すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

会見中継は見世物か

2020年02月29日 | 雑記帳
 昨日は午後2時から役場に招集されて、今後の教育施設等の動きについて連絡等があった。その後職場に戻って、県知事の会見があるというので、確認のため「美の国あきた」ネットから配信されている中継を観た。ほぼライブで観ることができたが、中身については町単位で話された内容と大きな相違はなかった。


 知事、教育長を真ん中に部長らが計6名並ぶ。県として国の方針に沿う方向性が示された。質問が多かったのは、予想通り教育長に対して休校措置や学童保育に関することだ。質問する取材者のなかには学校現場実態に疎い方もいたようだが、一般向けに伝える側だからあり得るだろう。それにしても、驚いたのは…


 今までこうしたネット配信は町議会中継をよく見ている。しかし「会見」生中継はあったかなあ。Youtubeに限らないだろうが、ライブなのでチャットという形で視聴者の声が画面隅に次々にアップされていく。ある程度知ってはいたが、その文面を横目で追うと、言論の自由とはいえあまりの多様さに呆れてしまう


 発表、応答内容に関しての評価や批判等は三分の一あったろうか。訛がきつくて聞き取りにくいなどは正直な?感想で、伝達としては大事な観点だ。しかし、見た目や身分上のことを揶揄したり、勝手に憶測したり、いわば感情のはけ口として場を利用する者が目立つ。そうした部分だけを楽しんで?参加する輩もいた。


 公開するということはその全てを認めることなのだろう。いわば、内容の如何に関わらず「見世物」になる覚悟が必要だ。一時間近い放映で視聴者が多い時が850人ほどだったか。当然チャットをした者は限られているが、その奥には物凄く多数が居て、むき出しの感情が渦巻いていると想像したら、気分が悪くなった。

昭和期の担任、勝手に語れば

2020年02月28日 | 教育ノート
 前代未聞とはこういう時に使うことを実感する。多少なりとも予想はしていたが、臨時ニュースとして伝えられた「全国一斉休校要請」には、えっと声が出た。40年近く務めた現場では、どんな混乱が起きるのだろう、自分がもし卒業担任だったとしたらどうするだろう…しばらくの間、頭を駆け巡って離れなかった。


 様々な意見や批判を目にするけれど、実際の場にいる者はそんなことより先にやるべきことが山積されている。事務的な手続きに関しても面倒を抱えることが予想される。しかしそれは、他の力を借りたり任せたりして効率的に進めればいい。一番肝心なのは子どもの心構えづくりだ。それは担任にしかできない仕事だ。


 自分なら…あくまで「昭和期の担任」としての夢想だが…「手紙を書く」ことか。もちろん通常時もメッセージは送っていた。しかし今回はその重みに違いが出る。この学年、学級へ願っていたことを少なくとも11ヶ月間は続けてきたわけだから、それとその子の関わりを綴ってみたい。良いことも悪いことも、だ。


 書き出すことによって、生まれる「問い」。おそらくそれはその子に向けられるより自分に向けられる。目を背けず、そして二人が共有できるような表現を練らねばならない。ある面では苦しく辛い情況になろう。しかし子どもに届けたいのは、いつの場合も「問い」だ。もちろん、その子のよさを錬りこんで発したい。


 憧れたM先生の通知表所見は、子を「呼び捨て」で書き、熱い願いに溢れていた。いつか自分もと思いながら一歩も近づけず機会を失った。その無念さが、今こんな勝手な文章を書かせたか。ただ休校によって物理的に十分ある(だろう)時間を、担任である重さや喜びの実感に浸るためには、この策も案外いいかも…。

あまりに真面目な免許講習

2020年02月27日 | 雑記帳
 昨年11月に運転手として免許センターへ行くには行ったが、自分の更新講習は五年ぶり。今回初めて午後の部で受講することになった。「先負」だったし、なんとなく焦らないで、のんびりやろうと決めた。一昨年の違反でゴールドをもらえない悔しさも多少滲ませながら、型通りの手続きを済ませていくことにする。



 午後からの受講、しかもピンク札の一般講習つまり60分。眠気との戦いになるだろうか。講師の事務的なパターン化された口調はやむを得ない。この時間をやり過ごす(いや、学びを充実させる)ためには策が必要だと思いつつ、講師の語りを聞いていて、メモ帳に字句を書きつけていったら、短歌風になっていく。


★昼下がり「ね」を繰り返す口癖の講師を見つつ歌いだす我

 もちろん、学びの充実がテーマなので、運転に即したテーマで考えているわけです。


★高齢者講習の宣告怖しその日は誰にもやってくる

 認知機能状況を測られる日もだんだん近づくのだな。次回の五年後はまだだけれど、その次は対象になる。


★宅配の人手不足を救うため準中型免許は設けられ

 こういう世相というか社会情勢に合わせた改正もあるんだねと改めて納得。


★高速で故障したとき外に出て路上に立ってはいけません

 悲惨な事故もありましたね。どうしようもない一首だけど大事なことです。一番大事なメッセージを最後に。


確実に目的地に着く運転は安全運転だけなのです。

訊かれたらそうと応える一節

2020年02月26日 | 読書
 この四字熟語の意図は何だろうとぼんやり考えながら…

 【冠・婚・葬・祭】(中島京子 ちくま文庫)

 この作家の単行本は読んでいないが、映画になった『小さいおうち』の原作者であることは知っていた。一度、アンソロジーで短編を読んでいた。題名は実用入門書のようだが、「成人式・結婚・葬儀・お盆」というモチーフを並べた小説短編集でもある。自然な筆致が印象的で、それでいてドキッとする一節がある。


 例えば二編目の「この方と、この方」では、かつて結婚の仲介役を積極的にしてきた主人公の女性が、心の中でこんな結論に達しそうになったと書いている。

 「結婚においてもっとも邪魔になるのは、本人の意志である」

 漫才のギャグか、と言えるほどパンチがある。けれど重大な選択において、流れに身を任せる決断が、時に処世術として優れている場合があることを知る者は多い。


 最終話の「最後のお盆」は、廃れゆく実家の整理を兼ねてお盆の行事に家族が集う。地方で深刻な問題となっている過疎や空き家や相続の問題など、背景となる状況は多くの人の共感を呼ぶ。そして、幼い頃に体験したお盆の習わしも、その濃度に差はあれ、懐かしく思い起こされる。ここにも実に沁みる一節があった。

 「お盆に死者が帰ってくるというのは、超常現象でもなにかの比喩でもなくて、まるで同じ動作で繰り返される伝統行事の所作の中に、いまはもう亡くなってしまった人々の面影が立ち現れる、そのことを言うのではないだろうか」

 冠婚葬祭の葬と祭事ばかりが増えていく齢になり、いや世の中全体においてもその傾向が強まっている。そして以前より葬祭が軽いように感じるのは私だけではないだろう。見送る人とどう関わり、何を引き継いだのか、そしてまた何を残せるのか。そうした場で心から語り合えることは、自分がいる証の一つである。

その者、叩いて叱る必要あり

2020年02月25日 | 雑記帳
 Eテレで『すくすく子育て』という番組があることは知っていた。虐待を直接のテーマにするのではなく、「たたく子育て どうすればやめられる」という表現で、そこへ陥らないようにするためのあれこれが放送されていて、見入ってしまった。コメンテイターとして招かれた専門家のお二人がいいことを言っていた。


 「たたく行為は依存性が強い」…これはよくわかる。学校における体罰問題も同様だ。方法として「効果」があると感じやすいし、使う側の感情も治まったりする。大声による叱責も似ていると言えるだろう。今はほとんど見られなくなったとはいえ、昔は多数いたその型の教員たちは、そんなこと考えもしなかった。


 問題に発展しそうな場合の相談が最も重要と思える。そのつながり方のアドバイスもよかった。「助けてくれそうなところに、元気なときにつながっておく」汎用性の高い一言だ。日常の様々なことに当てはまりそうだ。さらに相談できない時に「つらいと口にする」ことも強調された。そう出来る環境の重要さを想う。


 さて、パソコンである文章を打ちながら、youtubeで満島ひかりが歌うカバー曲「ファイト!」(中島みゆき)を聴いていたら、曲つながりでいつしか槇原敬之バージョンになっていた。彼の歌唱スタイルもこの曲に実にマッチする。それにしても、今の状態ではずいぶん皮肉な歌詞となっている…「私の敵は私です


 「闘う君の歌を 闘わない奴が笑うだろう」と唄えば自虐だ。芸能界はそうした類の温床になりやすい。しかしその才能が惜しまれる。依存性を教え諭し、まともな時につながっていて、「つらい」という言葉を受けとめてやる、そんな存在はいなかったか。いや有体に言えば、叩いて叱る人が必要だったのではないか。

クサレタマグラな一日

2020年02月24日 | 雑記帳
 方言の中でも一級品の響きをもつと思う。「くされたまぐら」…朝刊連載の「あきた弁 一期一会」で佐藤稔先生が解説しておられた。ネット上で詳しく展開しているサイトがあるが、先生のずばり特質を捉えた表現に思わず頷く。「旺盛な好奇心と何でもできるという自負心」+「十分な貢献ができるほど役には立たず


 自分にもややそういう傾向がある。このブログで取り立てて触れていなかったのは、その自覚があったからかな…。今日も朝から、そんな状態である。手がけようと決めていたことがあったのだが、FBを開いたら教え子の誕生日告知があり、昔の写真を添付してやれ!と探し方やらデータ処理やらで1時間も使った。


 ようやく、本題のe-Taxに取り掛かる。そう、PCを使っての確定申告である。ちょうど去年の今日、初めて手続きをしてやり終えたことを書いてあった。やはり予想通り、二度目とはいえサクサクやれるはずもなく、証拠書類を確かめながら、ようやく目途がついたのが12時半。家人の分は午後に残してしまった。


 昼食後に休みながら、昨日届いた足裏マッサージ器を使用しながらビデオ視聴など。ところがこのマッサージ器、振動が心地よいのだが音が大きい。評判もチェックしたはずなのに…。では、と切り上げて再び作業して今度は30分ほどで完了。さらにもう一つ、読み聞かせサークルの通信の編集作業が待っていた。


 原稿が午前中送信されてきて揃ったので、ようやく完成させることが出来る。分担されたこの役割もあと一回になった。昨年依頼された時に新人(笑)なのにと思ったが、そこはクサレタマグラで簡単に引き受けバタバタすることもあった。クサレであってもタマグラなりの、もしかしたら「つなぐ」役目はできたかな。

泰然自若の境地、いまだ…

2020年02月23日 | 雑記帳
 身内の用事を済ませたらお昼近かったので、久しぶりにラーメンでも食べようかということになった。先日、TVのグルメ番組で二つの味が楽しめる…のようなことをやっていたので、そう言えば久しくN太郎には行っていないと思い出した。ねらいは、知る人は知っている「だるまラーメン」である。何年ぶりか。



 結構足しげく通っていたが、いつだったか「ヌルイ」と感じてから遠のいた。いつか思い出せない。ああ、このビジュアルは懐かしい。そしてこの背脂加減は不変だ。が、馴染みだった店主の顔は少しさっぱりしたようだ。この店は現在地に移る前は繁華街にあり、夜更けに通った記憶がある。味も貌もそれなりに変わる。


 と言いつつ、変わらないのは性格だと思い知らされた。自分の事である。ラーメン屋から帰り午後からM小へ読み聞かせに出向いた。そして再び家へ戻り今度は車関係で隣市のディーラーへ向かう用事があった。さて行くかと準備をしていると、スマホが見当たらない。いつものことだ。家の者に呼び出してもらうと…。


 「この電話は電源が入っていないか、電波の届かない所に…」という音声が聞こえる。えっ、えっ…。さっきラーメンを撮ったばかり、電源はオンだ。ということはどこかに落としたのか。二年前の出来事を思い出す。もしかしたらと思い、恥を忍んでN太郎やM小学校へ電話をかけてはみた。しかし、可能性は低い。


 最悪は車の乗降時に何かのはずみで落とし、路上破損のパターンか。これは観念するしかないかと、ベッドに投げっぱなしにしてた上着を取り、着ようとしたら、あら、あらら、真っ黒な四角い体はベッドでお眠りしているではありませんか。しかも何故か「機内モード」。おいっ、いったい何処へ旅行していたんだよ!

花粉本格化の前でほっと

2020年02月21日 | 雑記帳
 雪の少なさに喜ぶ半面、少し物足りなさも感じている。ただそんな思いに浸る間もなく、例年より圧倒的に早い花粉の訪れだ。ネット上には早々に予報が出ていたし、新聞紙上でも始まった。そしてその通りに今年初めての目の痛み、むず痒さ…どのくらい続くのだろう。雪も花粉も少ないままでと思うのは欲張りか。


 今年度の学校読み聞かせは、昨日で終了。花粉本格化前でよかったあ。最後のネタは『わごむはどれくらいのびるかしら』という大型絵本。次が、輪ゴムつながり(笑)で、ヨシタケシンスケの『わたしのわごむはわたさない』。そして、低学年ならこれは面白そうと思っていた『おそろしいよる』(きむらゆういち)だった。


 『わたしのわごむはわたさない』は小サイズなのでカメラで読み取りTV画面で大きく映す方法をとった。勤めていたときはパソコンを使い、PPTで行うのが常だった。しかし外部から入るとなると、準備に時間を割けないし、苦肉の策としてスライドショーを使った。評価は、知り合いに訊ねたら及第点とのこと。


 上の三冊の他に、念のためもう一つ準備をしていた。『ネコヅメのよる』(町田尚子)という猫好き垂涎の著である。作者の写実的な絵が実に印象的だ。必要最低限の詞も猫の表情や動き、筋全体を際立たせている。まさに「絵本」の一つの典型のようだ。時間があったので読み通おせた。子どもたちの表情がいい。


 まだ館内では機会があるだろうが、出かけての読み聞かせはこれが最後になる。最初だけ反省記録を残したが後は続かなかった。初回「笑い」をテーマに素話・落語紙芝居・昔話を取り上げて高学年に演じたが、「緊張したか、早口になった」と残した。早口は癖だ。この癖は「伝える」ための敵だ。少しは攻略できたかな。

こういう時こそ「おちつけ」

2020年02月20日 | 読書
 毎日、止まない雨のように、新型コロナウィルスによる感染症の話題が続く。直接的な関わりを持つ様々な人が、様々な機関が、どう動き何を伝えるかによって影響を及ぼすのは当然だ。しかし、未来を決定づけるのはその情報を受けとめる側、私たちの行動だろう。こういう時こそ自らにある「思い込み」に気づき、落ち着いた判断をしたい。


 【FACTFULNESS】
 (H・ロスリング、O・ロスリング、A・ロスリング著 上杉周作、関美和訳)


 「世界は良くなっているか、悪くなっているか」と問いかけられた時、どう答えるか。「悪くなっている」と即座に答えそうになる自分の愚かさをまず考える。良い悪いの基準が見えない、いつとの比較か示されない、世界の範囲はどこなのか…前提を吟味せずに口にするのは、仮に飲み会の世間話であったとしても、やはり「思い込み」の塊だ。


 この本が挙げた、思い込みを起こさせる「本能」は次の10個だ。「分断」「ネガティブ」「直線」「恐怖」「過大視」「パターン化」「宿命」「単純化」「犯人捜し」「焦り」…どれも当てはまりそうだが、特に自覚できるのは「宿命」だろうか。我が家の家訓(笑)は「人は変わらない(だから自分を変えよ)」。いや、それはやはり固定化された見方なのだ。


 隣国に対する意識など典型的だ。実は変わってきた部分が大きいのに、変わらず見える部分だけを取り上げ「昔からそうだった」と強調する。そしてその思いを他にも適用させる。それでは駄目だ。上の二者択一の問いに関連付ければ、理解するためには「悪い」と「良くなっている」の両立、つまりデータをもとに複眼的な見方をすることだ。



 簡単なことではないが、建前だけでは駄目だ。アクションの一つとして訳者は、ルールがまとめられているページを手帳に貼ったという。目につくところに置き、眺めるだけでも一歩前進。そして、もう一つ大事なのは「落ち着く」ことだ。ほぼ日で『おちつけ』グッズ(石川九楊書)を売り出しているが、買ってみようか…。いや、おちつけ。

「上からの景色」で見失うこと

2020年02月19日 | 読書
 この地球に住む人々を「理解する」ために、所得によって4つのレベルに分けるという考え方は明らかに基準になり得る。位置を明確にすることで、思考を起動させよう。

 【FACTFULNESS】
 (H・ロスリング、O・ロスリング、A・ロスリング著 上杉周作、関美和訳)


 日本はレベル4(1日所得32ドル以上)である。レベルごとの日常生活例も示されていて、自分が幼い頃の生活水準はその前段階であったことも思い起こされた。言うまでもなくこの半世紀で確実に進歩したし、世界全体も文化生活が行き渡りつつある。そう分かってはいても、私たちは様々な情報をドラマチックにとらえ、本質を見失いがちだ。


 「分断」を示す言葉に気をつけないと、重なり合わない2つのグループが在るという連想が働くという。実際はその中間部分に大半の人がいる。そして人やグループの中に最上位と最下位の層がある場合もある。そして上位の者がいつも留意すべきは、「上からの景色」を見ているという事実だ。低い地点はどこも似通って見えるが、実は違う。


 前半で印象深いエピソードは、医師である著者がモザンビークで働いていた時のこと。極度の貧困地域の現場にたまたま訪ねてきた友人の医師は、著者の治療行為をみて、運ばれてきた患者を救うことに全力を傾けていないと批判する。著者は「目の前の命」と同じくらい地域全体の命に対して責任があり、そのために為すべき行動を考えている。


 ありがちなTVドラマの話ではない。病院で診療を受けられる子どもに比べ、圧倒的に連れてこられない者が多いその地域で、著者は亡くなった子どもの数を数えだし、死亡した子のうち診療できたのはたった1.3%と把握する。病院にたどり着く前に亡くなる98.7%を「見殺し」にしないために、目の前の患者に対する完璧さをあえて捨てる。


 レベル1極度の貧困地域における優先順位とは、私たちにとって計り知れない。レベル2や3の地域に病院はあるが、多くは壁が塗装されていないという。それは整えられた外装を見て来院する金銭的に余裕のある者を抑えるためだ。できるだけたくさんの治療が必要な所得下位層に対して、医療行為が向けられるようにあえてそうするという。
(つづく)