すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

3.5%への参画を促す

2021年08月31日 | 読書
 『父が娘に語る経済の話』を読んでいる最中に、著者の書いたネット記事を見つけて関連深く思えたので、冬頃に読むのをためらっていたこのベストセラー新書を読むことにした。読み始めたら、NHK「SWITCHンタビュー」でなんと柴崎コウを相手に出演しているではないか。その番組もなかなか面白く視聴した。


『人新世の「資本論」』(斎藤幸平 集英社新書)


 「人新世」とは、ノーベル賞を受賞した学者が名づけた、地球の地質学的な年代のことだ。人類の経済活動が地球に与えた影響の大きさを語る名づけである。その現実を踏まえてマルクスを一般向けに読み解く。「はじめに」の題は衝撃的である。「SDGsは『大衆のアヘン』である」。SDGsは「アリバイ作り」だという。


 図書館に務める立場として特集展示をしたり、子供向けのセットなども紹介したりしてきた。「持続可能な開発目標」という語に全く異論はないし、一体何が問題なのか…しかし読み進めていくと、ああと納得できる気持ちが大きくなってきた。世界を覆う気候や格差の問題は、推進行動自体を包括するほど困難である。



 SDGsの行動指針が全否定されるわけではない。ただ「開発」が込められている段階で、資本主義に取り込まれている現実から抜け出すことはできない。私たちが不幸としか感じない大災害やコロナ禍も、資本主義という枠組みでは、富める者が益々富むための出来事になる現実を、実際に目にしているではないか。


 キーワードは「脱成長」。しかし旧来からある消費次元での抑制が中心ではなく、生産や労働に焦点を当てた提言がなされている。気候変動という大きな問題に対して悲観的思考に陥らず、「脱成長コミュニズム」を目指す柱を示して、アクションを促す。社会を大きく変える「3.5%」の一人として地球を救えと叫んでいる。

英知の登場は願いのままか

2021年08月30日 | 読書
 自民党総裁選などどーーーーでもいいが、その後に総選挙があり、新しい政権がこの人を文部科学大臣にするというなら、精一杯拍手喝采を送る…しかしその可能性は極めて低いことは百も承知だ。今までも著書(新書程度だが)を読んできて、間違いなく日本が誇る英知だと思うし、誰か強烈に引っ張りあげないか。


『コロナ後の教育へ』(苅谷剛彦  中公新書クラレ)



 この本では冒頭「政策提言」のあり方の違いが「帰納型の英国 演繹型の日本」という一節で記される。この論法の違いの長短は無論あろうが、教職から身を退いた者の述懐としては「そうだな」という思いがした。「改革はいつも教室の戸の前で止まっている」とかつて我が師は語った。原因の一端はそこにある。


 学校教育には何年かごとに「流行語」のようにキーワードが登場してくる。その意味の捉え方にあたふたする様相を見せつつ、「現場はそうじゃない」と憤る教員は少なくなかった。いくら理想論をぶつけられても、生身の子どもを育て、変えていく現実との距離は、簡単に縮まりはしない。初等教育ではなおさらだった。


 著者は小学校における英語やプログラミングの導入に関して、この時代のスキルとして平等原則に則ってはいるが、コストや「生み出す結果」との関係に「熟慮が及ばない」と危惧する。まさにあれもこれもと要求され、優先するべきは何かに戸惑い、極めて底の薄い総花的な現場になりつつある今を見事に言い当てた。


 思えば昨春、唐突にトップが「学校9月入学」導入を言いだした時、「社会への影響」をいち早くデータ化し突きつけたのは著者たちだった。「本来行政が行うべき作業」が行われなかった国は、理想だけを語る政治家、それを忠実にこなす官僚だけでは危うい。深い洞察力を持ち、道を照らす存在の登場は叶わぬ願いなのか。

三時代感じる晩夏よ

2021年08月29日 | 雑記帳
 ああまた観られなかったかあ、8月第四土曜が過ぎてしまった。大曲の花火を年に一度の楽しみにしている高齢者は残念でならない。始まりを待ち焦がれる瞬間との出会いは年々減るし、数少ない機会の一つが今年も失われた。今の状況を考えると、この先が一昨年までとは同様でないことを覚悟しておく必要がある。

 ◆去年はまだこんな事を書いていた


 今日は「県の記念日」。午前中それに絡めて図書館ブログもアップし、秋田に関する蔵書紹介をした。150歳になる本県の行く先はどうなるのか。こうした制度が200歳までもつのか。もちろん自分の齢では見届けることはできない。東京中心の政治の脆弱さは露呈したわけだし、このピンチがチャンスだと思うのだが…。


 このところ、結構真面目な新書に取り掛かっていたので、なかなか乱読が進まない(笑)。注文して届いたががページを開けない本が3冊溜まってしまった。風呂用、寝室用、他と分かれて並行になるか。それとも一冊ずつか。ちなみに並べてみたら昭和と平成と令和となっていた。当たり前だが、三時代を生きている。




 残念なのは、二学期冒頭の読み聞かせが中止になったこと。二週連続で予定されていたので、先週から準備をしていた。新しい絵本に目をつけ、それを披露する機会と少しはりきっていたのだが…。やむを得ない。それにしても文科省から示された学級閉鎖基準のこと。現場に照らし合わせたら気苦労は計り知れない。

四半世紀後に見る『大地の子』

2021年08月27日 | 雑記帳
 NHKBSPで7月中旬から再放送していた『大地の子』全11回(10時間50分)を見終わった。放送当時の平成7年は正直あまりドラマなど観る余裕もなかった。確かに中国の残留孤児問題は大きく報道されたが、関心が強かったとも言い難い。25年も経った今見ても理解しがたいことは残っているが、見応えはあった。



 ドラマの始まりである敗戦時の満州を描いた作品は結構あった。しかし、逃げ場所を求め、開拓団ごとに移動していく経緯のリアルさは印象的だった。また国同士の戦争が終わっても、個人の戦争はずっと残っていくわけで、大陸では多くの人たちが不幸を背負ったまま、生涯を歩む事実を見せつけられた気がする。


 典型的なのは、主人公の妹だった。生き残ったのはいいが、どこまでも貧しく悲しい連鎖を解き放つことはできなかった。あの大国の人民の暮らしの格差は今も時々話題になったりする。描かれた時期(70~80年代)であれば相当に大きかったはずだ。死期が近い重病人への接し方は、ある面で「土」との同化に思えた。


 びっくりしたのはその妹役が永井真理子だったこと。配役クレジットなど気に留めず見ていて、途中で「あれ、どこかで見た顔だ」と気づき、確かめてみた。調べて今も少し(笑)現役なことにも驚いた。上川達也は若くても達者だし、仲代達也はいつも変わらず、田中好子には戦争ドラマが似合う…そんなことを思った。


 原作の山崎豊子にとって『大地の子』執筆はずいぶん思い入れが強かったようだ。他作品もドラマぐらいしか馴染みがないが、共通して感じるのは「犠牲者への眼差し」か。誰かの犠牲の上に成り立つ成功や繁栄に対して、強い批判を持っている。それは今の我々に対しても向けられる。時々思い返してみたいことだ。

その程度で生きる諦観

2021年08月26日 | 絵本
 15㎝×15㎝のサイズの絵本は幼児向けの書棚に収められるが、ヨシタケの作には『もしものせかい』のように、かなり哲学的な内容の本もある。この一冊も以前「読書」として紹介した。題名のシンプルさからは想像できない結構な展開である。来月、高校生に絵本レクチャーが予定されているので使おうと思い、読み直しする。


『あつかったらぬげばいい』(ヨシタケシンスケ) 白泉社2020.08


 「~~~たら(なら)」「~~~(すれば)いい」という見開きパターンで続いていく。冒頭が上の2ページ、次は「ヘトヘトにつかれたら」「はもみがかずにそのままねればいい」で、ごく普通の対処法と思いがちだが、その次はこうなる。「ふとっちゃったら」「なかまをみつければいい」…この、ずらし方が持ち味だ。


 「太ったら」と問題を仮定すると「食べるのを減らせばいい、運動すればいい、サプリを飲めばいい」と解決に向けて動き出しを促したくなるが、それを回避して問題を見えなくしていくパターンか。もちろん、全て似た思考ではないようだ。こんな問いかけもある。「よのなかが みにくくおもえて きちゃったら



 絵にも表しているが「ひかるがめんを みなきゃいい」と答えていく。これはシンプルな絶ち方の提言とでもいえばいいだろうか。大雑把な括り方をすれば、「対処はいっぱいあるよ」と語っている。そしてその多くは「逃げ方」だ。ヨシタケには、上手に逃げられない人が増えているという感覚があるのかもしれない。


 極めつけは「せかいが かわってしまったら」である。「じぶんも かわって しまえばいい」と応える。変化に対する価値観は人様々だろう。ただ、人間なんて所詮その程度で生きているという諦観がもとになっている気もする。自然な感情のままで過ごす大切さ。この絵本は「さむかったら」「きればいい」で終わる。

「若返り」という名の衝撃

2021年08月25日 | 雑記帳
 「美酒王国秋田」で当時の蔵元をみていた。周辺地域のことは知っていたつもりだが、「双岩鶴」という見慣れない名前が隣市の岩崎地区にあったと記されている。記憶にない。しかし検索してみると確かに存在しており、今は地元の大きな酒造会社の第二工場となっているようだ。こうした合併等が進んだ昭和後期だ。


 実は我が町にも「西馬音内酒造」という蔵元があり、「若返り」という名前で知られていた。廃業が平成3年なので誌面には確かに載っていた。ただ酒名の由来が記されている文章を見て「えっ」と思った。「大正8年当時、全国的に流行したスタイナッパ氏の若返り法をヒントに命名」とある。いったい何のことだあ。


 今は名前だけ残して、別の酒造会社が限定販売している

 「スタイナッパ」でGoogle検索をかけても出てこない。では、ということで「若返り」や「大正8年」をキーワードに何度かチャレンジするが、たどりつかない。よし、それでは図書館の底力を!と勇んで、郷土史関係や人名事典、秋田の酒に関する文献などを開いてみるが、何一つヒントらしきものも見つからない。


 ちなみに「大正8年」と言えば、かの「スペイン風邪」が猛威をふるった年だった。他の情報に目を奪われがちになる心を抑え、何度かワードを替えて検索する。そして…「若返り法 歴史」でヒットした項目を見ていったら「不老長寿若返り法の研究~国立国会図書館デジタルコレクション」の箇所に発見した文は…。


 「第一節 スタインナツハ氏の若返り手術を受くべきか否か」とある。やったぞ!しかし、そこに書かれていることはなんと!!!!興味のある方は、ぜひ直接資料にあたってほしいが、いわゆる精力増強のために「壮者の睾丸を磨り潰して」云々とあるタマゲタ記述である。これが「全国的に流行した」とは到底思えない。


 もちろん一部嗜好者には興味深かったろうし、酒造会社関係者もかくあったと言うべきか。時代情況を想えば「若返り」という語は、男性生殖器に関する事項になるのも無理ないか。しかし今その事実を吹聴するのは何だか情けないし、恥ずかしい。なんせ我が地元には「若返り饅頭」なる名物商品も作られたのだから…。


 当然、昔あった酒名にあやかったと考えられる

1984年の「まごころ秋田」

2021年08月24日 | 雑記帳
 コロナ感染拡大予防のため臨時休館になったとき、開館時にはなかなか出来ない閉架書庫等の整理が行われた。図書館として登録する必要のない資料も送られてくるので、スペース確保のため廃棄処分をせざるを得ないものが結構あるのだが、通常勤務では人手も時間も足りない。その意味では休館を有効活用できた。


 さて、廃棄するなかには古い雑誌等も多いが、中の一冊に目が留まった。「まごころ秋田」と題された『旅の手帖臨時増刊号』である。旅行好きであってもこの雑誌はあまり目にすることがなかった。題名からすると、たしか国鉄!のキャンペーンと連動していると思った。案の定「国鉄協力」の字が表紙に打たれている。



 1984年つまり昭和59年、自分が結婚した年だなあと、かなり日焼けしたページをめくってみた。「お国自慢インタビュー」という秋田出身者9名に訊くコーナーがあった。「桜田淳子」「伊勢ヶ浜親方(元大関清国)」「矢口高雄」「佐藤嘉尚」「友川かずき」「因幡晃」「大坂志郎」「むのたけじ」「柳葉敏郎」と並んでいる。


 すでに亡くなった方が半数で、現役感があるのは柳葉ぐらいか。彼が「欽ドン」に出ていた頃だ。県出身者の著名人を辿ると、意外と歴史や個性がわかる。秋田の持つ土着性は他県に比べて強いのかなと思う。取り上げられている名産物にも大きな変化がない。稲庭うどんのように人口に膾炙された品もあるのだが…。


 温泉、郷土食、伝統芸能、工芸等…これらもしぶとく生き残っているようだ。個人的な嗜好が強いので「美酒王国秋田」のページはゆっくりめくる。全部で56の酒蔵が紹介されている。ふと、今はどうかなと思い調べたら蔵元数34と出てきた。それが時代の変遷だろうと順に蔵元を見ていくと、えっと思うことに出合う。
 つづく

「処暑」より「処疫」が…

2021年08月23日 | 雑記帳
 二十四節気の「処暑」。「暑さが止み…」とされるがまだまだ日中は盛りである。5月や10月に異常に暑い日があったりして年々季節感が無くなっている気がする。そしてそれ以上にコロナ禍によって地域行事が途切れて、季節の変化が薄くなっている。コロナを「疫」に置き換えてみれば、欲しいのは「処疫」だなあ。



 通知文書を作っていて、少し格好つけて「忸怩たる思い」という語を使ってしまった。点検している職員に「なんて読むんですか」と訊かれ答えたまではよかったが、後になって使い方がふさわしかったか気になった。事業中止を伝える反省なので間違ってはいないが、ニュアンスがずれたか。まさに忸怩たる思いだ。


 今年の西瓜はみんな美味かった

 「緊急事態宣言」と「まん延防止等重点措置」の語が連日ニュースを賑わす。後者を「マンボウ」と略したのは春の頃、すぐに苦情があって報道では使われていないようだ。しかし意外にこの言い方は残っていると会話をしていて思う。どうせなら一つ「キンセン」とでも言ってみますか…益々、言葉も中身も軽くなる



 昨日「わっぱか」という方言を調べていたら、「はかがゆく」「はかどる」と関係ありと記述されていた。方言では「はがえぐ」と使う。この「はか」は漢字で書くと「計・量」と広辞苑に記されている。慣用句は「計が行く」で載っている。初見では誤読しそうだ。「はかどる」は「捗る」と書けるし「捗」を支持する。



 月に2,3度はチェックする内田樹氏のブログを読み、えっと思った。なんやかんやあっても「なんとかなる」と言い続けてきた人が…。「どうしたらいいのか、わからなくなってきた」と書いた。これは結構ショック。危機の認識を共有し、身を守る、周囲を守る、国を守るための行動に移さねば…。政局に目を奪われるな

これも「わっぱが」の一つ

2021年08月22日 | 読書
 ひと月前に『秋田学入門』という冊子を読んだ。続編が出ていたので借りてきて、朝から甲子園二回戦秋田明桜VS明徳義塾を観ながらページを開く。この一冊には秋田に関する記述がある出版物情報が多く載せられていて、参考になった。半村良『寒河江伝説』や乙川優三郎『脊梁山脈』等の小説にも興味が湧いた。


『続 秋田学入門』(あんばいこう 無明舎出版)


 「『若勢』は人身売買か」の項で一つの語が気になった。「若勢」とは地主などの家に住み込んで一定期間働く若者を指す言葉で、子どもの頃から聞いている呼び名だ。ここに「わっぱが」という秋田弁が紹介され「若勢が一人で一日にこなす仕事量のことを意味し」と記されている。今も使うが少しニュアンスが違う。


 自分の中では「わっぱが」は二通りあり、一つは「大変だ(が)どうしようもない」、もう一つは「早く片付けたい」…そんな感覚だ。語源が上記通りだと後者に近い。『秋田のことば』を久しぶりにひく。見出しは「わっぱか」であり「仕事の量の割り当て、またその割り当てで働くこと」と載っていて、由来は確かのようだ。


 辞書はこう続く。「決まった量の仕事であるから、さっさとやれば片が付いてしまうので、あまり丁寧にやらないニュアンスを帯びて用いられることもある」ナルホド、「わっぱが仕事」という言い方もある。しかし事態が酷い場合に使う方が多いだろう。「わっぱがしょあぶらっこ」(アブラッコは魚)は馴染んだ使い方だ。



 辞典を開きつつぼやっとそんなことを考え…いつの間にか野球は終了。もっとも初めから「負け予想」していたし…。応援する気持ちはあるが、県内出身レギュラーがたった一人のチームでは、3年前の金足農のように熱は入らない。地方出場校の多くは似た状況だし、これを続けている大会も「わっぱが」の一つだ。

話や芸は熱い方がいい

2021年08月21日 | 読書
 神田松之丞(現 神田伯山)を観たのは、数年前のテレビ番組が最初だった。お笑いバラエティに「今話題の…」という形で登場した。お笑いに講談かと思ったが、その表現力に少し驚いた。寄席に何度となく行ってはいるが講談はあまり記憶がなく、新鮮に思えたのかもしれない。目つきと声が実に印象的だった。


『絶滅危惧職、講談師を生きる』
 (神田松之丞・著 聞き手・杉江松恋 新潮文庫)




 松之丞の半生記といっても差し支えないだろう。単行本が2017年、この文庫が2年後に発刊されている。文庫には「伯山襲名」に至る経緯も載っており、読み応えがあった。あの個性がどんなふうに培われてきたか、メディアで自ら語っている通り、講談にかける本人の覚悟がどれほどのものか、よく伝わってくる。


 学生時代はひたすら落語、講談を客として聴くことに日々没頭したという。それが意図的だったという点が、何より松之丞の本質を表わしている。だから前座時代の在り様も特殊だし、その後の歩みも戦略的だ。生意気に突っ走る自分を一方では俯瞰しつつ、仲間にも恵まれ、着々と積み上げてきたように見える。


 しかし、その道筋を支えているのは、やはり「芸」に対するほとばしるような熱い思いにほかならない。聞き手の杉江による構成の上手さもあろうが、熱のこもった語りのような調子で進む文章だ。「熱く語れることこそ愛情の証し」と、先日観た番組でも感じた。その対象にいかに深く浸れるか、それも才能の一つだ。


 松之丞が講談のネタや話芸について述べた後に続けて、聞き手はこう書く。「優れた物語は(略)どこを切り出してもおもしろいのではないだろうか」。講談や落語の話芸が凄ければ、途中からでも楽しめるように、「文芸」にもそれはあてはまるという。そんな読み物や出し物との出逢いを、この後も楽しみに待ちたい。