すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

五月の青い空の下で…

2019年05月31日 | 雑記帳
 大型連休も天気が良かったが、これほど好天の多かった五月はここしばらく記憶がない。山菜シーズンでもあり天気には注意を払ってきたので、記録としてもそうではないか。五月の青い空とはよく言ったものだが、その点だけなら十分満喫できた。ただ、昔なら空の下の家並みには多くの鯉のぼりが泳いでいたが…。


 仕事の慌ただしさからいうと、4月の方がラクだったなと思うほどフル回転した気がする。連休が特別長かったということも理由の一つになるだろう。「働き方改革」とは言うけれど、休みを長くした影響が他を圧迫している点がそこかしこに見える。主体は誰なのだと考えると、まさに「働かせ方改革」でしかない。


 中旬にあるドキュメンタリー上映会の手伝いをした。カメラワーク等学ぶべき箇所は多かった。しかし、専門的過ぎて響いてこなかった。もしかしたら感性の違いかもしれない。そこで気づくのは、主催者は勧誘対象をどう設定するかという点だ。教員としてコアな会にずいぶん通った経験はあるが、どうだったのか。


 県都での会議が二度あり、後の方は泊まりと決め込んで久々に元同僚と飲んだ。様々な思い出や楽しい雑談に混じり教員養成の話も出た。訊かれて今頃気づくのだが、自分はなんと楽しい一定期間を過ごせたのだろう。気取って言えば「月曜日が待ち遠しい」ある時期の幸せである。同時に見えていなかった事も浮かぶ。


 ここ数年、近くの里山へ通うたびに「荒れ」が気になる。山菜も年々採る人は減っているようだ。以前なら「ああ出遅れたか」と思うことは度々あったが、最近はそうでもない。地元の方々が高齢化し近くの山林にも足を運べなくなったか。店頭に並ぶモノと同じであっても、「恵み」の感覚はその場でしか得られない。

「んー」と保留する本

2019年05月30日 | 読書
 背表紙の題を見て手に取ったはいいが、内容は結構遠い所にあって「頭」はそこまで伸びなかったという事は珍しくない。下掲の二つも新書とは言いながら、一定の知識がないとするりと入ってはこない。関心はあっても理解度が今一つだった。関連本を読んで、もし何かつながることがあれば…そういう読み方もある。


2019読了53
 『なぜ、世界は”右傾化”するのか?』(池上彰+増田ユリヤ ポプラ新書)


 一昨年6月に発刊されている。その前年に米国大統領選が意外な結果となり、イギリスのEU離脱問題、そして難民・移民受け入れをめぐる混乱が起きていた頃だ。ちょうどその時初めてヨーロッパに旅行した。一定の情報は知りつつ、実際それに関わる事態を目の当たりにすることはなかった。今、その裏を想像する。


 平穏に見えていても、一歩内部に入れば宗教や経済によって分断されている社会が存在している。書名の問いに対する答えの文は明記されていないが、この二人が読者に問いかけたいのは、説明+ルポという形式によって明らかだ。「自分の中にでき上がった枠組みに事実をあてはめるようなことはしない」。心したい。



2019読了54
 『ん 日本語最後の謎に挑む』(山口謠司  新潮新書)



 地下鉄の駅名「日本橋」の看板が「Nihombashi」となっているらしい。nではなくm。これを単なる発音と表記の違いによる現在の「乱れ」ではなく、長い歴史と文化の問題として捉えた一冊だ。そもそも日本には「ん」がなかった、「ん」は下品、捨てて書く…今まで考えたこともない。思わず「んー」と言ってしまう。


 我々がよく使う「んー」を著者の妻(フランス人)は嫌がる。友だちのフランス人たちもその声に悪い印象を持つことが興味深かった。歴史的な解明を続けて、著者が出した結論が面白い。「んー」と声にならない声はイエスでもノーでもない「保留」。それは「『清』と『濁』を繋ぐ役割をしている」。実に日本人らしい。

サルに伝わる愛情を注ぐ

2019年05月29日 | 読書
 今日はチャレンジデー。企画の一つに幼児対象の「親子運動会」があり、愛孫を撮りたいと出かけていった。動き回り、何でも触りまくる姿は、やはりサルなんだなと想う。


2019読了52
 『私の息子はサルだった』(佐野洋子  新潮社)



 書名からなんとなく内容が想像できそうな本ではある。しかし、対象はわかってもどう向き合い、どう感じ取ったか、それが肝だ。おそらく作家なる者が自分の子どもを取り上げて書く場合には、ずいぶんと個性が出るのではなかろうか。しかもこの本は作者が亡くなってから発見された原稿をもとに発刊されている。


 『100万回生きたねこ』の作者によるこの話は、モチーフが息子であり、その当人が「あとがきのかわり」と題した文章を寄せている。彼は幼い頃から自分のことを書かれ続けたので不平を言ったら、それ以降登場しなくなり、その頃に書き留めたのではないかと記していた。その評価に「サル」であった片鱗をみる。


 「すべての行にうっすらと大袈裟と嘘が見え隠れする」としながらも「彼女の中では全て真実なのかも知れない」と思い始める。親と子が過去をそんなふうに見ることは当たり前かもしれないが、この本にある躍動的な姿とそれを見つめる心の動きを読み通した後だと、読み手自身も「ケン」の成長を讃えたくなる。


 「愛する者」という締めの文章は感動的だ。子を持つ者の心底を曝け出した「私はうたがいもなく子供を愛しているが、その愛が充分で、適切であるかどうか、うろたえる」という一文に、全ての大人はしばし立ち尽くしていいように思う。サルは比喩には違いないが「サルに伝わる愛情」を注げたかが問われているのだ。

憧れだけが残って

2019年05月28日 | 読書
 「遊び」という語を広辞苑で引くと八つの意味が載っている。このエッセイ集に書かれてある中身の多くは「③遊興。特に酒色や賭博をいう」に該当するが、「作家」であると考えれば「⑥(文学・芸術の理念として)人生から遊離した美の世界を求めること」になるか。読者によって受け止め方の差はきっと大きい。


2019読了51
 『作家の遊び方』(伊集院静  双葉文庫)



 伊集院ファンなら、このタイトルだけで競輪、麻雀そして酒のことが書かれてあると予想できる。もちろん、なかには絵画や彫刻、作詞から音楽のことなども触れられているが、大雑把に言えば、やはり無頼漢の物語である。そこに魅力を感ずるか否か。読む人の生き様が反映してくるだろう。いや生き様より本能か。


 「私の胸の隅には、働くことと対局にあるものが存在しているからこそ、人間は生きながらえて来たという考えが今も消えずにある」と筆者はあとがきに記す。その考えと個の生き方を照らし合わせた時、生業以外に何かを持つ意味の深淵にふれ、こんな自問が湧いてくる。「何のために毎日を生きていますか、貴方は


 自分がしている「遊び」などは気晴らしに過ぎないし、単なる娯楽と呼んでいい範囲だ。それとはまた一段も数段も違うレベルで遊んでいる人がいる。それは、いわば人生を賭けているような時間を連続させている。そうなると、歴史的な大発見、偉業を成し遂げている人たちと、ほとんど変わらないのかもしれない。


 人間をホモサピエンスという学名だけでなく、「ホモルーデンス」(遊ぶ人)と呼ぶ考え方を知ったのは高校の倫理の時間だった。結構、衝撃的ではあったがその具現化を目指すまではいかなかったなあ。この文庫を読んでも、似たような「遊び」は到底できない。作家にはそれも糧の一つになる。結局、憧れだけが残る。

皐月独り視聴者委員会

2019年05月27日 | 雑記帳
 元同僚と一緒に飲んでいたら、少し離れた席から「やっぱり白い巨塔は、田宮二郎だよ」と声がする。岡田准一主演で連続ドラマ放送したからかと思った。翌日録画で一話、二話を観たが「財前五郎」のイメージは田宮、唐沢と続いてきたので、やはり個性の出し方は難しい。しかし名作ゆえに比較する見応えはある。


 4月始まりの様々なドラマはあまり出来がよくないかもしれない。それでも刑事モノや医療モノはつい見がちだ。脚本はもちろんだが、俳優の演技によってずいぶん面白さが違う。それにしても最近にない失敗作は、一週遅れのTBS系「集団左遷」だ。あれでは多くの福山ファンを泣かせてしまう。意図は空振りだ。


 先々週になるがBSで放送した「レアめし」という番組は興味深かった。題名からわかるように特殊、特異な食を取り上げるわけだが、その回は「刑事施設」つまり刑務所等である。包丁の不使用や火を必ず通す調理法など、驚きつつ納得できた。俗にいう「臭い飯」の試食やその由縁等、NHKならではの企画だった。


 大相撲五月場所が終わり、心淋しい老人の一人(笑)である。個人的に朝乃山には入幕した当時期待をかけていて、最近やや萎んできたところだったので、今場所の変容は実に嬉しい。ただ平幕優勝が相応しかったかどうか、大相撲全体を考えれば首を傾げる。上位陣の不甲斐なさの方が目立ってしまったことは確かである。


 もう一つ大相撲の今場所は、千秋楽のあの人の来訪が見所となった。米国大統領の警備がいかなるものかを目にしただけでも貴重である。その煽りをくった人たちもかなり多いだろう。あの特別扱いを、画面に映し出された周囲の所作をどう見るか。情けない連想になるが、五輪開催の目的も透けて見えるようだった。

教科用図書は衆知の塊

2019年05月26日 | 雑記帳
 仕事上の参考にしたいと思って、小学校1年から中学3年までの国語教科書を通覧する機会があった。学校現場から離れて三年しか経っていないのに、妙に新鮮だ。といっても、実際そんな形で見渡すことなど研究会準備や教科書検定に関わる時以外なかったのだから、結局自らの不真面目さを今さら知ることになる。


 それはさておき、自分が馴染んでいたのは、やはり10年以上の版だったなと改めて時代遅れの感覚にとらわれる。もちろん、定番教材と言われる物語や小説も数多く残っているけれど、おっそうかと目につくページも多い。低学年に俳句・短歌が登場するなど、いわゆる「伝統的な言語文化」がずいぶんと浸透した。


 いらないお世話と言われるのを承知で、どんな授業が展開しているのか想像したくなる。もちろん音読が中心には違いないが、そればかりじゃないはずと思わず口を出したくなるのは老害(笑)だな。下手に意味を教えようとする色気が出てくるから、逆に音読・素読・暗唱等を徹底できなくなる…。とにかく読むべし。


 学習の仕方や用語、発想法といった面が資料として豊富になっている。学習用語は現役時代にずいぶん力を入れてきたことだし、微々たる歩みとはいえ一定程度位置づけられたことは嬉しい。話合いや発表形態の多様化、図解、図示なども教科書に載る以前から取り組んだ経験があるので、なんとなく懐かしく思える。


 あっこれっと目を見張ったのは数人で話をリレー形式でつなぐ活動例だ。これは四半世紀前、低学年担任時に開発した題材にそっくりだ。自慢めく独言は読み流してもらうことにしても、国語教科書は実に面白い。このテキストをしっかりやれば絶対力はつく(はずだ)。教科用図書は、衆知の塊の一つだと改めて思う。

「あざなう」人を悼む

2019年05月25日 | 雑記帳
 本物の教師は、教室の後ろから参観してもその授業を評価できる。これは現在の学習形態にそぐわない言辞だろうが、一斉授業形態の多かった頃の教員にとってはたどり着きたい高みでもあった。厳しい研究肌の大先輩が「それを出来るのは、ここらで田口恭雄だけ」と呟くの耳にし、それを追いかけた時代があった。

 
 我が町に、他には見られない教職員と行政による研究協議会組織がある。それは田口先生らが戦後教育の中で模索し作りあげた会だった。私も深く関わりを持ったが、時代の推移につれその熱量が下がっていくことを感じ得なかったし、当事者として責任も感じる。毎年発行される紀要は「あざなう」と名づけられている。


 それは先生が退職後、第30集を迎えたときに依頼され、命名された。巻頭に添えられる一篇の詩がある。

研究とは
あざなえる縄のようなもの
たなごころを
すりあわせるいのりの所作
そこに生える
創造の所産
青い花のかぜが
羽後の峠にふいている


 縄をより合わせていくように、あざなったのは慣用句にある「禍福」かもしれない。「苦楽」と言い換えてもいいだろう。そうした日々の営みから創造が生まれ、研究につながっていく。我々のあざなう力は健在か、その所作は美しいか。



 偶然にも教職を退いた後に田口先生が長く務められた町立図書館の仕事に就くことになった。一つの巡り合わせと信じて、「創造の所産」の芽生えに力を尽くしたい。「青い花」は何のイメージか確かではないが、今、羽後の峠は胡桃や藤の花の彩りで一杯になっている。吹きわたる風は、先生の微笑みのように優しい。

 合掌

「本物」の人を悼む

2019年05月24日 | 雑記帳
 その昔、数人でサークル活動を始めたとき、周囲はあまりいい目で見てくれなかったが、積極的に理解を示してくれた先輩教師が数人いた。その中の一人が田口恭雄先生だった。詩人として名高く、その授業実践は眼力鋭い批評家を唸らせたと聞いた。縁が持てた幸いを今も想う。国語教育研を通した出会いだった。


 郡市文集の詩の審査を二人だけで行った年が、数回ある。当然、私にとって替え難い学びの場であり、修業の場であった。教えられた「詩の見方」を以後ずっと貫いてきた。少なくとも児童詩に関して、ある程度自信を持って選を出来る様になったのは、書物からの学びより、田口先生の言葉を糧に培ったと言える。


 そんな先生に一つ頼みごとをした。私達のサークルで詩の指導法の研究をしたいので、共同研究に適する題材を選んでもらうことだった。著名な詩ではなく、ある児童作品であったことに最初は面食らった。しかし「川原」というその短い詩は、実は噛み応えのある内容で、結局三ヶ月にわたって例会で取り上げられた。


 校長に就かれたときに、掲げたスローガンは斬新だった、曰く「詩と絵のある学校」。次の学校で提唱された一つの運動も忘れられない。「夏休み中の朝読み」…ラジオ体操がまだ盛んだった時期であり、その習慣化へのアンチテーゼのようにも感じるし、今思うと、言語活動として先進的な提言だったとも考えられる。


 同職する機会がなかったが、思い出は多い。いつだったろうか、偶然に秋田行きの電車でお会いし、席を共にしての雑談も忘れられない。ほんの少し詩をかじっただけの私に「お気に入りの詩人は…」と訊かれ、黒田三郎と吉野弘を挙げたら、その詩について滔々と語られた。本物とはかくあるべしと思った一時だった。
(つづく)

分っているが…のキニナルキ

2019年05月23日 | 読書
 最近流行?の「教養」という語に惹かれて、手にした月刊誌。教養と知識とは違うとわかっているが、さてどのようにと問われてうまく説明できるか。この号にあった「分かっているが、なかなか出来そうにない」ことを突き詰めていけば、考える力が養われるかもしれない。


Volume.160
 「エピソードは自分の都合のいいように結論付けることができます。エビデンスで物事を判断しないと、全体像が正しく見えてきません。」

 歴史ブームの立役者といってもいい出口治明(APU学長)が語る。
 確かにその通りと考えるが、結局個人はエピソードで生きる。二つの重ね合わせをかなり意識しないと、どちらかに埋没してしまう。


Volume.161
 「演者になると、きっと演者としての立場でしかものを考えられなくなる。そう思って、まず客としての目を磨くために4年間を使おうと思いました。」

 「講談界の革命児」神田松之丞が、芸人を志しながら大学に通ったわけを、そう話した。憧れは人一倍強かったはずなのに、冷静にもう一人の自分を持っているし、戦略的である。
 「好き」は選択の大きな基準だが、客観視が才能を伸ばしていくことが分かる。


Volume.162
 「自国の文化に誇りを持っているのならそれが当たり前なのに、日本人の私だけが、正装は西洋文化を真似ることだと思い込んでいました。」


 星野リゾート社長星野佳路がアメリカの大学院時代に、最初のレセプションで感じたことをそう語る。それが、今の隆興を築く原点とも言えそうだ。
 そうは言っても、明治維新から皇室の正装さえ西洋化が取り入れられている。
 文化を身体化させている姿とは、そんなに容易な道ではないと気づく。

あしたは あそぼう あいうえお

2019年05月21日 | 教育ノート
 『漁師の愛人』という単行本のPRコーナーに森絵都作の絵本が載っていた。絵は荒井良二。これは興味があるなあと思って、文庫本もあるので注文してみた。『あいうえおちゃん』(文春文庫)と題されたその本は、ひらがな同一文字を句頭にした、言葉遊びが内容だ。現役時代だったら、必ずネタにしたはずと思う。

 冒頭の「あ」はこうだ。

あきすに
あったら
あきらめな

次ページの「い」は三作品。

いんどに
いったら
インドカレー

いつもは
いんきな
いじめっこ

いちがつ
いつかの
いちじはん


 四・四・五のリズムが楽しい。内容もあっけらかんとしていて笑える。どの世代でも通用するかと言えば、少し心配な面もあるが、語呂がよく結構ウケるのではないか。最後の「わいわい わらって わすれよう」まで、にこにこしながら読み通せる。マイフェイバリットは「やたらと やさしい やくざもの」かな。


 ここでむくむくライバル意識が湧いてくるのは、言葉遊びとして、「三・三・七作文」や「階段話(一、二、三、四、五)」などの自慢(笑)ネタを懐かしんでいるからだろう。国語の授業として取り上げるとしたら、絶対に作らせる形で組み立てるだろう。最初は語を指定して練習し、あとは自由選択かな。では自作品を。


ありさん
あんまり
あわてるな

いつかの
いじわる
いまかえす

うさぎが
うつむき
うしろむく


 作ってみると、これは辞書学習に適しているかもしれないと思えてきた。