スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

岸和田キング争覇戦&擦り合わせ

2016-12-06 18:58:10 | 競輪
 被災地支援競輪として実施された岸和田記念の決勝。並びは山崎に柏野,脇本‐古性‐稲川の近畿1と三谷‐村上‐篠塚の近畿2で林は単騎。
 脇本がスタートを取って前受け。4番手に三谷,最初は稲川の後ろにいたものの下げた林が7番手,8番手に山崎という周回に。残り3周のホームから三谷が上昇。バックの入口で脇本を抑えました。脇本がすんなりと下げたので4番手に林,5番手に山崎,7番手に脇本の一列棒状になって残り2周のホームへ。ここから脇本が発進。まだ誘導を前に置いていた三谷も踏んでいきましたがバックでは脇本が叩きました。三谷は4番手に入り,7番手に林,8番手に山崎の一列棒状に。バックに入るところから三谷が発進。古性は牽制せずに併せて出ていく形。最終コーナーから直線入口にかけてふたりの併走が続きましたが,振り切って古性が優勝。直線でふたりの間を突いた稲川が半車身差の2着に続いて地元勢のワンツー。三谷が4分の1車輪差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手は記念競輪初優勝。このレースは近畿勢が6人もいたために別ラインでの戦いに。このために展開の想定は難しくなりました。結果的に地元勢を連れた脇本が後ろを引き出すようなレースに徹し,三谷はむやみには抵抗せず自分が勝てる位置を取るようなレースをしたため,6人で結束したような展開に。こうなれば自力もあって番手を回る古性には有利な展開。逆に先行争いを望んでいたであろう山崎はあてが外れたようなレース。脇本の奮闘に応えて古性が優勝を勝ち取ったというレースでしたが,年齢的にも脇本より若い選手なのですから,自力で優勝して初めて高く評価するべきなのではないかという印象も残りました。

 スピノザが身体corpusに対する精神mensの優越性,延長Extensioに対する思惟Cogitatioの優越性を認めなかったということが,デカルト主義者やフーゴー・ボクセルとの間の争点になっていることは分かりました。次にもうひとつの争点,人間とその他のもの,スピノザの哲学の範疇でいえば人間と人間以外の様態modi,modusとの間の優越性ないしは完全性perfectioについて考えていきます。
 ボクセルは間違いなく人間の本性humana naturaだけが特権的に神Deusのうちに優越的にeminenter含まれているのであり,その他の様態の本性が優越的に含まれているとは思っていなかった筈です。このことが,人間がほかの様態よりも完全であると認識しているのと同じことだということはすでに説明しました。デカルトの哲学でも同じようにいえるとは断定できないですが,少なくとも人間の精神をその人間の身体の観念ideaと解する限りで,人間の身体の観念がその他の様態の観念より完全であるという前提はあったとみなしていいと思います。スピノザの哲学のように,すべてのものが精神を有すると解する限りで,人間の精神はほかのどの精神より完全であるという前提があったとみなしてよいだろうということです。ただし,デカルトの哲学にせよボクセルにせよ,すべてのものが精神を有するということ自体が受け入れられない見解でしょう。いい換えれば,人間がほかのものより完全であるか否かを考察するための前提となっている条件が,スピノザとデカルトあるいはボクセルとでは異なっていると解さなくてはなりません。したがってまず,双方の見解に沿うように,人間がほかのものより完全であるという場合の人間とは何かということを擦り合わせておく必要があります。
                                     
 スピノザの哲学では人間の精神はその人間の身体の観念です。すなわちそれらは同一個体です。よって第二部定理七およびその証明の意味により,因果関係の秩序と連結ordo, et connexioは一致します。なので人間の身体を考察の対象としようと精神を対象としようと,得られる結論は一致します。つまり人間の精神がほかのものの観念より完全なら,人間の身体はほかの物体corpusより完全です。逆に人間の身体がほかの物体より完全なら,精神もほかのものの観念より完全であることになります。
コメント
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