スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

全能と自由意志&第一部定理三三備考一

2024-03-05 19:11:34 | 哲学
 第一部定理一七備考でスピノザが示しているDeusの全能についての主張と,最も関係してくるのが神の意志voluntasの自由libertasに関する主張であるといえます。スピノザはここでも神は本性naturaの必然性necessitasに従って働くagereのであると主張することによって,自由意志voluntas liberaが神の本性essentiaには属さないということを示すからです。これは第一部定理三二系一でいわれていることです。
                                   
 なぜそれが大きく関係してくるのかということはふたつの点から説明できます。ひとつは第二部定理四九系にあるように,スピノザが意志と知性intellectusを同一視しているという点です。このために,知性について妥当することが意志についても同様に妥当することになるのです。したがって知性についての能力potentia,神の全能について妥当することは神の意志についても妥当することになるのです。しかしこのことは,神の本性に自由意志が属すると信じて疑わない人びとに対しては,あまり説得的ではないかもしれません。
 もうひとつは,神が完全であるためには,神が認識したことが事柄がことごとく実現しなければならないのと同じように,もし神が完全であるためには,神が意志したことはことごとく実現しなければならないという点に存します。もしも神の本性に自由意志が属するというのであれば,神はその自由意志によって現にあるものを現にあるのとは異なってあることができるようにすると主張するのでなければなりません。しかし現に真verumであるものは永遠aeternumから永遠にわたって真であるのでなければなりませんから,神が自由意志によって真であるものを偽falsitasにすることができるとか,逆に偽であるものを真にすることができるというのは不条理です。
 このことから,神の本性に自由意志を帰してしまうと,かえって神の完全性perfectioを損なうことになってしまうのです。その説明の仕方が,神の全能についての説明とパラレルな関係にあることは明白でしょう。神は本性の必然性によって働くのであり,そのことによって神は全能であることができ,神の本性には自由意志は属さないのです。

 アインシュタインAlbert Einsteinがスピノザ主義者であったことと,提唱した一般相対性理論において空虚vacuumの存在existentiaを否定したことの間に,何か関係があるというのはさすがに牽強付会であると思います。スピノザは哲学的な観点から空虚を否定したのだし,アインシュタインは物理学的な観点から空虚を否定したのであって,双方において空虚の存在が否定されているということは,結果的な一致にすぎないと解するのが妥当でしょう、ただ,結果的にではあってもそのことが一致しているということは,確かにアインシュタインの物理学とスピノザの哲学との間には親縁性があるということはできるでしょうし,アインシュタインがスピノザ主義者であるということが自称のものではなかったということのひとつの証明であるといえないこともないでしょう。なのでこの部分では,アインシュタインがスピノザ主義者であったということが指摘されていてもよかったのではないかと僕は思います。
 國分はこの後で,空虚の否定negatioがスピノザの哲学全体の中で有している意味を,哲学的観点から考察しています。これは参考に値する論考だと思いますので,ここでは『スピノザー読む人の肖像』でされているよりもやや詳しく探求していきます。
 スピノザは第一部定理三三備考一で次のようにいっています。
 「ある物が偶然と呼ばれるのは,我々の認識の欠陥に関連してのみであって,それ以外のいかなる理由によるものでもない」。
 ここでは國分に倣って,スピノザのこうした主張を一般的に偶然の否定といっておくことにします。
 國分によれば,偶然の否定にはふたつの種類があります。ひとつは,人間には偶然であると感じられるどのような事柄にも,その背後には必然性necessitasがあるということです。そしてもうひとつは,そもそも自然Naturaのうちには偶然は存在しないということです。ここに示した備考Scholiumは,前者の意味で偶然を否定しています。そしてスピノザは偶然の否定について言及する場合には,もっぱらこの意味で偶然を否定していると國分はいっています。僕はそれが確かにそうであるというようには思えませんが,この点についてはここでは論争する意味がまったくありません。
コメント
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