高校講座で勉強しました。今日の教科は;
【日本史】第6回 第1章 古代国家の形成と貴族文化の誕生
一.平安遷都と政治改革 二.蝦夷との戦い 三.律令から格式へ
今回の時代と三つの要
今回は奈良時代の終りから平安時代の初めにかけて
律令制支配の立て直しと拡大
「鳴くよウグイス平安京」は、誰でも聞いたことのある語呂合わせです。794年、現在の京都に朝廷が置かれ、明治維新までの“千年の都”がここから始まりました。
実際には平安時代は千年も続いたわけではなく、鎌倉時代や江戸時代には政治の中心は鎌倉や江戸にありました。しかし平安時代以来、天皇は変わらず京都に住んでいました。つまり形の上では明治維新まで日本の首都は常に京都にあったと言えるのです。
今回見ていくのは780年頃~820年頃、奈良時代の終りから平安時代の初めにかけての、主に平安時代の基礎が作られた約40年間です。
当時は仏教が政治と結びつき、律令政治が行き詰まりを見せていた時代です。
そのような時代に新しく都が建設され、律令制の支配の拡大と立て直しが行われた過程をたどります。
◆押さえるべき三つの要は、
一.平安遷都と政治改革
二.蝦夷との戦い
三.律令から格式へ
平安時代は、江戸時代よりも長く、およそ400年続いた時代でした。
その前の奈良時代には、平城京が造営された歴史がありました。しかし、遷都から100年経つ前に、都を移すことになっています。
都の建設は国にとっての大きな財政負担ですが、それでも平安京が作られたのはなぜでしょうか? また、この時代には政治改革も行れました。それはどのように進められたのでしょうか?
▶要 其の一 「平安遷都と政治改革」
奈良時代、仏教勢力が政治介入
遷都を決めた桓武天皇
仏教の力で国を護ろうと考える鎮護国家の思想の下、奈良時代の都・平城京には、多くの寺院が造られました。そして半世紀後には、都の仏教勢力は政治に介入するまでになっていました。
そんな中、781年に桓武天皇が即位します。桓武天皇は、即位するとまもなく新しい都を山背(やましろの)国の長岡、現在の京都府南西部に作ることを決めました。
これには、寺院勢力の強い奈良を離れ、新しい政治を行うねらいがありました。
葛野に遷都 メインストリートの朱雀大路
桓武天皇は784年、長岡京へ遷都します。都の近くには桂川や宇治川、淀川などが流れ、長岡京は水陸の交通の要衝でもありました。
しかし、造営責任者の暗殺や洪水の被害がたび重なり、都の完成は断念されました。
そして794年、長岡京の北東に位置する葛野(かどの)、現在の京都市中心部に都が移されました。これが平安京です。
平安京は東西およそ4.5キロメートル、南北およそ5.2キロメートルの規模を誇りました。中国・唐の都にならい、北端の中央に政治を行う大内裏が置かれ、そこからメインストリートとして朱雀大路(すざくおおじ)がまっすぐ伸びています。
平安京の表玄関 平城京からの寺院の移転は認められなかった
平安京の表玄関を飾るのは、羅城門(らじょうもん)です。羅城門をくぐると見えてくる朱雀大路の道幅は83メートルあり、両脇には街路樹が植えられていました。
都には平城京からの寺院の移転が認められず、新たに西寺と、朱雀大路を挟んで東寺が建てられました。大内裏のいくつかの門をくぐると、天皇が政治と儀式を行う大極殿がありました。
国司に対する監督を厳しくした
公民の負担を減らすため徴兵制や軍団を廃止
桓武天皇は、平安遷都と共に政治改革にも取り組みました。
国府が置かれた諸国に一定の任期で赴任し、政治を行ったのが国司です。
当時、この国司交替の際には、事務引きつぎが完了したことを証明する文書「解由状(げゆじょう)」を後任者から前任者に渡すことになっていました。しかし国司の交替の時、米などの租税である官物の在庫量などをめぐる紛争や不正が多く起こりました。
桓武天皇は、解由状をチェックするための役人として勘解由使(かげゆし)を置き、国司に対する監督を厳しくしました。
また公民の負担を減らすため徴兵制や軍団を廃止し、郡司などの子弟で弓や馬が巧みな者を健児(こんでい)として、国府などを守らせました。
桓武天皇は、軍事と造作(ぞうさく)という二つの事業に力を入れました。
造作とは、新しい都作り、つまり長岡京と平安京の造営のことです。
そして軍事とは、律令制による支配を広げようとする戦いで、具体的には蝦夷との戦いのことです。
蝦夷とは、当時東北地方に住んでいた人々のことです。
▶要 其の二 「蝦夷との戦い」
岩手県の奥州市埋蔵文化財調査センターを訪ねる
主任学芸員の佐藤良和(さとうよしかず)さん
土保さんは、岩手県の奥州市埋蔵文化財調査センターを訪ねました。
案内していただいたのは、主任学芸員の佐藤良和(さとうよしかず)さんです。
このセンターでは、蝦夷の生活や、律令国家の支配が東北にまで及んでいたことを知る資料などが展示されています。
律令政府側から蝦夷と呼ばれた
律令社会にいた人々と同じような生活をしていた
蝦夷は、当時の東北地方に住んでいた人たちのことです。自ら蝦夷と名乗ったのではなく、律令政府側から蝦夷と呼ばれました。
当時蝦夷と呼ばれた人々は、文化が未熟で野蛮だと見られていました。
展示品には、ガラス・水晶・石をつなぎ合わせて作った首飾りなど、当時の蝦夷の人々が使っていたものがあります。
蝦夷の人々が実際に使っていた食器と、当時の律令社会の人々が使っていた器を比べてみると、とても似ていることが分かります。両者は色や焼き方は異なりますが、同じ用途で使われ、同じものを食べていたことが想像されます。
佐藤さんは、「蝦夷は決して“野蛮”や“未開”というわけではなく、律令社会にいた人々と同じような生活をしていたということが推測される」と話します。
蝦夷の指導者
征夷大将軍の坂上田村麻呂
律令制の支配を東北地方に拡げようとする政府に対し、蝦夷は反乱を起こしました。
律令国家が次第に北へ支配を拡大していくに従い、蝦夷の中で、抵抗する勢力が現れてきました。その一人の人物がアテルイです。
桓武天皇は、蝦夷との戦いを三度にわたって行いました。
789年、現在の奥州市胆沢で、蝦夷の軍と最初の戦いがありました。この戦いでは、朝廷側が千人以上の死者を出すという大敗北を喫します。
このとき、巧みな戦術で蝦夷軍を率いたのが、蝦夷の族長・アテルイでした。
しかし801年、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍とする三度目の遠征が行われます。
胆沢城は東京ドームが9つ入る大きさ
田村麻呂はさらに盛岡に志波城を築く
田村麻呂は、胆沢地域の蝦夷を制圧し、胆沢に支配の拠点となる城柵を築きました。
埋蔵文化財調査センターには、1/100の大きさで復元された胆沢城の中心部の模型があります。胆沢城は外側を塀と溝で囲まれ、全体の面積はおよそ46万平方メートル、東京ドームが9つ入る大きさでした。
政庁では、儀式などが行われました。また役所が置かれ、税の徴収も行われていました。
アテルイは朝廷軍を何度か追い返していましたが、胆沢城を見て「これはかなわない」と思ったのではないかと佐藤さんは話します。結果的にアテルイは降伏して都に連れていかれ、最終的に大阪で処刑されることになります。
坂上田村麻呂はさらに北方、現在の盛岡市に城を築きます。
志波(しわ)城と呼ばれるこの城は、東西・南北ともに800メートル以上あり、胆沢城をしのぐ東北最大級の城柵でした。
こうして、朝廷の支配が広げられ、蝦夷は律令国家に組み込まれていきました。
蝦夷は徐々に律令の支配に組み込まれていく
軍事と造作は公民への負担だった
「歴史をいろいろな視点で見る、つまり蝦夷側から見ると、戦いの意味もまた違って見える」と話す高橋館長。
今回、土保さんは敗者の歴史というものを知り、「アテルイは、さぞ無念だっただろう」という感想を持ったといいます。
蝦夷との戦いは、
・蝦夷とは、律令国家から見た呼び方で、律令国家側の人々と生活スタイルはほとんど同じ
・律令国家の支配が、軍事と行政の両面で行われ、蝦夷と呼ばれた人々は徐々にその支配に組み込まれていった
と まとめることができます。
軍事と造作の二大事業は国の財政や民衆にとって大きな負担であったため、桓武天皇はこれを続けるかどうか、二人の臣下に論じさせます。
そして、一人が述べた「今、天下が苦しんでいるのは、軍事と造作のためである」という意見を受け入れ、二大事業の中止を決めます。桓武天皇はこの時70歳で、その三ヶ月後に亡くなりました。
そして桓武天皇が立て直しを図った律令制は、この後大きく修正されていきます。
▶要 其の三 「律令から格式へ」
嵯峨天皇は、律令制を大きく修正
藤原薬子・仲成による企て
嵯峨天皇は、桓武天皇亡き後、律令制を大きく修正していきました。
嵯峨天皇は、兄・平城(へいぜい)天皇が病気のため、位を譲られて即位していました。
ところがその後、藤原薬子(ふじわらのくすこ)と、その兄の仲成(なかなり)によって企てられた、「薬子の変」と呼ばれる大きな事件が起きます。二人は、都を平城京に戻そうとした平城太上(へいぜいだいじょう)天皇を、再び天皇の位につけようと企てたのでした。
嵯峨天皇はすぐに制圧行動をとり、薬子らを捕らえました。
令の規定にない令外官
都の治安維持などを担当した検非違使
この事件の終結に、大きな役割を果たしたのが蔵人頭(くろうどのとう)です。 蔵人頭とは、天皇の近くに仕えて機密の文書をあつかう蔵人所(くろうどどころ)という役所の長で、嵯峨天皇が新たに設置したものでした。
また、平安京内での治安維持などを担当する検非違使(けびいし)も置きました。
右写真は平安時代末の絵巻物で、都で起きた事件に急ぎ出動する検非違使の姿が描かれています。
令の規定にないこれらの官職は令外官(りょうげのかん)と呼ばれ、これまでの令を補うものとして、以後重要な役割を果たすようになっていきます。
実社会に合わせたルールである格と式を作り、政治運営を行った
さらに嵯峨天皇は、律令の改革を進めました。
律令の規定を修正、補足するための格(きゃく)や、施行上の細則である式が次々と定められました。律令政治は主に格と式によって運営されるようになっていきます。
こうして嵯峨天皇以降の政権は安定し、平安京は千年の都として歩み始めます。
この時代になると、律令を取り入れてから100年以上が過ぎていました。
律令という決めごとが社会に合わなくなってきたため、実社会に合わせたルールである格と式を作り、政治運営を行っていこうとしたのかもしれません。
▶日本の歴史・いとをかし
奈良文化財研究所 史料研究室長の渡辺 晃宏 先生
今回も奈良文化財研究所 史料研究室長の渡辺 晃宏 先生に話をうかがいます。
桓武天皇は、千年の都を造るという思いで平安京を造ったのかといえば、そうではないといいます。
先生は、平安京は結果的に1000年続いたが、最初からその地位が確立していたわけではないと考えているそうです。そして薬子の変が失敗に終わった段階ではじめて、平安京の地位が固まってきたのではないかといいます。
大きな寺院が残されたため奈良の市街地は現代まで栄えた
捜索願の看板として使われた木簡
現在の奈良町と呼ばれている奈良の元の市街地の部分は、町として現代まで続きます。興福寺や元興寺、あるいは少し外れた位置にある東大寺などの大きな寺院が、平城京に残されたことが大きかったと先生は話します。
実は平城京跡では、面白い木簡が見つかっています。
平安京へ遷都した後の時代である9世紀のもので、当時の平城京はすたれていたはずでした。
その木簡とは、「馬がいなくなったから探してほしい」という、1メートルもある大きな木簡で、看板として掲げられたと考えられています。しかも、その捜索願を出した人は、興福寺の僧だったといいます。
桓武天皇は最澄や空海は重視
桓武天皇は寺院を平城京に置いていきましたが、全く仏教を捨てたわけではありませんでした。桓武天皇は、政治に口を出す仏教はいらないが、国を守ってくれる仏教はやはり必要としていたようです。
桓武天皇は、当時の中国・唐で新しい天台の教えなどを学んだ帰ってきた最澄や、体系的に密教を伝えた空海を重視しました。このように彼らに期待をかけていたことからも、仏教を必要としていた側面もあったと先生は話します。
こうして、仏教も新しくなっていきました。
【国語表現】第6回 ことばと人間 漢字と語彙の力をつける
漢字と語彙の力をつける
中江有里さん
かもめんたる
今回の演習は「漢字を感じよう!」。
漢字の仕組みを知って、表現力をアップさせましょう!
▶漢字の歴史
坂口陽子先生
甲骨文字
今回、漢字について教えてくださるのは坂口陽子先生です。
今から三千年以上前に生まれた甲骨文字は、現在使われている漢字の古い形です。
上の左図にある甲骨文字、それぞれ何を表しているかわかりますか?
答えは、
上段左から「馬、鳥、立、川」
下段左から「象、羊、見、山」
甲骨文字は亀の甲羅や動物の骨に刻まれていた
「意符(意味を表す部分)」と「音符(音を表す部分)」の組み合わせ
甲骨文字は、その名の通り、亀の甲羅や動物の骨に刻まれていました。
古代の人たちにとって、動物は生きるための食料であるだけでなく、文字を書き残すための大切な道具でもありました。
その後、長い時間を経て多くの漢字が誕生しました。
現在使われている漢字は、大きく分けて4つに分類されます。
(1)象形文字
具体的物の形を簡略化したもの(例:牛、馬)
(2)指事文字
抽象的な概念を図のように表すもの(例:上、下)
(3)会意文字
象形文字や指事文字を組み合わせたもの(例:明、休)
(4)形声文字
「意符(意味を表す部分)」と「音符(音を表す部分)」の組み合わせ(例:河、花)
現在使われている漢字の約9割が形声文字です。
▶「漢字パズル」に挑戦
10個の漢字を組み合わせて別の漢字を作ってみよう
「門」と「日」で「間」という漢字
漢字の仕組みが分かると意味や読みが理解しやすくなります。
以下の10個の漢字を組み合わせて別の漢字を作ってみましょう!
日、十、一、口、門、良、木、女、兆、言
例えば、「門」と「日」で「間」という漢字になりますね!
2つだけでなく3つ以上の漢字を組み合わせても良いですよ。
さて、みなさんはいくつ思いつきましたか?
生徒のみなさんが考えた組み合わせ
生徒のみなさん
生徒のみなさんが考えた組み合わせがこちら!
末、圭、田、叶、杏、如、古、桃、呆、旦、問、娘、誂、本、未、間、計、閑
このように、ひとつの漢字が“偏”になったり“つくり”になったりしています。
例えば「口」を使った漢字に注目してみましょう。
同じ「口」を使っていても、漢字によって部首が変わる場合があります。
「叶」の部首はくちへん
「如」の部首はおんなへん
「杏」の部首はき
さて、部首には法則があります。
“つくり”より“偏”が、“脚”より“冠”が部首になる漢字が多いのです。
また、形声文字は“音符”より“意符”が部首になる漢字が多くあります。
「間」や「閑」の部首はもんがまえですが、「問」の部首はもんがまえではありません。
「問」は“門”の部分が音を表していて、“口”の部分が意味を表していますよね。
つまり、「問」の部首はくちです。
▶同音異義語を考えよう!
同音異義語を考えよう
同音異義語を考えよう
街で見かけた言葉の同音異義語を考えてみました!
【後悔】
同音異義語には「公開」「航海」「更改」などがあります。
【消火】
同音異義語には「唱歌」「商家」「昇華」などがあります。
【海鮮】
同音異義語には「回線」「開戦」「改選」などがあります。
この他にも同音異義語はたくさんあります!
みなさんも街で見かけた言葉の同音異義語、考えてみてくださいね☆
▶言葉のプロに聞いてみよう
平野啓一郎さん
今回のゲストは作家の平野啓一郎さん。
1999年に当時最年少で芥川賞を受賞しました。
日本語にはボキャブラリーが膨大にあります。
例えば、色の名前はほとんどが比喩です。
「うぐいす色」は灰色がかった緑色
「オイスターホワイト(生牡蠣色)」は牡蠣の実の色
を表します。
いろいろな表現がある中で、どの言葉を使うのかを考えるとき、
小説の場合、平野さんは作品の雰囲気や世界観に合っているかを大切にしています。
表現を豊かにするには、良い文章をたくさん読むことだという平野さん。
くだらない文章ばかり読んでいると、自分の言葉もやせていく。
逆に、本当に良い文章を読んでいると、だんだん言葉が満ちてくるそうです。
語彙が増えるほか、言い回しやリズム、格調の高さといった雰囲気も備わると言います。
良い文章の真似をするのも大事なことです。
いい表現を真似したりすることは、文章が上手になる一番の近道です!
▶漢字と語彙の力をつける
お手上げ
「手」を使った表現を考えてみましょう
「お手上げ」というと、単に“手をあげる”という動作を表すのではなく、どうしようもなく行き詰っていることを表しますよね。
日本語には、このような表現がたくさんあります。
それでは、みなさんも「手」を使った表現を考えてみましょう。
生徒のみなさんが考えた表現の一例がこちら!
・手をたたく
(“パンパンと手を叩く”という意味)
・手が離せない
(“忙しくて他のことができない”という意味。
この場合の“手”は、実際の“手”というよりも“作用する手”という意味をもっています。)
・手が届く
(“物に手が届く”という意味と“夢や理想がかなう”という意味がある。)
・手を握る
(“握手”という意味と“仲間になる”という意味がある。)
派生的な意味をもつもの、両方の意味をもつものが多い
みなさんが考えた表現についても考えてみてください
さて、「手」を使った表現、いろいろなものがありましたね。
これを以下の3つに分類してみましょう。
・元の意味で使われているもの
・派生的な意味で使われているもの
・両方の意味で使われているもの
・手をたたく→元の意味
・手が離せない→派生的な意味
・手が届く→両方の意味
・手を握る→両方の意味
分類してみると、派生的な意味をもつもの、両方の意味をもつものが多いことがわかります。
みなさんが考えた表現についても考えてみてくださいね!
文脈によって文字はさまざまな意味をもちます。
それを意識して、より豊かなコミュニケーションができるようになりましょう!
【数学Ⅰ】 第6回 第1章 数と式 乗法公式をもっと知る
松本あゆ美さん 学び隊
この番組のMCは松本あゆ美さん。
そして今回みなさんと一緒に学習するのは、学び隊の小味山紗英さん、奥井亜実さん、多堀玲央くんの3人です!
番組では、問題を解いて答えを出すだけでなく、「数学的な考え方や見方」について考えたり見つけたり説明したりしていきます。
▶これ、知っ得!?
計算の方法や法則を示すために文字で表した式のことを公式という
乗法公式
計算の方法や法則を示すために文字で表した式のことを公式といいます。
みなさん、前回学習した乗法公式は覚えていますか~?
4つしっかり思い出したら、次に進みましょう☆
▶新しい乗法公式を覚えよう
もうひとつ乗法公式を覚えましょう
公式が成り立っていることを確かめる
今回はもうひとつ乗法公式を覚えましょう!
(ax+b)(cx+d)=acx2+(ad+bc)x+bd
まず、この公式が成り立っていることを確かめます。
(ax+b)(cx+d)を展開すると…
(ax+b)(cx+d)=ax×cx+ax×d+b×cx+b×d
=acx2+adx+bcx+bd
=acx2+(ad+bc)x+bd
このように、分配法則を使って展開することで、公式が成り立つことが確かめられましたね。
▶乗法公式を使いこなそう!
展開してみよう
あゆ美さん
それでは、乗法公式を使ってみましょう!
問題です。 乗法公式を利用して(x+y+6)(x+y-6)を展開しなさい。
3人ともに共通しているのはハンバーガーとジュースのセット
共通部分を置き換えると注文がスッキリします
ここで、問題を解くヒントです☆
例えば、あゆ美さんから学び隊の3人に差し入れをします。
3人ともに共通しているのはハンバーガーとジュースのセット。
亜実ちゃんにはセットとサラダ、玲央くんにはセットとポテト、紗英ちゃんにはセットとデザートを差し入れます。
このように共通部分を置き換えると注文がスッキリすると思いませんか!?
式の一部をおきかえて、乗法公式を利用できる形にする
式の一部をおきかえて、乗法公式を利用できる形にする
それでは、改めて問題を考えてみましょう。
x+y=Aとおくと、
(x+y+6)(x+y-6)
=(A+6)(A-6)
=A2-62
=A2-36
=(x+y)2-36
=x2+2xy+y2-36
このように展開できますね!
式の一部をおきかえて、乗法公式を利用できる形にすることがポイントです。
使った乗法公式は
(a+b)(a-b)=a2-b2
(a+b)2=a2+2a b+b2
この2つです。
▶共通部分をおきかえる
何をBとおきかえる?
3x+y=Bとおく
問題です!
(3x+y+4)2を展開するとき、何をBとおきかえたら良いでしょうか?
(3x+y+4)2は(3x+y+4)(3x+y+4)ということなので、
3x+y=Bとおいても、y+4=Bとおいても、3x+4=Bとおいても正解です。
ただし、文字と数字にわけて考えると計算しやすいので、
今回は3x+y=Bとおいて展開してみましょう。
(3x+y+4)2=(B+4)2
=B2+8B+42
=(3x+y)2+8(3x+y)+42
=9x2+6xy+y2+24x+8y+16
このようになります!
湯浅先生
カッコを忘れないでくださいね!
今回、乗法公式について教えてくれるのは湯浅弘一先生(ゆあさま)です。
先ほどの問題では3x+y=Bとおきました。
展開の途中で出てくるB2はB×Bということですから、
B=3x+yに戻して考えると
(3x+y)2=(3x+y)(3x+y)
つまり
B2=(3x+y)2となります。
カッコを忘れないでくださいね!
展開しよう
変形すると共通部分を見つけよう
それではもう一問!
(x+y+5)(x-y-5)を展開しなさい。
このように、すぐに共通部分が見つからない場合でも
(x+y+5)(x-y-5)={x+(y+5)}{x-(y+5)}
と変形すると共通部分がありますね!
y+5=Aとおくと
(x+y+5)(x-y-5)={x+(y+5)}{x-(y+5)}
=(x+A)(x-A)
=x2-A2
=x2-(y+5)2
=x2-(y2+10y+25)
=x2-y2-10y-25
このように展開できます。
Aにおきかえた式は乗法公式を使うための“仮の姿”です。
A=y+5に戻すことを忘れないようにしましょう!
このように共通部分がすぐに見つからない場合にやるべきポイントは以下の2つ!
(1)式を項に区切る
(2)符号を変えて共通部分をつくる
明日も高校講座で勉強します。
記録
天気: 曇り
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最低気温(℃)[前日差] 5℃[-1]
散歩人
【日本史】第6回 第1章 古代国家の形成と貴族文化の誕生
一.平安遷都と政治改革 二.蝦夷との戦い 三.律令から格式へ
今回の時代と三つの要
今回は奈良時代の終りから平安時代の初めにかけて
律令制支配の立て直しと拡大
「鳴くよウグイス平安京」は、誰でも聞いたことのある語呂合わせです。794年、現在の京都に朝廷が置かれ、明治維新までの“千年の都”がここから始まりました。
実際には平安時代は千年も続いたわけではなく、鎌倉時代や江戸時代には政治の中心は鎌倉や江戸にありました。しかし平安時代以来、天皇は変わらず京都に住んでいました。つまり形の上では明治維新まで日本の首都は常に京都にあったと言えるのです。
今回見ていくのは780年頃~820年頃、奈良時代の終りから平安時代の初めにかけての、主に平安時代の基礎が作られた約40年間です。
当時は仏教が政治と結びつき、律令政治が行き詰まりを見せていた時代です。
そのような時代に新しく都が建設され、律令制の支配の拡大と立て直しが行われた過程をたどります。
◆押さえるべき三つの要は、
一.平安遷都と政治改革
二.蝦夷との戦い
三.律令から格式へ
平安時代は、江戸時代よりも長く、およそ400年続いた時代でした。
その前の奈良時代には、平城京が造営された歴史がありました。しかし、遷都から100年経つ前に、都を移すことになっています。
都の建設は国にとっての大きな財政負担ですが、それでも平安京が作られたのはなぜでしょうか? また、この時代には政治改革も行れました。それはどのように進められたのでしょうか?
▶要 其の一 「平安遷都と政治改革」
奈良時代、仏教勢力が政治介入
遷都を決めた桓武天皇
仏教の力で国を護ろうと考える鎮護国家の思想の下、奈良時代の都・平城京には、多くの寺院が造られました。そして半世紀後には、都の仏教勢力は政治に介入するまでになっていました。
そんな中、781年に桓武天皇が即位します。桓武天皇は、即位するとまもなく新しい都を山背(やましろの)国の長岡、現在の京都府南西部に作ることを決めました。
これには、寺院勢力の強い奈良を離れ、新しい政治を行うねらいがありました。
葛野に遷都 メインストリートの朱雀大路
桓武天皇は784年、長岡京へ遷都します。都の近くには桂川や宇治川、淀川などが流れ、長岡京は水陸の交通の要衝でもありました。
しかし、造営責任者の暗殺や洪水の被害がたび重なり、都の完成は断念されました。
そして794年、長岡京の北東に位置する葛野(かどの)、現在の京都市中心部に都が移されました。これが平安京です。
平安京は東西およそ4.5キロメートル、南北およそ5.2キロメートルの規模を誇りました。中国・唐の都にならい、北端の中央に政治を行う大内裏が置かれ、そこからメインストリートとして朱雀大路(すざくおおじ)がまっすぐ伸びています。
平安京の表玄関 平城京からの寺院の移転は認められなかった
平安京の表玄関を飾るのは、羅城門(らじょうもん)です。羅城門をくぐると見えてくる朱雀大路の道幅は83メートルあり、両脇には街路樹が植えられていました。
都には平城京からの寺院の移転が認められず、新たに西寺と、朱雀大路を挟んで東寺が建てられました。大内裏のいくつかの門をくぐると、天皇が政治と儀式を行う大極殿がありました。
国司に対する監督を厳しくした
公民の負担を減らすため徴兵制や軍団を廃止
桓武天皇は、平安遷都と共に政治改革にも取り組みました。
国府が置かれた諸国に一定の任期で赴任し、政治を行ったのが国司です。
当時、この国司交替の際には、事務引きつぎが完了したことを証明する文書「解由状(げゆじょう)」を後任者から前任者に渡すことになっていました。しかし国司の交替の時、米などの租税である官物の在庫量などをめぐる紛争や不正が多く起こりました。
桓武天皇は、解由状をチェックするための役人として勘解由使(かげゆし)を置き、国司に対する監督を厳しくしました。
また公民の負担を減らすため徴兵制や軍団を廃止し、郡司などの子弟で弓や馬が巧みな者を健児(こんでい)として、国府などを守らせました。
桓武天皇は、軍事と造作(ぞうさく)という二つの事業に力を入れました。
造作とは、新しい都作り、つまり長岡京と平安京の造営のことです。
そして軍事とは、律令制による支配を広げようとする戦いで、具体的には蝦夷との戦いのことです。
蝦夷とは、当時東北地方に住んでいた人々のことです。
▶要 其の二 「蝦夷との戦い」
岩手県の奥州市埋蔵文化財調査センターを訪ねる
主任学芸員の佐藤良和(さとうよしかず)さん
土保さんは、岩手県の奥州市埋蔵文化財調査センターを訪ねました。
案内していただいたのは、主任学芸員の佐藤良和(さとうよしかず)さんです。
このセンターでは、蝦夷の生活や、律令国家の支配が東北にまで及んでいたことを知る資料などが展示されています。
律令政府側から蝦夷と呼ばれた
律令社会にいた人々と同じような生活をしていた
蝦夷は、当時の東北地方に住んでいた人たちのことです。自ら蝦夷と名乗ったのではなく、律令政府側から蝦夷と呼ばれました。
当時蝦夷と呼ばれた人々は、文化が未熟で野蛮だと見られていました。
展示品には、ガラス・水晶・石をつなぎ合わせて作った首飾りなど、当時の蝦夷の人々が使っていたものがあります。
蝦夷の人々が実際に使っていた食器と、当時の律令社会の人々が使っていた器を比べてみると、とても似ていることが分かります。両者は色や焼き方は異なりますが、同じ用途で使われ、同じものを食べていたことが想像されます。
佐藤さんは、「蝦夷は決して“野蛮”や“未開”というわけではなく、律令社会にいた人々と同じような生活をしていたということが推測される」と話します。
蝦夷の指導者
征夷大将軍の坂上田村麻呂
律令制の支配を東北地方に拡げようとする政府に対し、蝦夷は反乱を起こしました。
律令国家が次第に北へ支配を拡大していくに従い、蝦夷の中で、抵抗する勢力が現れてきました。その一人の人物がアテルイです。
桓武天皇は、蝦夷との戦いを三度にわたって行いました。
789年、現在の奥州市胆沢で、蝦夷の軍と最初の戦いがありました。この戦いでは、朝廷側が千人以上の死者を出すという大敗北を喫します。
このとき、巧みな戦術で蝦夷軍を率いたのが、蝦夷の族長・アテルイでした。
しかし801年、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍とする三度目の遠征が行われます。
胆沢城は東京ドームが9つ入る大きさ
田村麻呂はさらに盛岡に志波城を築く
田村麻呂は、胆沢地域の蝦夷を制圧し、胆沢に支配の拠点となる城柵を築きました。
埋蔵文化財調査センターには、1/100の大きさで復元された胆沢城の中心部の模型があります。胆沢城は外側を塀と溝で囲まれ、全体の面積はおよそ46万平方メートル、東京ドームが9つ入る大きさでした。
政庁では、儀式などが行われました。また役所が置かれ、税の徴収も行われていました。
アテルイは朝廷軍を何度か追い返していましたが、胆沢城を見て「これはかなわない」と思ったのではないかと佐藤さんは話します。結果的にアテルイは降伏して都に連れていかれ、最終的に大阪で処刑されることになります。
坂上田村麻呂はさらに北方、現在の盛岡市に城を築きます。
志波(しわ)城と呼ばれるこの城は、東西・南北ともに800メートル以上あり、胆沢城をしのぐ東北最大級の城柵でした。
こうして、朝廷の支配が広げられ、蝦夷は律令国家に組み込まれていきました。
蝦夷は徐々に律令の支配に組み込まれていく
軍事と造作は公民への負担だった
「歴史をいろいろな視点で見る、つまり蝦夷側から見ると、戦いの意味もまた違って見える」と話す高橋館長。
今回、土保さんは敗者の歴史というものを知り、「アテルイは、さぞ無念だっただろう」という感想を持ったといいます。
蝦夷との戦いは、
・蝦夷とは、律令国家から見た呼び方で、律令国家側の人々と生活スタイルはほとんど同じ
・律令国家の支配が、軍事と行政の両面で行われ、蝦夷と呼ばれた人々は徐々にその支配に組み込まれていった
と まとめることができます。
軍事と造作の二大事業は国の財政や民衆にとって大きな負担であったため、桓武天皇はこれを続けるかどうか、二人の臣下に論じさせます。
そして、一人が述べた「今、天下が苦しんでいるのは、軍事と造作のためである」という意見を受け入れ、二大事業の中止を決めます。桓武天皇はこの時70歳で、その三ヶ月後に亡くなりました。
そして桓武天皇が立て直しを図った律令制は、この後大きく修正されていきます。
▶要 其の三 「律令から格式へ」
嵯峨天皇は、律令制を大きく修正
藤原薬子・仲成による企て
嵯峨天皇は、桓武天皇亡き後、律令制を大きく修正していきました。
嵯峨天皇は、兄・平城(へいぜい)天皇が病気のため、位を譲られて即位していました。
ところがその後、藤原薬子(ふじわらのくすこ)と、その兄の仲成(なかなり)によって企てられた、「薬子の変」と呼ばれる大きな事件が起きます。二人は、都を平城京に戻そうとした平城太上(へいぜいだいじょう)天皇を、再び天皇の位につけようと企てたのでした。
嵯峨天皇はすぐに制圧行動をとり、薬子らを捕らえました。
令の規定にない令外官
都の治安維持などを担当した検非違使
この事件の終結に、大きな役割を果たしたのが蔵人頭(くろうどのとう)です。 蔵人頭とは、天皇の近くに仕えて機密の文書をあつかう蔵人所(くろうどどころ)という役所の長で、嵯峨天皇が新たに設置したものでした。
また、平安京内での治安維持などを担当する検非違使(けびいし)も置きました。
右写真は平安時代末の絵巻物で、都で起きた事件に急ぎ出動する検非違使の姿が描かれています。
令の規定にないこれらの官職は令外官(りょうげのかん)と呼ばれ、これまでの令を補うものとして、以後重要な役割を果たすようになっていきます。
実社会に合わせたルールである格と式を作り、政治運営を行った
さらに嵯峨天皇は、律令の改革を進めました。
律令の規定を修正、補足するための格(きゃく)や、施行上の細則である式が次々と定められました。律令政治は主に格と式によって運営されるようになっていきます。
こうして嵯峨天皇以降の政権は安定し、平安京は千年の都として歩み始めます。
この時代になると、律令を取り入れてから100年以上が過ぎていました。
律令という決めごとが社会に合わなくなってきたため、実社会に合わせたルールである格と式を作り、政治運営を行っていこうとしたのかもしれません。
▶日本の歴史・いとをかし
奈良文化財研究所 史料研究室長の渡辺 晃宏 先生
今回も奈良文化財研究所 史料研究室長の渡辺 晃宏 先生に話をうかがいます。
桓武天皇は、千年の都を造るという思いで平安京を造ったのかといえば、そうではないといいます。
先生は、平安京は結果的に1000年続いたが、最初からその地位が確立していたわけではないと考えているそうです。そして薬子の変が失敗に終わった段階ではじめて、平安京の地位が固まってきたのではないかといいます。
大きな寺院が残されたため奈良の市街地は現代まで栄えた
捜索願の看板として使われた木簡
現在の奈良町と呼ばれている奈良の元の市街地の部分は、町として現代まで続きます。興福寺や元興寺、あるいは少し外れた位置にある東大寺などの大きな寺院が、平城京に残されたことが大きかったと先生は話します。
実は平城京跡では、面白い木簡が見つかっています。
平安京へ遷都した後の時代である9世紀のもので、当時の平城京はすたれていたはずでした。
その木簡とは、「馬がいなくなったから探してほしい」という、1メートルもある大きな木簡で、看板として掲げられたと考えられています。しかも、その捜索願を出した人は、興福寺の僧だったといいます。
桓武天皇は最澄や空海は重視
桓武天皇は寺院を平城京に置いていきましたが、全く仏教を捨てたわけではありませんでした。桓武天皇は、政治に口を出す仏教はいらないが、国を守ってくれる仏教はやはり必要としていたようです。
桓武天皇は、当時の中国・唐で新しい天台の教えなどを学んだ帰ってきた最澄や、体系的に密教を伝えた空海を重視しました。このように彼らに期待をかけていたことからも、仏教を必要としていた側面もあったと先生は話します。
こうして、仏教も新しくなっていきました。
【国語表現】第6回 ことばと人間 漢字と語彙の力をつける
漢字と語彙の力をつける
中江有里さん
かもめんたる
今回の演習は「漢字を感じよう!」。
漢字の仕組みを知って、表現力をアップさせましょう!
▶漢字の歴史
坂口陽子先生
甲骨文字
今回、漢字について教えてくださるのは坂口陽子先生です。
今から三千年以上前に生まれた甲骨文字は、現在使われている漢字の古い形です。
上の左図にある甲骨文字、それぞれ何を表しているかわかりますか?
答えは、
上段左から「馬、鳥、立、川」
下段左から「象、羊、見、山」
甲骨文字は亀の甲羅や動物の骨に刻まれていた
「意符(意味を表す部分)」と「音符(音を表す部分)」の組み合わせ
甲骨文字は、その名の通り、亀の甲羅や動物の骨に刻まれていました。
古代の人たちにとって、動物は生きるための食料であるだけでなく、文字を書き残すための大切な道具でもありました。
その後、長い時間を経て多くの漢字が誕生しました。
現在使われている漢字は、大きく分けて4つに分類されます。
(1)象形文字
具体的物の形を簡略化したもの(例:牛、馬)
(2)指事文字
抽象的な概念を図のように表すもの(例:上、下)
(3)会意文字
象形文字や指事文字を組み合わせたもの(例:明、休)
(4)形声文字
「意符(意味を表す部分)」と「音符(音を表す部分)」の組み合わせ(例:河、花)
現在使われている漢字の約9割が形声文字です。
▶「漢字パズル」に挑戦
10個の漢字を組み合わせて別の漢字を作ってみよう
「門」と「日」で「間」という漢字
漢字の仕組みが分かると意味や読みが理解しやすくなります。
以下の10個の漢字を組み合わせて別の漢字を作ってみましょう!
日、十、一、口、門、良、木、女、兆、言
例えば、「門」と「日」で「間」という漢字になりますね!
2つだけでなく3つ以上の漢字を組み合わせても良いですよ。
さて、みなさんはいくつ思いつきましたか?
生徒のみなさんが考えた組み合わせ
生徒のみなさん
生徒のみなさんが考えた組み合わせがこちら!
末、圭、田、叶、杏、如、古、桃、呆、旦、問、娘、誂、本、未、間、計、閑
このように、ひとつの漢字が“偏”になったり“つくり”になったりしています。
例えば「口」を使った漢字に注目してみましょう。
同じ「口」を使っていても、漢字によって部首が変わる場合があります。
「叶」の部首はくちへん
「如」の部首はおんなへん
「杏」の部首はき
さて、部首には法則があります。
“つくり”より“偏”が、“脚”より“冠”が部首になる漢字が多いのです。
また、形声文字は“音符”より“意符”が部首になる漢字が多くあります。
「間」や「閑」の部首はもんがまえですが、「問」の部首はもんがまえではありません。
「問」は“門”の部分が音を表していて、“口”の部分が意味を表していますよね。
つまり、「問」の部首はくちです。
▶同音異義語を考えよう!
同音異義語を考えよう
同音異義語を考えよう
街で見かけた言葉の同音異義語を考えてみました!
【後悔】
同音異義語には「公開」「航海」「更改」などがあります。
【消火】
同音異義語には「唱歌」「商家」「昇華」などがあります。
【海鮮】
同音異義語には「回線」「開戦」「改選」などがあります。
この他にも同音異義語はたくさんあります!
みなさんも街で見かけた言葉の同音異義語、考えてみてくださいね☆
▶言葉のプロに聞いてみよう
平野啓一郎さん
今回のゲストは作家の平野啓一郎さん。
1999年に当時最年少で芥川賞を受賞しました。
日本語にはボキャブラリーが膨大にあります。
例えば、色の名前はほとんどが比喩です。
「うぐいす色」は灰色がかった緑色
「オイスターホワイト(生牡蠣色)」は牡蠣の実の色
を表します。
いろいろな表現がある中で、どの言葉を使うのかを考えるとき、
小説の場合、平野さんは作品の雰囲気や世界観に合っているかを大切にしています。
表現を豊かにするには、良い文章をたくさん読むことだという平野さん。
くだらない文章ばかり読んでいると、自分の言葉もやせていく。
逆に、本当に良い文章を読んでいると、だんだん言葉が満ちてくるそうです。
語彙が増えるほか、言い回しやリズム、格調の高さといった雰囲気も備わると言います。
良い文章の真似をするのも大事なことです。
いい表現を真似したりすることは、文章が上手になる一番の近道です!
▶漢字と語彙の力をつける
お手上げ
「手」を使った表現を考えてみましょう
「お手上げ」というと、単に“手をあげる”という動作を表すのではなく、どうしようもなく行き詰っていることを表しますよね。
日本語には、このような表現がたくさんあります。
それでは、みなさんも「手」を使った表現を考えてみましょう。
生徒のみなさんが考えた表現の一例がこちら!
・手をたたく
(“パンパンと手を叩く”という意味)
・手が離せない
(“忙しくて他のことができない”という意味。
この場合の“手”は、実際の“手”というよりも“作用する手”という意味をもっています。)
・手が届く
(“物に手が届く”という意味と“夢や理想がかなう”という意味がある。)
・手を握る
(“握手”という意味と“仲間になる”という意味がある。)
派生的な意味をもつもの、両方の意味をもつものが多い
みなさんが考えた表現についても考えてみてください
さて、「手」を使った表現、いろいろなものがありましたね。
これを以下の3つに分類してみましょう。
・元の意味で使われているもの
・派生的な意味で使われているもの
・両方の意味で使われているもの
・手をたたく→元の意味
・手が離せない→派生的な意味
・手が届く→両方の意味
・手を握る→両方の意味
分類してみると、派生的な意味をもつもの、両方の意味をもつものが多いことがわかります。
みなさんが考えた表現についても考えてみてくださいね!
文脈によって文字はさまざまな意味をもちます。
それを意識して、より豊かなコミュニケーションができるようになりましょう!
【数学Ⅰ】 第6回 第1章 数と式 乗法公式をもっと知る
松本あゆ美さん 学び隊
この番組のMCは松本あゆ美さん。
そして今回みなさんと一緒に学習するのは、学び隊の小味山紗英さん、奥井亜実さん、多堀玲央くんの3人です!
番組では、問題を解いて答えを出すだけでなく、「数学的な考え方や見方」について考えたり見つけたり説明したりしていきます。
▶これ、知っ得!?
計算の方法や法則を示すために文字で表した式のことを公式という
乗法公式
計算の方法や法則を示すために文字で表した式のことを公式といいます。
みなさん、前回学習した乗法公式は覚えていますか~?
4つしっかり思い出したら、次に進みましょう☆
▶新しい乗法公式を覚えよう
もうひとつ乗法公式を覚えましょう
公式が成り立っていることを確かめる
今回はもうひとつ乗法公式を覚えましょう!
(ax+b)(cx+d)=acx2+(ad+bc)x+bd
まず、この公式が成り立っていることを確かめます。
(ax+b)(cx+d)を展開すると…
(ax+b)(cx+d)=ax×cx+ax×d+b×cx+b×d
=acx2+adx+bcx+bd
=acx2+(ad+bc)x+bd
このように、分配法則を使って展開することで、公式が成り立つことが確かめられましたね。
▶乗法公式を使いこなそう!
展開してみよう
あゆ美さん
それでは、乗法公式を使ってみましょう!
問題です。 乗法公式を利用して(x+y+6)(x+y-6)を展開しなさい。
3人ともに共通しているのはハンバーガーとジュースのセット
共通部分を置き換えると注文がスッキリします
ここで、問題を解くヒントです☆
例えば、あゆ美さんから学び隊の3人に差し入れをします。
3人ともに共通しているのはハンバーガーとジュースのセット。
亜実ちゃんにはセットとサラダ、玲央くんにはセットとポテト、紗英ちゃんにはセットとデザートを差し入れます。
このように共通部分を置き換えると注文がスッキリすると思いませんか!?
式の一部をおきかえて、乗法公式を利用できる形にする
式の一部をおきかえて、乗法公式を利用できる形にする
それでは、改めて問題を考えてみましょう。
x+y=Aとおくと、
(x+y+6)(x+y-6)
=(A+6)(A-6)
=A2-62
=A2-36
=(x+y)2-36
=x2+2xy+y2-36
このように展開できますね!
式の一部をおきかえて、乗法公式を利用できる形にすることがポイントです。
使った乗法公式は
(a+b)(a-b)=a2-b2
(a+b)2=a2+2a b+b2
この2つです。
▶共通部分をおきかえる
何をBとおきかえる?
3x+y=Bとおく
問題です!
(3x+y+4)2を展開するとき、何をBとおきかえたら良いでしょうか?
(3x+y+4)2は(3x+y+4)(3x+y+4)ということなので、
3x+y=Bとおいても、y+4=Bとおいても、3x+4=Bとおいても正解です。
ただし、文字と数字にわけて考えると計算しやすいので、
今回は3x+y=Bとおいて展開してみましょう。
(3x+y+4)2=(B+4)2
=B2+8B+42
=(3x+y)2+8(3x+y)+42
=9x2+6xy+y2+24x+8y+16
このようになります!
湯浅先生
カッコを忘れないでくださいね!
今回、乗法公式について教えてくれるのは湯浅弘一先生(ゆあさま)です。
先ほどの問題では3x+y=Bとおきました。
展開の途中で出てくるB2はB×Bということですから、
B=3x+yに戻して考えると
(3x+y)2=(3x+y)(3x+y)
つまり
B2=(3x+y)2となります。
カッコを忘れないでくださいね!
展開しよう
変形すると共通部分を見つけよう
それではもう一問!
(x+y+5)(x-y-5)を展開しなさい。
このように、すぐに共通部分が見つからない場合でも
(x+y+5)(x-y-5)={x+(y+5)}{x-(y+5)}
と変形すると共通部分がありますね!
y+5=Aとおくと
(x+y+5)(x-y-5)={x+(y+5)}{x-(y+5)}
=(x+A)(x-A)
=x2-A2
=x2-(y+5)2
=x2-(y2+10y+25)
=x2-y2-10y-25
このように展開できます。
Aにおきかえた式は乗法公式を使うための“仮の姿”です。
A=y+5に戻すことを忘れないようにしましょう!
このように共通部分がすぐに見つからない場合にやるべきポイントは以下の2つ!
(1)式を項に区切る
(2)符号を変えて共通部分をつくる
明日も高校講座で勉強します。
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