スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

火の国杯争奪戦&発生の仕方

2012-10-16 18:40:01 | 競輪
 13日に開幕した熊本記念の決勝。並びは武田-神山の茨城栃木に海野,浅井-山田-坂上の中部,中川ー合志の熊本で佐藤は単騎。ただ,武田ラインをずっと追走しました。
 前受けした浅井を打鐘前のバックで武田が叩きました。8番手となった中川がここから巻き返していき,ホームで武田を叩いてかまし先行。少し開いた3番手に武田,佐藤も続いてまた開いた7番手に浅井で一列棒状。バックから武田が捲りに出て,直線では番手から出た合志を捕えて先頭。しかし大外を佐藤が勢いよく強襲。このスピードが抜群で武田を捕えて優勝。武田が2着。合志と武田の中を割って神山が3着。
                         
 優勝した岩手の佐藤友和選手は7月の寛仁親王杯以来の優勝。その直前に小松島記念を制していて,記念競輪は通算6勝目。普通は武田に有利なレースだったのですが,バンクレコードを出すような素晴らしい伸びでした。調子がよかったということもあるのでしょうが,かつての力を完全に取り戻しているとみてもよさそうです。すでにグランプリを決めていますが,楽しみではないかと思います。

 第二部定理一により思惟は神の属性です。そして第一部定理一一により神は必然的に存在します。このことから,思惟の属性の無限様態である神の無限知性が,実在的な意味においても必然的に存在するということは明らかです。そしてこのことが,無限知性と有限知性との間にある相違の,現状の考察と関係する第二の点を構成します。すなわち,無限知性も有限知性も同じように思惟の様態ですが,それがどのように発生するのかということ,いい換えれば第一部定理一五においてそれが神のうちにあるといわれるとき,どのような意味において神のうちにあるといえるのかということが,この両者では明確に異なるのです。
 第一部公理三により,各々のものはそれが実在するためにはその原因を必要とします。ただしそれが思惟の様態である以上,第一部定義五によってそれが自分自身のうちにあるということはできません。つまり第一部定義一でいう自己原因ではないのです。なのでその存在する原因は,それ自身の外部に求められなければなりません。
 このとき,人間の精神のような有限な知性は,少なくともそれが現実的に存在するといわれるためには,第二部定理九で示されているような仕方で存在します。しかし,個物の観念ではない無限知性の場合には,この定理は該当しません。神の無限知性は第一部定理二一の仕方で,神の思惟の属性の絶対的本性を直接的原因として発生するということになるのです。つまりここから理解できることは,神の無限知性が生じる原因と結果の連結は,第二部定理九では説明されていない,あるいはそこから漏れているということなのです。
                         
 福居純が『スピノザ「共通概念」試論』の中で行っている取り組みは,第二部定理九でいわれている原因と結果の無限連鎖と,神の無限知性とをどのように関連付けることができるのかという観点です。というか,それは福居自身の主題ではないとしても,こうした福居の視点が,ここでの僕の考察と大いに関係してくるのです。いい換えるなら,もしもそれを論理的に関連付けられるならば,「無限に進む」ということばの消極的意味を,積極的な意味に置き換えられるだろうということです。
コメント
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