実のところ、これまで書いてきた何冊もの唯識の本の中でも、随煩悩についてこんなに詳しく触れたことはありませんでした。
しかし今回は、なぜか詳しく書いています。
なぜなんでしょうね?
自分で考えてみておそらく、現代という時代がきわめて病んでいて、その病のさまざまな症状は無明・分別知を基にして築かれてきた文明というものが最高度に発達した結果として生まれている、と捉えていることから来ているようです。
ここで、症状をしっかり確認し、病名も病因も明らかにして、できるだけ多くの方に治療する気になっていただきたい、と半ば意識的、半ば無意識的な意図で、随煩悩について、かなり踏み込んだインフォームド・コンセントの手続きをしているということのようです。
「ということのようです」と、やや無責任な言い方をしましたが、ここで「ということです」と自覚-責任をもって、改めてみなさんにお知らせします。
まだ20の随煩悩のうち7つしか取り上げていないので、まだ13も残っていますが、みなさん、がんばってください。
「こんなに深刻、でもだいじょうぶ、治ります」というのが、唯識のメッセージですから。
さて、今回は「諂(てん)」、こびへつらう心です。
これは、人類(の文明社会)が、硬直した階層・ヒエラルキーのある社会――私は「無明のピラミッド」と呼んでいます――を形成するようになって以来、おそらく1万年以上、集団の下に置かれた人間がずっと悩まされてきた煩悩です。
自己防衛のためには、自分より強い人間にはこびへつらい、ゴマをすらないと生きていけません。
「長いものには巻かれろ」とか「寄らば大樹の陰」ということわざもあります。
「平等」が建前になった民主主義国日本でも、社会の現場では、へつらい、下手に出、愛想笑いをし、お世辞やお追従を言い、上の人がどんなにまちがっていると思ってもイエス・マンになったりしなければ、生き延びられない(地位や収入を維持できない)ことが、信じられないくらい日常的に頻繁です。
「諂(てん)」は、こびへつらうために真実を曲げるという意味で、詳しくは「諂曲(てんごく)」とも言われます。
「てんごく」どころか、ほとんど地獄ですね(駄洒落です、言うまでもなく)。
この「諂」と「覆」が重なると、例えば組織や上司の犯罪に関して「証拠隠滅」に協力する、あるいは少なくとも見て見ぬふりをするということになります。
自己防衛が行き過ぎると不当な「自己保身」になってしまいます。
それに対して「信」の心が勝つと、「内部告発」という勇気ある行為になります。
しかし、内部告発は下手をすると「組織破壊」になり失業という結果を招きかねませんから、とてもつらいものがあります。
大変なエネルギーのいる転職をしなければならないこともあるでしょう。
そうした難しい個々のケースについて、ここでお話しすることはできませんが、より一般的な原則だけは言えると思います。
人間の社会全体が分別知・無明をベースにして営まれている凡夫の娑婆世界であるかぎり、そこで生き延びるにはやむを得ない妥協、許容範囲の「自己防衛」はあっていいけれども、これ以上はまずい行き過ぎた「自己保身」という段階になったらできるだけ止めたほうがいい、ということです。
正当あるいは許容範囲の「自己防衛」と過剰で卑怯な「自己保身」は実際の場面では限りなくグラデーションですから、境目の見極めはかなり難しいとは思いますが、原則だけでもしっかり摑んでいれば、決断のヒントになるのではないかと思います。
それからまちがえていけないのは、役割に限定された上下関係というのはどんな理想的な平等社会でも必要なものであり、そういう場合に上の人に「従う」ということは、当然のことであって、「諂」・へつらい・随煩悩ではありません。
言葉で区別すれば、「従順」はいいことで、「追従(ついしょう)」はあまりいいことではない、と言えばいくらかわかりやすいでしょうか。
ともかく、こびへつらいというつまらない悩みはしたくない、しなくても生きていける世の中にしたい、と思いますね。
改めて、「4つの大きな願い」を思い出します。
世界中のみんなを幸せにできたらいいよね。
つまらない悩みはぜんぶなくしたいよね。
いいことはいつまでもずっと学びつづけたいよね。
ほんとに最高にいい人になれるといいよね。
人気blogランキングへ
↑ぜひ、クリックしてメッセージの伝達にご協力ください。
だから、正当な自己主張が苦手で、相手の顔色を伺うイエス・マンになりがち・・・。
過剰な自己保身、自己防衛は自己嫌悪につながる、自分にとっても、不愉快な感情になるんですね。
大局的に自他にとってプラスになるような処世術的としての謙遜、へりくだり、との違いを見極めるの大事ですね・・・。
要はバランス感覚でしょうか。
でもってフリーターの、でもめげないのがアンナです。笑