スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&度合

2017-03-21 19:11:33 | 将棋
 宇都宮市で指された昨日の第42期棋王戦五番勝負第四局。
 渡辺明棋王の先手で相矢倉。ただ先手が早囲いで後手は趣向を凝らした銀矢倉になりましたので,通常の相矢倉とは異なった戦型といえるでしょう。
                                     
 先手が棒銀に出たところ。ここで後手の方から☖4五歩と仕掛けていきました。後手の構えはどちらかといえば受け身型で,攻撃力が高い形ではないのでこれは意表の一手でした。
 先手は☗3七銀と出たばかりの銀を引き☖4六歩の取り込みに☗4八飛と回りました。手損ですが自然な応対と思えます。後手は☖8五桂☗8六銀といつでも使えたであろう権利を行使してから☖4四銀直。銀矢倉の銀で攻める手ですからこれも驚きの一手。
 先手は☗6五歩☖8二角と追ってから☗4六角。後手は☖5五歩と4六の地点での交換を拒否。先手は☗4五歩☖同銀と呼び込んで☗5五角。8二での交換は後手の形が悪くなるので☖同角☗同歩は必然であったと思います。
 銀取りが残っているので☖4六歩と打つのも当然。先手も☗同銀☖同銀☗同飛と捌かなければいけないところ。手番を得た後手が☖2八角と打ちましたので☗3七角はこの一手の受け。後手が☖3九角成と馬を作って先手は☗2六角と活用。
                                     
 この角が金に当たっているため☖4四歩と受けなければなりません。しかし馬を作っているからまずまずの変化でしょう。先手が☗3七桂と活用した後,後手は作った馬を2六の角と交換しにいったのが悪く先手の勝ちにはなりましたが,第2図で後手も十分ということは,改良の余地もありそうですから,有力な作戦になるかもしれません。先手側も対応が求められるところでしょう。
 渡辺棋王が勝って2勝2敗。第五局は27日です。

 デカルトが真理veritasの規準をどこに求めたのかを考察の対象から外す際には,以下の点に留意してください。
 スピノザの哲学では,観念ideaが内的特徴denominatio intrinsecaからみられるなら,十全な観念と混乱した観念のどちらかです。外的特徴denominatio extrinsecaからみられるなら,真の観念と誤った観念のどちらかです。このとき,スピノザがデカルトの規準が十分ではないと考えたということは,デカルトがその規準を後者に求めたことと関係します。要するにスピノザはそれは本来は前者に求められなければならないと考えたのです。このことは重要ですから考察の対象外とはなりません。ただそれをデカルトの哲学と関連付けて説明しないというだけです。
 スピノザが観念を明瞭判然と形容する場合には,内的特徴と関連させるなら,それが十全な観念を意味する場合もあるし,混乱した観念idea inadaequataを意味する場合もあります。どちらであるかということは,スピノザがその形容を用いる場合の文脈に合わせて解する必要があります。つまり明瞭判然という形容自体がスピノザの哲学を解するにあたって躓きの石となり得るのです、こうした注意は,たとえば入門書である『知の教科書 スピノザ』を読む場合にも必要だということはすでに説明した通りです。
 なぜこのようなことになるのかといえば,一口に混乱した観念といっても,その混乱の度合には差があるということをスピノザが認めているからです。すなわち,混乱の度合が低い混乱した観念は,きわめて混乱している混乱した観念よりは明瞭判然であるといういい回しがスピノザの哲学では許容されるのです。
 混乱した観念は,外的特徴から見た場合には誤った観念です。したがって,混乱の度合に相違があることを認めるということは,誤りの度合に相違があることを認めるのと同じです。つまり,観念の対象ideatumをそれほど誤らずに反映させている誤った観念は,観念の対象をひどく異なって反映させている誤った観念よりは明瞭判然としているといういい回しもまた許容されねばなりません。このとき,真理の規準が,観念されたものをどう反映させているかという点には存さないということは重要で,それは考察の範囲内になるということです。

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