずっと経ってから、2020年春の卒業生だったよと言うと(同じ境遇の人と)仲良くなれるかもしれない」とTVバラエティで発言した若い子がいた。そんなふうに振り返られたら幸せだろう。もちろんこれ以上の拡がりは望まないが…。


 さて、私ぐらいの世代を念頭に置くと、個人的に大学入試で高校の卒業式は出ていないし、大学の式にも参加した記憶がない。周囲もそうだった。それでも小学校や中学校はやはり別だ。やや細かい場面や練習で覚えていることもある。教員経験者としては、その経験の価値は換えがたいという思いはずっと持ってきた。


 卒業担任は4度しか経験がない。その時々で思いは異なったが「卒業式は集大成」という気持ちに変わりはなかった。大半の教員がそうだと思う。小学生の場合、儀式という行事にいかに正対できるか、姿勢・発声・歩き方…緊張する場をくぐり抜ける成長を求めた。意識して参集する通過儀礼の始まりとも思える。


 メインは「呼びかけ」だろう。ただ、改めて客観視すれば、それが漫才のネタにもなるようなステレオタイプが多い。しかしその同様さは、学校教育が安定した基盤で着実に価値のあることを積み上げることが出来た証左でもあるだろう。今回突発的と言える事態ですっぽり抜けたような穴で、関係者はどう考えたか。


 「○○は本当に必要だったのか」という問いは浮かぶかもしれない。こういう機会にこそ真剣に考えるべきだ。つまり、子どもにとってこんな価値があると明確にすることだ。「教室で授業を!」と考える者がいても当然だ。腹を割って話し合いをし、判断し、揃って実践するからこそ、全ての活動が価値を持つのだ。

独り視聴者委員会~弥生篇

2020年03月25日 | 雑記帳
 ドラマや生中継以外は民放をあまり見なくなっているなあと思いつつ、今月もNHK中心に面白かった番組などをピックアップしてみる。


 『プロフェッショナル 仕事の流儀』に靴磨き職人が登場した。都会ではまだその仕事があると知っているが、この方はお店を構えている。なんとワールドチャンピオンだ。職人と心底呼べるいくつかのジャンルがあるが、映像からもその技術が伝わってきた。代金一足4000円にも驚く。その価値をどこで知るか。


 足元を大事に、とよく言われる。比喩ではなく、身につけるものに気を遣うことは、ある面精神に働きかけるからだ。特に靴を挙げる人は多いかもしれない。装身具等には興味をずっと持てずにきたが、意味は分かる。「磨く」という具体的な動きが心に及ぼす影響は案外大きい。その集中と繰り返しが呼び起すものは…。


 深夜『AI美空ひばり あなたはどう思いますか』という番組があった。昨年9月にそのドキュメントも観ていた。そして紅白に登場し賛否が分かれた反応があることも知っていた。それを受けた特集である。自然な流れと受けとめる者、冒涜ではないかと首を傾げる者、様々な感情や思考が渦巻いている内容だった。


 AIの進歩は留まらない。どう向き合っていくかを常に意識し、顕在化していく必要がある。一番焦点化されたのは台詞の箇所だった。「死者」が語りかけることの意味とは何か。受けとめる側の感情が揺れ動かされ、何かに誘導されることへの危惧…。全て人間の行為に違いないが、「情報」だけで「人」は成立しない


 その意味で、『ガッテン!』が研究者SPと名づけ火災予防、食虫微生物、入れ歯製作の専門家を取り上げたことは、生身の人間がクローズアップされていた。自ら身体をはって実証する精神を持ち続ける研究者たちを見ていると、いくらAIが進化しても決して持ちえない「命」の素晴らしさをつくづく感じてしまう。



今世紀初、体温を測る

2020年03月24日 | 雑記帳
 体温を測った記憶は…ああここ20年はないなあ、もしかして今世紀初か!と思いつつ、受付の方から差し出された体温計を受け取り、腋に挟んだ。かかり付けの医院へ、服用している生活習慣病関連や花粉症の薬をもらうために出向いたら、風邪症状や二週間以内の県外への旅行の有無について訊かれたのだった。


 マスクをつけたまま、受診してくれとも言われた。コロナウィルス拡散防止は、こんな小さな医院でも徹底しなくてはいけないということか。2009年の新型インフルの時は、待合室の座席指定だったことを思い出した。しかし、あの時より厳密になっている。TV等の報道も比べものにならないほど「縛り」を感じる。


 社会を守るための様々な措置に関して常識は持っているつもりである。ただ、大きな迷惑がかからない程度の判断は自分でするべきだろう。例えば、このおよそ20年間、何度も風邪はひいたが熱は測らなかった。その訳は「体温は測ってもよくなるものではない」から。笑っちゃう理由だが、それなりに考えていた?


 実は「熱が高い。○度もある」と知るとかえって参ってしまうという、情けないことなのだ。ただ、それだけ自分の精神面の脆さを知っているという冷静さもあるし、そもそもそんな判断が出来る程度の不調なのだ。「とりあえず風邪の引き初めには葛根湯」と続けてきた習慣に沿うことは、自分を守ることではないか。


 いや、もう一つ思い出した。私はちょっとしたことで熱が上がりやすい体質ではなかったか。その改善を図る意味でも、自らを「微熱中年」(松本隆フリークなので「微熱少年」をもじった)と称し「熱」を持っている者がアクティブと勝手に決めつけたかったのだ…さて、ピピッとなった体温計の表示は「35.5℃」えっ!

読解と読書のやさしくない関係

2020年03月23日 | 教育ノート
 作家などがエッセイで、自作の小説や論考が大学入試の読解問題に取り上げられていて、その設問に対して所感を述べる(たいていは正解に対する疑問)ことがよくある。詳しい中身まで書いている場合が少ないので、ナルホドだから読解というのは難しいもんだね…といった結論になりがちのような気がする。


 『ちくま』4月号では、詩人最果タヒが連載でそのことを取り上げている。自分の書いたエッセイが入試に出題され、「あんまりに自分の文章が難しくて」と面白いことを語っている。著者と出題者の観点のずれはよく指摘されることだが、その相違を見事に言い切った一節があった。

 国語の読解問題とは結局は、「この文章が伝えようとしていること」とか「読み手が受け止めること」を問うのではなく、とことん「何が書かれていて、何が書かれていないか」を問うものであり、契約書をちゃんと勘違いせずに読めるか的な、そういう「正確な読み」を試験しているのだろうなと思う。P60


 確かにその通りと思いつつ、そういえば30年も昔、初めて3年生を担任して、最初の物語文の授業を思い出す。「想像の翼を広げる、豊かな読み」の子のお喋りを「そんなことはどこにも書いていない」と否定し、涙ぐませた未熟な教員だった。分析批評に手を出し始め、限定的で幅も余裕もない授業をしていたなあ。


 先日読んだ『本を読めなくなった人の~~』にも記述があったが、読書において「正しい読み」という視点は、実は一通りではない。個人に帰すると言っていいだろう。文章から読み取れるのはあくまで限定的であり、それを最果はこんなふうに記している。

 読書とは自分だけの正しさを見つける行為で、国語の試験は間違えないことこそが目的なのではないかなあ。


 わが師が言うところの「妥当さ」をどのレベルまで突き詰めていくか。読解の授業づくりはそこを一つの起点に置く必要がある。読解と読書は安易に結びつかないことを、今さらながら痛感する。

背景なき背景という場所

2020年03月22日 | 雑記帳
 今回の「無観客」の影響は経済的な部分だけでなく、スポーツの観方も少し変えてしまったようだ。野球もバスケもそうした試合が行われていたが、大相撲ほど「物足りなさ」を感じたものはなかった。やはりプロスポーツ中継において、我々が目にするのは競技だけでなく「興行」全体なんだなあと改めて考える。


 国技館ほどではないが、大阪体育館であってもテレビ中継には、いわゆる「砂被り」席には常連さんも多く、「また来てる(いいなあ)」と思うことが習慣になっていた。それ以上に、面白い取組や熱戦に沸く場内の様子、つまり客の動作、表情、声などが、力士の勝負にとってかけがえのない「背景」であったと思う。


 さて千秋楽を迎え、本当に久しぶりの横綱相星決戦といういわば番付通りの形となった。休場者もいるにはいたが少なく、理由の一つに感染防止対策による協会全体の緊張感、摂生にあったことは否めないだろう。皮肉な話とも言える。だから普通の状態になれば「波乱」がある。そしてそれが「見物(みもの)」になる。


 無観客にも長所があると盛んにアピールされたのは「音が響く」ことだった。それだけでも特徴になった。それより力士本人の精神面への影響を考えると、プレッシャーに弱い者を後押ししたのではないか。ただ、人前に全身を曝してぶつかり合う競技者は、多数の視線や歓声に奮起する気概は必須と考えるのだが。


 観客という背景はなかったが、無観客という背景を味方に出来たかどうかが一つのポイントだった。さて、ここ数年見続けてきて若手の台頭が感じられるようになり、見応えも増してきた。見栄えはしない今場所ではあったが、学校が休みなので少しは子どもたちも見たかな。ファンが増えればいいなと素直に思う。

何度も対話したくなる本

2020年03月21日 | 読書
 勤め先である図書館に並べられている本を読み、買って手元に置きたいと思ったのは、これで2冊目となる。最初は『最初の質問』(詩・長田弘 絵・いせひでこ 講談社)という絵本。そして、今度はこんな題名である。

 【本を読めなくなった人のための読書論】(若松英輔 亜紀書房)


 初めて目にする著者だ。奥付をみると批評家であり随筆家であり、大学教授でもある。詩集も出している。多才な方なのだろう。それにしても、図書館に置く一冊として、意外性のある、いやひねりのある書名だ。手にとってみたくなった。上下に余白を十分取った体裁。行間も広い。「読めなくなった人」にやさしい


 実は自分も「読めなくなった」感覚が大きくなっている。それは目だけでなく、頭の老化なのかなとぼんやり思っている。以前も書いたが、前世紀末(笑)の99年に「99冊を読む」と宣言し、一年だけを除いて年間100冊以上読破してきた。しかしここに来て、そんな読み方が今の自分にふさわしいか、迷いが出ている。


 第一章「待つ読書」の冒頭は「読書は対話」の項だ。それ自体はよく言われていることだが、ここに記された「対話であるための条件」には、考えさせられる。四つが掲げられていた。

・偶然であること
・突然に起こること
・一回しか起きない
・持続的に深化する


 初め教育書を中心に読み、次第に半数ほどになり、そして今は全くジャンルなしの乱読になっている。この読書は「対話」となり得ていたか、そしてなり得ているか。自分の心を探ってみたくなった。実用的に読んだことが多い。著者の内面を探ろうとした時期もある。もちろん、楽しむだけのページめくりもあった。


 結局「読むとは何か」という問いに突き当たる。格好つけて言えば、そのために読んでいる。その答を探すために多くの本を手にとったのではなかったか。そして正解はどうやら、本の側にあるのではなく、読み手である自分の側にあることに気づく。何度も対話したくなるような本と出会えたことの幸せは大きい。

定年後を点検してみる

2020年03月19日 | 読書
 学校を退職する前は、ごく普通に興味があっていろいろと読んだのだが…いつの間にか目に留まらなくなり、4年も過ぎようとしている。以前の「学習成果」に自信があるわけではないのだが、まあ自然といえば自然か。そう思っているとき、ふと書棚に「ビンボー」というカタカナ文字を見つけ、思わず手に取った。

 【ビンボーでも楽しい定年後】(森永卓郎  中公新書ラクレ)


 非常勤ながら仕事もしているし、中身も含めて「楽しい」と言える。まあそれでOKで、何もこんな本を読む必要はないのだが、これはある意味の自己点検。著者の書く経済や暮らしの話はわかりやすく、参考にしてきたつもりなので、ここらでもう一度照らし合わせてみることも無意味ではないだろう。さて、どうか。


 第一章「老後生活の展望」が半分近い分量だ。年金や住居、相続や健康など総論的な内容だ。埼玉在住の著者と地方居住者を簡単に比較できないが、外交や財政の動き、少子高齢化に伴う国勢は共通していて、状況の悪化は避けられない。いかに自己防衛するかが強調される。自分に引き寄せて、特に留意したいのは…。


 一つは、モノ・カネの管理、記録化を早くということだ。相続や遺品などと考えることを無意識に避けているむきもあり、反省させられた。もう一つは当然だが健康管理。長期的な見通しをつくる核なのだと痛感させられる。老後状態は進行中であり、その自覚なしに安穏な将来像を描いているから、手遅れになる。


 第二章は「資産運用」、第三章は「節約」。資産運用をしない限り目減りしていく現実は理解できる。が、関心がない。その点「節約」は考えているつもりでポイント利用等も結構マメだ。しかしそうした細々も根は一つで、節税、優待、割引、小遣い稼ぎなど結局興味のもてる何かに特化し、集中することなら出来る。


 第四章は「生きがいづくり」。まさにここが「楽しい」のメインだ。コレクション、恋、旅、アート、自然…ジャンルに関わらず、著者の経験、また情報収集力が発揮されている。身近な写真分野の手がかりを得て嬉しい。結論は「とりあえず何か始める。駄目ならまた始める。失うものは何もない」。点検は有意義だ。