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先が見えない現実を楽しむ

2022年02月11日 | 教育ノート
 アドリブということにまったく弱いと自覚しているからだろう。『AI支配で人は死ぬ。』の養老氏の語りで、もう一つなるほどなあと思わされた言葉がある。

 よく人は「クリエイティブ」って言うけど、でも、その本当の意味は個性的なんてことじゃなくてね、自分の前に「先が見える道」と「先が見えない道」があったら、「より先が見えないほうを選ぶ」っていうことなんですよ。生きるって、そういうことなんです。


 学校教育で、いわゆる「総合」が始まった時に重視された能力・態度に「見通しを持つ」があった。自分自身も実際に指導にあたるうえで、大きな位置を占めていたと思う。「計画的・意図的」という方向は疑いないものだし、初等教育のねらいとしてふさわしいと今でも考える。しかし、あくまで俯瞰的に捉えねば…。


 11年前つまり2011年の2月11日の夜。あの年、久しぶりに横手にかまくらを観に行っていました。

 大きく括れば、科学と文学の違いのようなものだろうか。再現可能性を求めていくか、一回きりの単発性に浸るか。「ああすれば、こうなる」は人間の多くを支える考えであり、行動習慣だ。乳児期から良くも悪くもそんなふうに躾けられ、学んで、生命やコミュニケーションを保っている。ただ、それは片面でしかない


 初めて経験すること、予想と違うこととの出会いによって、子どもは認識を広げ、深め、鍛えられていく。親や教師など周囲の大人は、そうした出合いに周到な準備をさせ、ソフトランディングをねらって動くのが常だ。その加減は難しいが肝心だと誰でも思うはずだ。だが、今明らかに「過保護」は進行している。


 「学校の本質は予防だ」とかつてわが師が言ったことを覚えている。だからこそ現場は、それを踏まえつつ幅や深さを意識しなければならない。事細かに準備させ、対策を立てることに慣らされた者は脆い。成功体験や自己有用感の育成ばかり積み重ねても、はたして心身に「免疫力」はつくか。自明のことではないか。


 今ほど「先が見えない」と強調される世の中はない。だから「先が見える方へすがろう」とするか。いや「先が見えない」現実を楽しむ(工夫をしよう)と思うのか。これはやはり大人が姿勢を示すべきではないか。PCやスマホ画面に情報は溢れていても、現実の体と言葉で働きかけられるのは、傍に居る者だけだ。


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