スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

蒲生氏郷杯王座競輪&第二部定理四九備考

2017-03-28 19:04:37 | 競輪
 被災地支援競輪として行われた松阪記念の決勝。並びは吉田‐松坂の東日本に浜田,深谷‐浅井‐坂口の中部,古性‐東口の近畿に三宅。
 浅井がスタートを取って深谷の前受け。4番手に古性,7番手に吉田で周回。残り3周のバックを出たところから吉田が上昇。ホームで深谷を叩くと古性がこのラインを追走。引いた深谷が7番手の一列棒状でバックから打鐘を通過。ホームから深谷が発進。吉田も抵抗しましたがバックでは深谷が前に。ホームで深谷を先に行かせた古性は深谷ラインを追ってさらに外から捲る形。展開有利に番手から出た浅井を古性が捻じ伏せて優勝。浅井が半車身差で2着。古性マークの東口が4分の3車輪差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手は昨年12月の岸和田記念以来の記念競輪2勝目。深谷が前を取って引き,吉田が先行するというのは最も想定された展開。深谷が早めに発進したので捲りとはいっても先行争いに近いようなレースになりました。ホームでは動かず,深谷ラインを先に行かせてから踏んだのが優勝の要因に。前回は番手を回っての優勝で,今回は自力でのものですから,より高く評価できる優勝であったと思います。

 意志voluntasが思惟の様態cogitandi modiであって,思惟の様態のうち第一のものが観念ideaであるのなら,意志が観念より広きにわたることは不可能です。ただし,人間の精神mens humanaが何かを認識するという場合には,注意しなければならないことが残されています。というのは,人間の精神は必ずしも事物を真に認識するとは限らないからです。スピノザの哲学に則したいい方をすれば,人間の精神の現実的有actuale esseを構成する観念は,真の観念idea veraだけに限られるわけではなく,誤った観念も含まれているからです。真理veritasの規準をどこに置くかということを考慮の外に置けば,この点ではスピノザの哲学と従来の哲学的伝統は一致しているといえるでしょう。たとえば浅野がいうように,デカルトは真理の規準を観念の明晰判明さに求めたのですが,真理の規準を設定しなければならないということ自体が,人間の精神は必ずしも事物を真に認識するわけではないということを前提しています。もしも人間の精神が必然的に事物を真に認識するのであるとしたら,人間が認識したものは真である,スピノザ流のいい方をすれば,人間の精神の現実的有を構成している観念が真であるといえばすむことだからです。
 デカルトは方法論的懐疑を用いた人であり,この点では特殊であったといえるかもしれません。スピノザの哲学からすれば,疑う必要のない観念の真理性まで疑うような人であったからです。しかし人間の精神が事物を誤って認識することがあるという点だけでいえば,スピノザもそれを認めるのであり,いかにデカルトには特殊性があったとはいえ,従来の哲学的伝統からかけ離れた主張をしたわけでないことは確かだといえます。
                                     
 しかしこうした場合に,意志が観念より広きにわたるかということについては,スピノザはかなり特殊な主張をします。特殊なというのは,従来の哲学的伝統からは思いつかないような主張という意味です。スピノザは第二部定理四九備考の中で次のようにいっています。
 「もし彼らが知性を明瞭判然たる観念とのみ解するなら意志が知性より広きにわたることは私も容認する。しかし私は意志が知覚一般あるいは思惟能力一般より広きにわたることはこれを否定する」。

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