すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

脳はNO!と言う「共感」

2019年11月30日 | 読書
 正直「同情」にあまり価値がないように感じている自分がいる。何故だろう。あの有名なTVドラマの決め台詞「同情するなら金をくれ!」に影響されたか。それに対して、「共感」はなんとなく好印象だ。教育の場でもかなり肯定的に使われていた。使う個々に対してはともかく、語そのものの疑問はあまり目にしない。


2019読了104
『脳はなにげに不公平』(池谷裕二  朝日文庫)



 脳が独立している限り、他人と感覚を共有することは無理である。ネズミを使った研究において接続が成功した例も載っているが、それはそれとして人間には、例えば痛がって我慢している他者の姿を見たときに、我が身の痛みとして感じる回路があるそうだ。脳の投影機能による疑似体験が「共感」と言えるらしい。


 著者はそれを踏まえて、「これだけでは社会的価値は生まれません」と語る。そして「本当に重要なことは『痛そう』と共感することではなく、『助けてあげたい』という慈愛的な同情心へと変化することです」とし、共感を「閉じた感覚」、同情は「努力、つまり利他的な行為」と結論付ける。二語のイメージが逆転した。


 そもそも広辞苑においても、「同情」の語の使用例として次の文章がある。「北村透谷、慈善事業の進歩を望む『慈善は恵与のみを意味せず、同情を以って真目的となすなり』」実際の行動を生む心情ゆえに価値が高いだけでなく、行動以上にその心情を持つということ自体の価値を述べている。「金」とは比較できないが…


 語意のとらえ方の相違、感情の濃淡ではないと解釈する。「共感ならば動物にもできますが、同情はヒトならではの行動といってよいでしょう」という著者の言を噛み締めれば、かの「同情するなら金をくれ!」とは同情は行為を伴う感覚であることを徹底する素晴らしい箴言になる。そして「同情は快感」なのである。

脳はNO!と言う「自己決定」

2019年11月29日 | 読書
 「選択」が教育のキーワードの一つとして叫ばれるようになってから、もうかなり年月が経つ。自主性伸長や個性尊重をよしと見て、自己決定(あげくは自己責任)を重要視した考え方だ。生活の場の拡大による必然性もある。よって教育も少し幅の広がりを持ち、いくらかそうした力も高まったようには見えるのだが…。


2019読了104
『脳はなにげに不公平』(池谷裕二  朝日文庫)



 かなり古臭い絵だが、教師が正答を求めて「ほかに意見は」とか「自分の考えを持って」とか言う場合はあった。また、それとは違う意味で「自分なりの意見をもつことは大切」という考えは、結構言い古されてきたのではないか。だから、現実はどうあれ、今多くの人は自分で判断することに不信感は抱いていない。


 しかし「自分が下す『判断』はとても曖昧」の項に書かれてあることは、それを覆す。米国の男女を対象にした会話デートの方法によって、予想と評価に関する研究をした結果、自分の主観の曖昧さは見事に証明された。つまり人は、「他人の判断をあたかも『自分自身の意見』であるかのように」取り入れている。


 これは無意識のうちに行われることで、自分はそうでないと考える人にも当てはまる。著者はこう言い切る。「私たちの知性は、知らず知らずのうちに他人の強い影響下に置かれた『傀儡知』です」。嗜好、評価、見積もりなど仕事や生活上の様々な点で関与していると認めてしまおう。そうすれば、楽になるではないか。


 自己決定とは言うが、人間がどうでき上がっているか考えると、ほとんどが「借り物」だ。ふと、朝ドラでイッセー尾形の演ずる絵付師が口癖のように言う「ええよぉ」を思い出す。包容力という名の周囲迎合型とも言える。しかしそれは、もしかしたら自分の一番の芯を守るための、利口な生き方ではないかと思えてきた。

脳はNO!と言う「平等」

2019年11月28日 | 読書
 SNSによる事件がまた世間を騒がせている。そうはいってもネット普及は留まる所を知らない。こんなふうに書く自分も含めて、それを脳科学的に説明すれば「自分の話をすることは快感」という生理に理由があるらしい。読書から得たことを面白がる個は肥大していく一方か。嫌悪感のある話でもそうなのだから。

2019読了104
『脳はなにげに不公平』(池谷裕二  朝日文庫)



 「平等」「公平」を、教師としての矜持のように考えていたのは、いつ頃までだったろうか。今振り返ると技能の足りなさを棚上げした言い訳に過ぎない。それはさておき、平等は大事だ、格差が広がるのは駄目、税金は金持ちから多く取れ…などと今も普通に思っている。そんな凡人の脳には刺激的な第一稿だった。


 その題は「不平等な世界のほうが安定する」。えっ、何と思う。これは脳内の組織や回路の話にとどまらず、「安定」を基準に考えると、我々人間社会にも当てはまるかもしれないという。「平等さを突き詰めると不平等になるのは、自然なプロセス」という統計学的事実があり「ボルツマン分布」として紹介されている。


 お金のトレードを繰り返す実験において所持金の変化をみた結果である。ルールに不平等性がなくとも、一部の大金持ちと多数の貧乏人が出現する。これはよく知られているらしいが、人はそれでも平等や民主主義を相変わらず理想とする。だから争いが起き、結果的には不安定さが増すようになる。しかし簡単には…。

 
 「不平等な世界」とは今の長期政権を指すのか、と揶揄の一言も書きたくなる。平等を求めた暴力的な諍いが、今日も世界のどこかで起こっていることを考えれば、確かに安定の成立には不平等さを受け入れる素直さが不可欠だ。江戸時代もそうだしね…。書いていて平等・公平がどこか口先の自分に気づき、嫌になる。

待ち遠しいことの姿を描く

2019年11月27日 | 雑記帳
 とあるボランティアグループに所属していて、今年はその会報を編集する役割を仰せつかっている。
 毎度、短いあとがきめいた文章を添えているが、来月号に向けてこんなことを書いてみた。

・・・・・・・

 あっという間に令和元年も最終月を迎えました。
 さて「高齢になると時間の経過が早く感じる」ということは、よく耳にする言説です。10歳と60歳を比べた「人生の比率」など心理学的説明はいくつかあるようですが、その一つに、子どもには待ち遠しい行事が多く、時間経過に注意を向ける回数が多いという論もあるようです。
 年末年始などは特にそう意識することが多いかもしれません。とすれば、私たちも「待ち遠しい」を増やすことによって、ゆっくりと時間を認識でき、それが日々の充実につながるとも言えそうです。
 いかがでしょう。今、あなたには待ち遠しいことがありますか。

・・・・・・・

 さて、そういった自分は…と胸の内を見つめれば、今はストレートにパッと待ち遠しいことが出てこない。
 教員時代はやはり長期休業が待ち遠しかったりした。ただそれは今思っても、のんびり休みたい気持ちだったことは歴然としている。
 もちろん、実践華やかかりし頃(笑)は、様々な研究会に参加し明日の授業が待ち遠しいと思ったこともある。発表会や大会に向けて精力を傾けていたときも当てはまるだろう。
 もっと遡れば、学生時代はコンサートという晴れの舞台だったろうか。
 それ以前の少年期は、やはりいろいろと数多くあったに違いない。


 その中身をたどってみれば、活力が向かう対象は、与えられたことからつくりだしたことへ変わっている。そして、それは活力の低下とともに安らぐ心持ちを求めるようになる。自然な流れとも言えるだろう。
 ただ、過度の束縛から逃れられるならば、まだまだつくり出せるのではないか。


 「待ち遠しいこと」の姿は多様である。
 自分の心身が求める時間や空間をしっかりイメージすることによって、その姿は明確になるだろう。
 描いてみるその力を絶やさぬようにしたい。

 
 例えば、来年が待ち遠しいといったとき、具体的に何を描くか。

 その姿に向けて歩むことが一つでもあれば、時間はしっかり認識できる。

八段目、美を求めて歩く

2019年11月26日 | 読書
 『美学』という語を調べると、まず「審美学」といわれたもともとの「美の本質や構造を解明する学問」という意味がある。しかし私達がふだんよく目にする美学は、もう一つの「美についての独特の価値観」(明鏡国語辞典)と解されるだろう。この新書も全くそれであり、著者は「実際的な知恵」とも書いている。


2019読了103
 『老人の美学』(筒井康隆  新潮社)


 この題名からイメージしたことを一つ。「美」の対語としてど真ん中に「老」があるわけではないが、なんとなく雰囲気はある。対語は「醜」であり、老が醜になりやすいことが留意点なのだろう。著者はかつて『銀齢の果て』という小説を書いていて、私も読んだ記憶がある。それは老人版バトルロワイヤルだった。


 「銀齢」とは造語で「銀嶺」から派生させたのだろうが、いい響きである。その場にすくっと立っていられる老齢でありたい。そう願いつつ読むと、心の持ち方のヒントが多様に紹介されている。まず森毅との対談における説「人生忠臣蔵」が面白い。「すべての物ごとの変化の自乗は時間と共に累積する」理論である。


 人生の区切り年齢を、1、4、9、16…と二乗してできる数におく。36歳までが「自分のスタイルを作る時期」、「努力が花開き評価される」のは49歳。その後64歳までは「事件や不始末があった時に頭を下げる役」だというのだ。これらは忠臣蔵の設定と重なり合う。なるほどと笑うしかない63歳の自分である。


 そして、以降81歳までが「老人としての自由をつくり謳歌する時代」だという。忠臣蔵で言えば「山科閑居」。なんと希望の湧く話だろう。しかし、重いのは「累積」していくという設定だ。誰しも過去があり、そこに続く今がある。貫かれている現実の受け止め方に「美」を求めたい。毎朝、新たに道は続いている。

大河から片足抜いてみた

2019年11月25日 | 雑記帳
 この大きな流れのなかにどっぷり浸かってしまったのは、いつだったろうか。もう十年以上は経っているはずだ。そこに身を任せていて支障ないのだが、なんだか流れが速くなったり、少し汚れてきたり、別にここでなくともいいはずだよと内なる声が聞こえてきたり…ということで、AmazonPrime会員止めました。


 気どった書き方をしたけれど、年間3900円払うメリットが正直今の自分にはあまりないと考えた。学校現場に居た頃は「すぐ手に入れたい」という本が結構出てきたので、大きな魅力だった。それ以外では無料ビデオはどうにも観る時間がないし、音楽は他でも代替可能だろうし、都会人向けのサービスは届かない。


 さらに会費が1000円値上げされる。ここに居続ける積極的な理由は見つからない。確かに速さや広さからすれば、他の通販サイトより有利な面が多いようだ。しかし、漫然とサービス利用を続ける環境(あるいは立場)を見直すにはいい機会だ。一冊の本が手元に届くための労働への想像が希薄になっている気もする。


 もちろんたった一つ止めたから何か変化するわけでもない。ただここから多方向に広げたい思いはある。それは絶縁能力を高めていくこと。自分を見失わないための素地になると思う。…そう書きながら、止めた当日にすぐ取り寄せたい本が出てきて、まず覗き込んだのがこの大河サイトだったのは、笑わせる話だ(いや、笑えない話だろう)。

コトバを一つ手前から考える

2019年11月24日 | 雑記帳
 「うっちゃり」…大相撲で久々にこの決まり手を観た。小さい頃は土俵際でよくこの逆転劇があったものだ。この技をうつ力士の身体もしなやかな感じがして、格好良かった。最近の関取の体型ではなかなか無理なのだろう。体重を増やし多量の肉を纏ってぶつかり合う傾向が強い。現実社会とも連動しているようだ。


 「当たり前」…少し前から「当たり前のことを当たり前にする」が学校でも強調されてきたように思う。それは「当たり前のこと」が揺らいできた証拠でもある。しかしこれは「普通」という意味の下に画一化を図りたい意図もあったのではないか。本当の当たり前とはおそらく目に見える事物でなくその精神を言う。


 「こども」…自分の作成した書類が「子ども」と「こども」に分かれていることを指摘され、今さらながら自分のアバウトさに呆れる。ふと手にした雑誌で、司馬遼太郎が「コドモ」とカタカナ書きしている文章に出会った。この意味づけは何か。「幼稚⇒非常識、新鮮」という解釈か。そこに堅固な精神の響きを感じる。


 「意思決定支援」…TVで都内病院に「意思決定支援外来」という科があることを知った。心療内科ではなく、癌宣告患者に対するケアだった。ちなみに辞書に載っているのは、コンピュータシステム(DSS)。治療計画支援はAI活用では無理だろうなとふと思う。感情に寄り添う意思決定は、人の間にしか生まれない

40年経過、もしもしの現状

2019年11月22日 | 雑記帳
 NHKで「もしもし革命」とテーマを掲げた放送があった。すぐに電話だとはわかる。この「オールドメディア」に対する動きが多様に見られるという内容だ。「革命」と呼べるほどかどうかはわからないが、ネットの日常化、AIの進展という状況を考えるとき、電話という手段については、あれこれ考えさせられる。


 今は昔(笑)、私が勤めたへき地の学校で初任の時に「電話のかけ方」という学級活動(当時は学級指導といった)を研究授業として行ったことがある。その地域は、前年に電話の自動化(ダイヤルで直接つながる)がなったばかりだった。取り上げた発想は評価していただいたが、指導主事からこう助言された記憶がある。

 「電話とは、簡潔に用件を話す道具である」

 国語教師でもあるゆえ、当時は納得したものだった。しかし時代は凄まじく変化した。若者たちは家庭の固定電話を使って「深夜の長電話」に興じていた。それからほどなく、ポケベル、PHS、携帯電話…が押し寄せてきた。それらの状況については語るべくもない。今は公衆電話をかけられない者も散見されるという。


 メール、SNS全盛となり、AIを導入した機器が家庭にも浸透しつつある。こうした中、コールセンターという名称が一般的であるように、まだ需要はあり、それを企業イメージの最先端の一つとして考えている例もあった。そのための電話応対の見事さなど、コミュニケーション技能として深く納得させられた。


 解説にもあったが電話とメール等の違いは一言でいうと「感情」(の乗せ方)に尽きるかもしれない。ビジネスでのやり取りでは、それをどう捉えるか、業種によっても企業理念によっても違いがでる。声の持つ力、そして声同士の応対にある良さ、難しさ…振り込め詐欺は上手な?活用法と気づく。こんな現状となる。

 「電話とは、感情を表現しやすい道具である」

慶事実現、乾杯ノ練習

2019年11月21日 | 雑記帳
 ネーミングやキャッチコピーに興味がある。だから、どこへ行っても結構パンフレットなどを手に取ってしまう。先日、県の生涯学習センターのロビーでも目についたものがあった。それは「乾杯ノ練習」。秋田市文化創造交流館プレ事業とある。インパクトが強い。今朝、勤務先BOXにも並んでいることに気づいた。


 乾杯も練習もごく普通の言葉、しかしこれを組み合わせると…。秋田県人ならばわかる。「練習」が何を意味するかというと、宴会における乾杯の前の助走(言い方にカッコつけたが、要は待ちきれなくて飲み始めることだ)を指す。その行為は、厳密には乾杯の練習ではないが、このコピーはそうした場をすぐ連想させた。


 そういう意味をプロジェクト的なことに置き換えると、乾杯は場に集う全員の気持ちを一緒にし高めるための行為だから、その練習をするとはなかなか上手く関連付けた。つまり、該当の交流館開館、実践に向けて、話合ったり試してみたり準備したりする。その先に「乾杯」が待っているというストーリーが描ける。


 折り込まれているB3版のパンフには当然、その練習の中身が記されている。すでに終わったものもあるが、プラン名を見るだけでも楽しい。「目が合った人の真似をする」「無いものねだりフェスティバル」「『なくなった』ものを一緒に探しに行くプロジェクト」面白そうだ。近い場所でやってくれれば出向きたいが…。


 ところで、改めて「乾杯」という熟語を見直すと、「杯を乾かす」という意味だと気づく。もちろん合図の声としての意味もあるが、そもそもは「祝福などの気持ちを込めて、杯の酒を飲み干すこと」だ。乾杯をするからには、その中身は全て消化(完了)とも受け取れる。ちびちびやっていては、慶事は実現できないぞ。

夜更けに教育雑誌を開く

2019年11月20日 | 教育ノート
 久しぶりに教育雑誌に目を通した。学校の職を辞してからそうした機会は一度あったかと思うくらいだ。自分の原稿が載ったので発行元から送付されてきた。先月下旬、夜に電話があり、急遽以前の原稿の使用依頼があった。予定された方が台風被害に遭い亡くなったという事情を知り、一も二も無く承知したのだった。


 それは「マラソン大会の挨拶」がテーマで、自分が定番としている内容であった。ねらいも明確でわかりやすいと、少し自負する気持ちもある。けれど同時に、そうした活動自体が縮小されていることにも気づいている。「あきらめない力を試す」といった面をどのように実践化していくかは、難しい時代になっている。


 さて今どきの雑誌はどうかとめくると、特集は「学級担任制と教科担任制」とあり、これは数年前とあまり変わっているとは言えない。管理職向けの雑誌なので最近の動向が見えると思ったが、マネジメント、危機管理、法規等々大きな変動は感じられなかった。ただ、学校現場の空気感が変化していることは確かだ。


 何年か前に叫ばれていた事が定着してきた時期なのかもしれない。しかしその方向性(勝手に名づければ、かつての「小さな政府」志向をイメージさせる「小さな学校」だ)は、本当に目の前の子どもたちを幸せにするのかという吟味が足りない。少なくとも全国一律に行うこと、そうでないことの区別を明確にすべきだ。


 繰り言は止め学ぶべきを増やそう。「今月の絵ことば」がシンプルで良い。曰く「自分のため 人のためにも 手洗い うがい」。それから連載「この人に学ぶ」で取り上げられた、柳沢吉保に関わる反常識的な見方は新鮮だった。しかし、一番は読書ガイド。池谷裕二教授の『脳はなにげに不公平』面白そう。注文した。