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毎日を上手に回れていますか

2022年02月13日 | 雑記帳
 孫4歳男児が、TVに映る冬季五輪のフィギュアスケートの演技を観ながら、真似をしているつもりかぐるぐると廻っている。テレビでは4回転ナントカと叫んでいても、もちろん床の上では1回2回でその気になっている。爺婆バカの二人が「上手上手」と囃し立てるから、番組が終わっても廻り続けたりしている。


 ところで、五輪の競技にいわゆる「回転系」が増えたものだと改めて思う。フィギュアスケートは伝統があるが、フリースタイルスキーのエアリアル、モーグルやスノーボードのハーフパイプ等々、以前からあるスラロームの回転・大回転とは違う演技としての回転系が本当に目立ってきた。歴史的趨勢なのかな。


 夏季のスケーボー競技もしかり。伝統ある体操競技も、回転数の多さやひねりなどの完成度が主になる。正直「凄い」とは言うが、凄さはわかっていないと自分で思う。まして数年前に急性眩暈症を起こし、今も不安に思っているこの前期高齢者には、実は近づいてはいけない世界。椅子の回転だけで気持ちが悪い。


 せめて、頭の中を廻らせて「人はなぜ回転に憧れるか」の持論を展開してみせるか。まずは、初めて「でんぐり返し」が出来た時(記憶にある者はどのくらい居るのか)、または何かの拍子に転びそうになり、無意識に身体が回ってしまった時、人はこんな感覚を抱くだろう…自分を取り巻く世界が、今くるりと廻ったぞ


 自転しながら公転する地球という星に自分が居ることはわかっている。しかし、そこにただ乗っかっている存在だとも知っている。人は、初めての回転をきっかけに、自ら目の前の世界を廻らせそして再び同じ場所に戻ることに快感を覚える。その回数が多ければ多いほど、角度の変化が激しければ激しいほど募る感覚…


 週遅れながら今年も無事に頂くことができました。感謝!

 毎日の仕事や日常を「回転」と比喩していいかもしれない。特にルーティンのような業務や家事等であればなおさらだ。それを無味乾燥と捉えている者がいても不思議ではない。アスリートの挑む回転と比較したとき、回転者の視線の行方に想いをはせれば「先を見る目」が平凡な「回転」に彩りを与えはしないか。


 人は知っている。生きるとは一方通行であり、けして後戻りできないと…。幼き無垢な頃や輝ける瞬間に回帰したい願いもわかる。しかし、肝心なのは今を回転することだ。着地する自分は変わりないのだが、回る空間と時間に集中する心身はきっとエネルギーを充填する。アスリートだけでなく、今日の自分よ、よく回れ!


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