詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

細田傳造「まじめなマンション」

2024-02-19 22:20:26 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「まじめなマンション」(「妃」25、2023年12月28日)

 細田傳造「まじめなマンション」を読みながら、「まじめ」の定義はなかなかむずかしい、と思う。

税務申告はやく済ませましょう
まじめなことに税金をつかっていただきましょう
さよならおげんきでまたね
家に還ってNHK正午のニュースを見る
政治家のお顔が映っている
まじめかしら ついつい疑ってしまう

 これは、まあ、だれもが考える「まじめ」の部類かなあ。このあとに、細田の「まじめ」がぬっと顔を出す。

信頼しなくてはいけませんよね
ともだちもじぶんの近々の邪念を語る
あれからずっとセックスしていないの
しなさいよ
誰と
返事につまる
もうかれこれ
一年前から彼女のつれあいは天国にいらっしゃる
天国でなさいなさいよ
とはいえない
この世で誰かとしちゃえばともいえない

 「この世で誰かとしちゃえばともいえない」とは、いわば軽口のようなのもだけれど、その前の「返事につまる」。これがいいなあ。まじめだなあ。まじめに気がついて、細田はそれを隠そうとして詩を軽口の方向に動かしていくのだが、「返事につまる」(ことばにつまる)、そのときの感じがいいなあ。
 「つまる」という動詞がいいのだ。
 「返事につまる」は、言いなおせば「返事」が「どこかに」つまる。その「どこか」を省略したまま、私たちは「返事につまる」という表現をつかうが、これは誰もが、返事が「どこに」つまるかを知っているから省略するのである。
 この呼吸が、細田の細田らしい繊細さ、敏感さ。
 「誰もが知っていること」は、言わないのである。
 それは「税務申告ははやく済ませましょう/まじめなことに税金をつかっていただきましょう」や「政治家」は「まじめかしら」にも通じる。そのあとに「疑ってしまう」があったが、実際はどうなのか、みんな「知っている」。
 ところが、セックスをどうすればいいのか。これには、みんなが知っている「正解」がない。その「正解」のないところに、ほら、「まじめ」が突然あらわれる。「まじめ」になるしかない。「まじめ」になるというのは、自分で考えるということだね、とも思う。「まじめ」に考えると、ことばは動かない。かわりに、肉体のなかで感情が動く。その感情(気持ち)がつまるのでもある。「返事につまる」は「気持ちがつまる」でもあるのだ。そして、「気持ちがつまる」と書くと、なんというか、これはこれで相手に踏み込みすぎる。セックスのことなんか「気持ち」にしてしまってはいけないのだ。細田はまじめだから、そう考えている。
 他人というか、相手といった方がいちばんいいのかなあ、向き合っている人との、距離のとり方が、細田はほんとうに繊細だ。そこに細田の「正直」があらわれている。
 「返事につまる」という一行が好きで、私は、この詩を何回も読み直してしまった。

 

 

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杉惠美子「茜さす」ほか

2024-02-18 13:55:29 | 現代詩講座

杉惠美子「茜さす」ほか(朝日カルチャー講座福岡、2024年02月15日)

 受講生の作品。

茜さす  杉惠美子
 
夕焼けに染まる海岸線は
一面の古代色

その輝きの静けさと儚さ
遠い光の淋しさと懐かしさ

色となり  影となり
音となり  風となり

消え入るほどに  我をなくす
波音に吸い込まれて  音をなくす

波頭を飛び渡って
静謐の時に溺れている

 「最後の2行が目に見える。色が印象的。ことばが最終行に収斂していく。きれいな、静かな景色が思い浮かぶ」「最初の2行と最後の2行が詩を生かしている」「古代色ということばのインパクトが強い。最終行の結び方が抽象的だが、古代色と静謐の対比が静けさをかもしだしている。途中の変化、対比が少し書かれすぎかも。少し抽象的かもしれない。そのため響いてこない」
 最後の感想は三連目だろうか。この部分を他の受講生は、どう読んだか、聞いてみた。
 「色から静謐への変化が書かれている」「書かずにいられない気持ちがわかる。『私』でまとめられるかもしれない」
 なるほど、「私は色となり 私は影となり 私は音となり 私は風となり」、杉は「私」ではなく4連目で「我」ということばで引き取っているが。
 この3連目は、一種の「飛躍」であり、それを支えているのが「……となり」という繰り返し。リズム(音楽)にのって、ことばが「意味」に縛られずに動く。そして、その「意味」に縛られないことが、逆に、強い印象を引き起こす。「主語」を省略することで、運動だけが強調される。
 2連目は名詞をあらわす「さ」、3連目は「となり」、4連目は「なくす」という脚韻で音楽を作り出しているのだが、2連目の一行目「その輝きの静けさと儚さは」と「は」を補って1連目と「対」のようにしてみるのもおもしろいかもしれない。「対」になることで、一つの動きが生まれ、それがイメージを加速させる。「は」があっても「さ」の脚韻は生きると思う。

休息  青柳俊哉   

 深く靴を踏みしめてジャガイモを覆(くつがえ)す

銀杏(イチョウ)の大木のしたの木目のテーブル 
春の味がする紅茶に
シナモンのリキュールをそそぐ  
来る年の野菜や花の名が空をとぶ

ジャガイモは冬のドイツの
貧しい農民と豚の瞳を明るくした
リキュールはかれらの年輪へおりて生をこえる

素足のくつろぎと ふきよせる黄色い葉

ぬがれた靴はもうこの空間をみたしはじめる
花や野菜の名 素足や黄色い葉を

 銀杏の大木が靴の中に芽ぶいて冬の眠りは畑にしずむ

 この詩の5、6連目には、別バージョンがある。

ぬがれた靴をもうこの空間はみたしはじめる
花や野菜の名 素足や黄色い葉で

 銀杏の大木が靴の中に芽ぶいて冬の眠りへ畑はしずむ

 読み比べながら、受講生の感想を聞いてみた。
 「最初は作者の暮らしを思ったが、ドイツが出てきたので空想を書いたのかとなあと考えた。イメージがわからないところがある。別バージョンの方が好き」「別バージョンの方が、ことばの流れとしてなめらかさがある」「2連目の風景、雰囲気が好き。靴が印象的で、詩のなかで大きな位置を占めている。別バージョンの方がわかりやすいが、最初の詩のわからなさがいい」
 「わからなさがいい」というのは絶妙な批評だが、詩は、わからないことが書かれている方が牽引力(吸引力)のようなものがある。助詞のつかい方は、学校文法的には別バージョンの方が「正確」なのかもしれないが、学校文法を破壊することで「もの(存在)」が自由を獲得し、新しく世界に出現してくる感じがする。読者の意識が解放される。
 ドイツが出てくるが、じゃがいも、靴はゴッホの絵を思わせる。銀杏(黄色)はゲーテの詩、「一枚の葉が二枚に分かれていくのか/二枚の葉が一枚になろうとするのか」を呼び寄せて楽しい。
 2連目も楽しいが、3連目の「豚の瞳を明るくした」の「豚」がとてもいい。豚はきれい好きな動物といわれるが、どちらかというと「汚い」イメージがある。それが逆に「瞳を明るくした」を輝かせる。「靴/ジャガイモ/豚」というの「貧しい/農民」と「紅茶/シナモン/リキュール」という「豊かさ」を感じさせるものがぶつかり合って、そこから複雑な乱反射の輝きが生まれている。強烈な印象が生まれる。
 「休息」というタイトルも、人間の休息と自然の休息(冬)が重なり、象徴的である。

 (15日は、受講生以外の作品も読んだのだが、その作品と感想は省略)

 

 


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こころ(精神)は存在するか(14)

2024-02-17 14:00:24 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集8。「風土」はハイデガーの「存在と時間」への批判として書かれたもの。空間性に排除した時間性は真の時間性ではない。ハイデガーのいう存在は個人にすぎない、という視点から「空間」を含めた「人間存在」を描こうとしたもの。このとき「空間」というのは「社会(生活)」を含む。人間は個人であると同時に社会的存在(他人といっしょに生きている)ということ。
 15ページに、ベルグソンに通じることばがある。

人間存在は無数の個人に分裂することを通じて種々の結合や共同態を形成する運動である。この分裂と統合とはあくまでも主体的実践的なものであるが、しかし主体的な身体なしに起こるものではない。従って主体的な意味における空間性・時間性が右のごとき運動の根本構造をなすのである。ここに空間と時間とがその根源的な姿において捕らえられ、しかも空間と時間との相即不離が明らかにせられる。

 ベルグソンの「時間=と=空間」を、私は「時間=肉体=空間」と言いなおした。「肉体」は「運動」の言い直しなのだが、和辻は「肉体」を「身体」、「運動」を「実践」と言っていると私は「直観/誤読」する。つまり、読み替える。
 和辻もまた「身体(肉体)と「実践(運動)」は切り離せないものと考えているから、人間が生きていることを「主体的な身体」よる「主体的実践」と読んでいると「誤読/解釈」する。
 こう読むと、あらゆる哲学者は、それぞれ「個人語」で同じことを言っているように感じられる。
 実際に、そうなのだと思う。どんな思想家が目指しているのも「人間はどうしたらみんなが幸福になれるか(幸福であることが人間の理想)」という問題への「答え」探しだからである。
 もし、そうだとしたら。
 問題は、こういうことである。
 私はいま和辻を読み、きのうはベルグソンを読んだが、「思想」は、彼らだけのものではない。あらゆる人間が「どうしたらみんなが幸福になれるか」と考えている。
 私の両親は、和辻もベルグソンも読まなかった(そもそも私の家には、学校の教科書以外の本はなかった)が、両親はそれでは「思想」を持たずに死んでいったと、私は考えることができない。何も話さなかったし、何も書き残さなかったが、ふたりが「思想」を持たずに、幸福になりたいと考えずに、何十年も生きられるはずがない。いったい何を考えていたのか。
 たとえば母は、何か困ったことがあると、必ず仏壇の前で「南無阿弥陀仏」を繰り返していたが、「念仏を唱えれば幸福になれる(問題が解決する)」という考えが、和辻やベルグソンの「思想」に比べて劣っているとは思えない。生きて、死ぬまで、それで生きて行くことができたのだから。
 私は、母や父の「思想」を私自身のことばで「取り戻す」ということができない。あるいは「回復」できない。ここには、なんとも言えず、不思議な「問題」がある。私はそんなに余命があるとは考えていないが、死んでいくためには、それを知る必要があると思う。わからないならわからないで、「私には何もわからない」ということを知った上で、死にたいと思う。

 脱線したが。
 「回復」と書いて、私は、ふたたび和辻に戻る。
 和辻の書いている問題は、時間、空間を考えるとき、あるいは「人間存在」を考えるとき、人間はどうやって生きているかを考えるとき、「個人/肉体」というものが、どんなふうに実現されるか。「個人/肉体」をどう「回復」するかということなのだろう。
 「個人/肉体」を「回復」できたとき(取り戻すことができたとき)、人間は幸福になることができる。(正しく生きることができる。)

 私の書いている「世界に存在するのは私の肉体だけ」という考えは、「人間存在は無数の個人に分裂することを通じて種々の結合や共同態を形成する」と矛盾するか。
 傍から見れば「矛盾」に見えるかもしれない。
 しかし、私は「世界に存在するのは私の肉体だけ」と考えるけれど、その私が出会った肉体(他人)が同様に「世界に存在するのは私の肉体だけ」と考えることを拒まない。誰かと出会う(これも運動である)とき、「世界」はそのつど「新しくなる」。「世界」とは「時間と空間」であり、その「時間と空間」は「私の肉体」が「動く」とき、それまでとは違った「時間と空間」になって「出現」する。そうした「変化」のさなかにあって、存在していると確信できるのは「私の肉体」という存在だけである、と言いなおせばいいのかもしれないが。

 

 

 

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こころ(精神)は存在するか(13)

2024-02-16 22:11:59 | こころは存在するか

 ベルグソン・メモ(つづき)。
 誰もがつかうことばに「時間」「空間」がある。二つをあわせて「時空間」というときもある。これは「四次元」をあらわすと私は理解しているが、ベルグソンは、

時間=と=空間

 という表記をつかっている。(訳語だから、フランス語ではどう書いているか、私は知らない。私はベルグソンの研究をしているのではないから、厳密には考えない。というか、前に書いたように、私は私の考えを整えたいのだから、ベルグソンが言っていることよりも、そのことばが触発してくるものに関心がある。)
 どうして、ここに「と」が入ってくるのか。「と」とは何か。
 この「時間=と=空間」は「空間であるとともにまた時間でもある」と言いなおされ、さらに「時間であるとともに空間である」とも言いなおされる。言いなおすとき、何が変わっているか。

 ベルグソンの「キーワード」のひとつに「継続(持続)」がある。「実在的持続」は「生成」と言いなおされている。(「生成」を「実在的持続」と言いなおしていたのかもしれない。)
 そして、おもしろい「例」をあげている。
 「円を描く」と「描かれた円」は同じものか。円を描いた結果、そこに描かれた円が残ったとする。「円を描く」というとき、その「描く」は運動であり(円の「生成」であり)、そこには「時間」がある。しかし、「描かれた円」には、その「時間/生成」が排除されている。
 この「生成の排除」を指摘するために「時間=と=空間」という「わかりにくい」構文をつかったのだとわかる。
 この「排除された生成=時間(持続的時間)」をどうやって回復するか。それをベルグソンは考えているだろう。

 こういう「ややこしい」、けれど刺戟的な問題とは別に、たとえば、私は次の文章からも刺戟をうける。

継続と持続が存在するのは、まさに実在がためらい、手さぐりして、予知しがたい新しさをだんだんと作りあげるからである。

 この文章の「手さぐり」の「手」。なぜ、「手」ということばが必要なのか。「手」をベルグソンが書いているのか、翻訳者が付け加えたものなのか判断できないが、私は「手」に惹かれる。
 「手」さぐりということばとともに、私の手は動く。何も見えない闇のなかで、手が何かに触れたとき、「見つけた」と感じた喜び(安心)を思い出す。手には記憶(時間)がある。記憶は手である。そのとき記憶(意識=精神、あるいはこころ)は手である。つまり意識、精神、こころというような目に見えないものがなくても、手があれば記憶をたぐりよせることができるのである。
 「こころは存在しない」というのは、そういうことである。

 「有機」ということばから始まる次の文章の「身体」も、私にとっては、とても重要である。私は「身体」ということばをつかわず「肉体」というのだが。言いなおせば、当然のこととして、私はベルグソンの「身体」を「肉体」と言いなおして読んでいるのだが。これが「時間」と「行動」とともに書かれている。「行動」を私は「運動」と言いなおして、その文章全体を私のものにしたいともくろんでいる。

有機的なものが存在しており、意識的なものが存在している。自分の身体によって有機的世界の中に、精神によって意識的世界の中に挿入されているわたしくは、前方への歩みを漸進的豊潤化として、発明と想像の連続として知覚する。時間はわたしくにとっては、いっそう実在的で必然的なものである。それは行動の基本的条件である。--いや、それは行動そのものである。

 「肉体」が動く。運動する。そこに「時間」がある。それ以外に「時間」は存在しない。「肉体」が動く。そこに「空間(場)」がある。それ以外に「空間(場)」は存在しない。世界に存在するのは「私という肉体」だけである、というのが、私の考えである。
 「時間=と=空間」とベルグソンは書くが、私はこれを「時間=私=空間」と書き直す。「と」は「私」そのものである。ベルグソンがいなければ「と」は存在しなかった。だから、「時間=と=空間」とは「時間=ベルグソン=空間」と言いなおすことができる。これを利用して「ベルグソン」という固有名詞を「肉体」に書き換えると「時間=肉体=空間」になり、肉体が時間と空間を生み出すと私は考える。
 私がそう考えるようになったのはベルグソンを読んだからではなく、ほかのものを読んだからなのだが(それをもう一度読み直して確認するために、私は和辻を読み、ベルグソンを読んでいるのだが)、ベルグソンも同じことを考えている、と私は「誤読」するのである。ベルグソンをとおして、私のことばを整えるのである。

 

 

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こころ(精神)は存在するか(12)

2024-02-15 17:43:38 | こころは存在するか

 ベルグソンは書いている。

ただ一つの実在的時間が存在し、他のすべての時間は虚構の時間である。

 「実在的時間」は「生きられた時間」を言いなおしたものである。個人個人によって「生きられた時間」だけがほんとうの時間であり、そのほかは虚構の時間である。
 私はこれを利用して逆に言いなおす。「実在的」とは「生きられたもの/体験されたこと」である、と。「実在的ことば」とは「生きられたことば」であり、その対極に「虚構のことば」がある。「実在的肉体(ベルグソンは、実在的身体、と書くかもしれない)」は「生きられた肉体」であり、その対極に「虚構の肉体」である。
 「虚構のことば」「虚構の肉体」であるにもかかわらず、私がそのことば、肉体に反応するとすれば、それはその虚構のなかに私の「体験」を直観するからである。実感するからである。

 また、こんなことを書いている。

「空間の剛い図形こそその諸条件を光の図形に課する」(略)。この命題を逆にして次のように言うことがある。「光の図形こそがその諸条件を剛い図形に課するのである」と。換言すれば、剛い図形は実在そのものではない、それはたんに精神の構造物にすぎない。

 「逆にして、言う」、つまり言いなおす。このとき、動いているのは「精神」であるが、精神が動くときは「肉体」が動いている、移動しているのである。肉体が「基準点」を変える。つまり「立場」を変える。
 「精神」あるいは「こころ」は存在しないと私は考えているので、そう「誤読」する。
 「精神の構造物」とは「ことばの構造物(ことばの運動が描き出す存在)」である。

 ここから、私は、きょうこんな詩のメモを書いた。

 Aにおいて枯れたバラ(虫食いのバラの造花)と表象されたものは、Aにおける内的荒廃を生きているとBは書き留める。しかしAにおいて内的荒廃、あるいは荒廃する内面というものは存在せず、鏡のなかでネクタイを結びなおすBの背中がもはや触れることのできないものとして世界、つまり外部を構成しているという事実があることはBは知らない。
 このことに関して、バラの造花が銅製であり、無着色のものであることに注目し、そこから別の注釈を試みた詩人がいたことを指摘しておく。
 一方、この私的に対して、詩人は次のように反論している。
 同じ物語はAとBによって、同じ空間、同じ時間に歪曲されることによって、その内部にとりかえしのつかない実在的時間が蓄積される。
 しかし、こうやって複数に複製される事実について、当のAが「私はもう鏡をのぞかない。鏡のなかからBの、私を見つめ返す視線が反射してくるから」と日記に書いたことは、Bの創作である。つまり、虚構である。

 

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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(80)

2024-02-14 21:54:32 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「岩の小舟溜まり」。

聞け。言葉は老いたる者の叡知。

 この一行は、不思議だ。突然「言葉」が登場する。「言葉は叡知」を「叡知は言葉」と読み直すこともできるだろう。そのとき「老いたる者の」という修飾語を必要とするかどうかは、わからない。いや、そうではなく、この一行では「老いたる者」が、間接的に、重要なのかもしれない。
 間接的に重要、というのは奇妙な言い方になるが。
 言いなおそう。
 もし「老いたる者」のかわりに「若者の」ということばがこの一行にあったとしたら、その前後の表現はどうなるのだろうか。
 「肉体は若者の叡知」とならないだろうか。「叡知は肉体」である。それは「肉体は叡知」にかわり、そして、その「叡知」は「無知(恐れを知らない)」かもしれない。そこには輝かしい「いのち」がある。「いのち」は「叡知」など必要としない。
 そのとき、「聞け。」はどうかわるか。
 「見ろ(見よ)」に変わるかもしれない。
 この詩のなかに繰り返される「きみ(の)」ということばから、私は、「きみの若い肉体」を見ている「老いたる詩人」を反射的に思い浮かべる。「私」がだれか、この詩では書かれていないが。「聞け。」と言った人は、「きみ」よりも「老いている」。もし、「きみ」と同じ年代ならば(若いにせよ、老いているにせよ)、「聞け。」と呼びかけたあと、「老いたる者の」ということばは書かれないだろう。
 「聞け。」という強い響きが、そういうことを想像させる。


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野沢啓「文法的詩学との交差点--藤井貞和試論との対話」

2024-02-14 00:03:54 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「文法的詩学との交差点--藤井貞和試論との対話」(「イリプスⅢ」6、2024年01月20日発行)

 私は「誤読」が大好きな人間であるから、他人の誤読を指摘しても意味はないのだが、しかし、まあ、驚いた。

あらためて認識しよう。詩とはそれぞれが起源の言語とならなければならない。

 この部分だけを取り出せば、野沢がこれまで書いてきた「言語隠喩論」の「復習」と読めないわけではないのだが(野沢はそのつもりだろうが)、ここで書かれている「起源」というのは、実は藤井貞和の書いた文章からの借用である。
 「イリプスⅢ」5で藤井が野沢の「言語隠喩論」に対する好意的な批評を書いたので、今度は野沢が、藤井の論を紹介しながら藤井を持ち上げているのだが、藤井の書いている「起源」は「一般的」なものではない。
 藤井は「和歌」をとりあげ、「類歌」に触れている。古典の和歌には、たしかに類歌がたくさんある。類歌というのは似ている歌のことであるが、似ているということは「違い」もあるということ。その「違い」のなかに、個人の始まりの欲望を藤井は読み取っている。類似しているけれど、それが「違い」を含んでいるのは、そこに「個人」意識がある(自分は他人とはここが違う、という意識がある)。つまり、類歌には「個人の起源」が認められる。
 野沢が引用している部分は、こうである。

個人に始まる新しさ、自分において初めてだという「起源」を作り出す。創作文学であるとはその謂いで、起源を作り出すというように考えれば、類型の量産にすら個によるオリジナリティがある。

 似ていても違う部分がある。それは「オリジナリティ」である。そこに「個人」が認められる。みんな「個人」になりたかった。
 藤井は和歌の歴史を振り返りながら、そういうことを言っている。
 これを野沢は「拡大解釈」している。

 で、ここでも思うのだが、私は野沢は、なぜここで「詩とはそれぞれが起源の言語とならなければならない」と「詩」に限定して論を進めるかである。藤井はまったく逆に「和歌」の、しかも「類歌」に焦点をあてて、そこから「起源」ということばを発しているのに、である。
 私の考えでは、それぞれが、それぞれの個人を起源として、それぞれのことばを作り出すというのは詩に限定されることではない。和歌(短歌)も俳句も小説も哲学も、みんなそれぞれの「個人的言語」で書かれている。
 傍目には漱石と鴎外は「日本語」で小説を書いているが、よくよく読んでみると、漱石は漱石語、鴎外は鴎外語で書いている。その「個人語」の違いがわからないなら、漱石も鴎外も読んだことにはならないだろう。哲学も同じ。みんな、それぞれの個人語で書いている。
 いちばんいい例が「新約聖書」である。(日本語の例ではないが、日本語の例ではないからこそ、「個人語」こそが「文学/哲学/宗教」であることを説明するのに都合がいいだろう。)「新約聖書」では何人かの人が、みんなキリストのことを語っている。それは「同じこと」を語っているはずなのに、違っている。キリストは十字架にかけられて死んだ。その事実は同じなのに、そしてその理由、行動も同じなのに、書くひとが違えば、書かれることが違っている。キリスト教徒ではない私が言っても何の説得力も持たないが、そこに「違い」があるからこそ、キリストは存在したし、その目撃者もいたという「普遍的事実」がわかるのである。それぞれの目撃者が、「それぞれを起源とする言語」で書いたのが「新約聖書」なのである。そこに語られることは「類型」である。キリストは愛を説いたが迫害され、十字架にかけられて死んだ。だれも、その「類型」から逸脱しては語らない。そればかりか、彼らがやろうとしていることはキリストを正確に描くこと、キリストの「真理」にせまろうとして書いているのだが、そのそれぞれが「違い」を含んでしまっている。それぞれが「起源」になってしまっている。複数の人間が「認識」をすり合わせて一冊の「キリスト伝記」を書くことができなかった。そんなことは、真剣にキリストと向き合えば向き合うほどできないことなのだ。それが文学(言語作品)というものなのだ。
 野沢は藤井の書いた「個人」「オリジナリティー」ということばを読み落としている。つまり、藤井が「類歌」を超えて存在するものを明るみに出そうとして「個人を起源としての文学」を語っているのに、その部分をすっ飛ばして、野沢に都合のいいように「詩とはそれぞれが起源の言語とならなければならない」と言っている。

 野沢は大急ぎで藤井の書いたものを読み直し、「よいしょ」をしているのだが。ここでも、私は少なからず笑ってしまった。
 藤井は「文法」を取り上げている。藤井の用語をつかわずに、テキトウに端折って私が理解していることを書けば、日本語には英語や西洋の多くのことばと違って「助詞」のような特別なことばがある。それが日本語の文体に大きく影響している。その「文法」が大事である、と言っている。
 で、このことに対して野沢が真に賛同しているのだとしたら、いままで野沢が引用してきた多くの西洋の哲学者や詩人のことばは、いったい何を「説明」するためのものだったのか。西洋の哲学者、思想家は「言語」について語るとき、日本語特有の文法、たとえば「助詞」のことを問題にしていないだろう。その彼らの「理念」を持ってきて、それがどうして野沢が向き合っている日本語の詩、野沢自身の詩と関係があるのだ。
 藤井は藤井で「藤井語」を追求している。藤井語の文学、藤井語の文法。藤井語の、言語の運動。藤井起源の言語を創出しようとしている。そのために日本語の古典を読み、日本語の現代詩を書いている。他の活動もしている。
 「起源」にこだわるなら、そこから論を進めるべきだろう。

 

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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(79)

2024-02-13 22:43:14 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「サントリーニ島讃歌」。

世界に躍り出た初子。

 「初子」には「ういご」のルビがついている。いまも多くの人がつかうことばかどうか、私は知らないが、自分ではつかわないし、聞いた記憶もない。しかし、読めば、意味はわかる。音を聞いてだけでも、たぶん、文脈から意味はわかる。このあとには「海の産んだ子。」という補足的な一行もある。そして、たぶんその補足的な一行があるからこそ、「初子」ということばを中井は選んだのかもしれない。
 つまり、ここでは「わかりにくさ」が選ばれているのだ。わかりにくいことばで読者を立ち止まらせる。そして、いったん立ち止まったあと、簡単なことばで想像力を後押しする。ことばの動きに緩急が生まれる。想像力に緩急が生まれる。そのリズムに合わせて世界が豊かになる。
 中井は、さまざまなことばで「意味」を超える。「意味」よりも、ことばに向き合ったときの「刺戟」を大切にする。


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こころ(精神)は存在するか(11)

2024-02-13 21:45:16 | こころは存在するか

 ベルグソンにかぎらないが、私がベルグソン、あるいは和辻哲郎を正しく理解しているかどうか(私の読み方を他人が正しいと思うかどうか)は、私には問題ではない。私は私の考え(ことば)を整えたいのであって、ベルグソンや和辻をだれかに紹介したいわけではない。私が紹介しなくても、ほかのひとが「正しく」紹介しているだろう。

 「連続」を、ベルグソンは「充足している流出と以降の連続性」と定義したあとで、「充足」を「流れるものを含まない、移行しない」と言い直し、そこから「持続=記憶」と再定義している。このときの「記憶」とは「変化そのものの内的な記憶」である。ここから「内的時間」というものが生まれてくる。
 そのあと、こう書いている。

われわれの内的生の各瞬間には、われわれの身体の、そしてそれと「同時」の回りの全物質の瞬間が、対応している。

 ここに「身体」ということばが出てくるので、私は安心する。私は「身体」ではなく「肉体」ということばの方を好むのだが。
 それから、ベルグソンのことばは、こうつづく。

そのとき、この物質はわれわれの意識した持続性の性質をいくぶん帯びているように見える。われわれはこの持続をだんだん物質世界の全体に広げて行く。というのはこの持続をわれわれの身体の直接の近傍に限るいかなる理由もわれわれは認めないからである。宇宙はわれわれにはただ一つの全体を形成しているように見える。

 ここから私は、「宇宙」に存在するのは「私という肉体」だけ、という考えが生まれる。いや、このベルグソンの考えは、「宇宙」に存在するのは「私という肉体」だけ、という考えを支えてくれると感じる。「意識の持続性」(意識の延長線上/意識のとどく限り)が「宇宙」である。「宇宙」は「意識の持続性」として「一つ」である。
 「肉体」があれば「意識」がある。そして「意識」は「肉体」とは切り離しては存在し得ない。「肉体=意識」ならば「意識=肉体」である。「イコール」とは「即」である。

持続する実在について人はそこに意識を導入することなしには語り得ない

 とベルグソンは書いているが、この持続から「語る」という一連のことばの運動を私は、語るということは意識を持続させることであり、その持続の中に「実在」が出現すると言いなおすのである。
 実存的な時間は知覚された体験であり、それは考えられた時間であるが、考えるということは「ことば」なしにはありえない。「語る」ことは体験を知覚することであり、それは時間を実在させることである。

存在するのはわれわれ各人の持続だけであろう

 とベルグソンは書くのだが、これは私にとっては「存在するのは私の持続だけである」という意味になる。「他人の持続」は「私が想定する持続」にほかならない。それが「他人の持続」と同一であるかどうかは判断のしようがない。
 こんなことはいくら書いても「無意味」かもしれない。
 私は、ほんとうは、こういう抽象的なことではなく、次のことを書きたいのだ。
 ベルグソンは、こう書いている。

意識は、ひからびて空間となった時間に生き生きとした持続を再び吹き入れるのである。

 私は、ここに「吹き入れる」という動詞がつかわれていることに、非常に刺戟を受ける。「吹き入れる」というのは「肉体」の動きである。たとえば、風船に空気を「吹き入れる」。人工呼吸で他人の肺に息を「吹き入れる」。人間の、肉体の動きが、ここにある。何かをするとき、自分以外のものに働きかけるとき、そこには肉体が動く。
 「意識」も「肉体」である。だから、「肉体」の動きをまねするのである。
 ベルグソンは、こうも書いている。

実在するものとしてわれわれに提供されるすべてのものに対して、知覚されるという特性あるいは知覚可能という特性をわれわれが要求するとしても、驚く人はいないであろう。

 「意識」は実在するか。それは「吹き込む」という「肉体」の運動がことばになって表現されるとき、たしかに実在すると、私は言いたい。では、「意識」が肉体」のどこにあるか、という問題があるかもしれない。どこだっていい。脳のなかでも足の裏でもいい。しかし「吹き込む」という比喩がつかわれるとき、それは脳でも足の裏でもなく、たとえば口であり、手の動きであり、肺の動きである。そういう「ことば」と「肉体」の「連続=結合」のなかにある。

 

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こころ(精神)は存在するか(10)

2024-02-12 21:06:33 | こころは存在するか

 ベルグソン全集3(白水社)、「持続と同時性」を読む。
 ベルグソンと和辻哲郎をつなぐ「ことば」は「直観」である。ベルグソンは「直観」と同時に「直接」ということばの方を好むかもしれない。アインシュタインの理論に触れながら、「知覚」について、こんなことを書いている。
 人が走るとき、人が地球の上を走るのだが、これは他者から見れば人の足の下を地球が動くととらえることもできる。これはもちろん物理(数学/論理)の可能性の問題である。しかし、実際に走る人(行為する人)は、自分の行為を「直接」知覚している。この知覚は意識と呼ぶこともできる。それは「内的絶対性」であり、「事実」である。運動する人(走る人)にとって、これはその人の内部で起きる「直接」の感覚(知覚)であり、この「直接」は「確実」であって、ゆるぎがない。
 そして、この「直接」こそが「持続」していくものである。だれにも「介入」されない「持続」というものがあり、そこから「連続」も生まれる。
 「直観」も誰からも「介入」されないものである。この直観を持続させ、そこから連続した世界を新しく描き出すことができるかどうかは、「ことば」の問題になってくるが、ことばにできなかったからといって「直観」が存在しなかったことにはならない、というようなことは、ベルグソンが書いているのではなく、私の付け足しなのだが。

 私の「ことば」が、いったい誰からいちばん影響を受けているのか、誰のことばの影響下で動いているのか、それを見極めるのはむずかしいが、私には何人かの大好きな著述家がいる。そのひとりがベルグソンだ。もちろん私はベルグソンをフランス語で読んでいるわけではないので、そのことば(翻訳)をどこまで動かしていいものなのかわからないが、「わからない」からこそ、私は「自由」にそれを動かしていく。

 「内的直観(内的直接生/内的直接知覚)」によるものだけではないが、運動はどのような運動であれ、加速する。(減速する、ということもあるだろうけれど。)この「加速」を支えるものはなんだろうか。「直観」といえば「直観」なのだろうが、それが「連続」につながるとき、そこには「構想力」が働いている。「直観的」に方向が存在する。この方向をベクトルといえばいいのか、ゲシュタルトといえばいいのか、私は知らないが、ゲシュタルトというのは新しいことばのようであって、意外と古いのだなあと感じたりする。和辻がどこかでつかっていたと記憶しているが、どの本だったかはっきりしない。

 少し脱線したが。
 運動を客観的に把握するだけではなく、「行為する人」の側からとらえなおすとき、そこにはどうしても「肉体」が介在する。「行為する人」を設定し、そこに「内的直接知覚/内的絶対性」を仮定する(想定する/想起する?)ベルグソンの考え方は、私には、和辻に似ていると思う。
 書かれている「対象」は違うのだが、「行為」に起点を置くというのが、似ている。
 和辻はいつも「行為」を見ている。「行為」を見るとは「人格」を見るということでもある。そこから「倫理」、あるいは「道」の問題が始まるのだが、そのことを私はベルグソンの文章をとおして「確認」するのである。

 ベルグソンのいう「直接」は、私にはまた「即」に通じるように思える。つまり、それは道元につながる何かがあるように「直観」する。

 


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Estoy Loco por España(番外篇433)Obra, Juan Gamino

2024-02-11 21:56:33 | estoy loco por espana

Obra, Juan Gamino

 Un hombre y una mujer teniendo sexo. Incluso si los antiguos escultores griegos hubieran creado a un hombre y una mujer teniendo sexo, probablemente no habrían creado algo como esto. Tampoco Miguel Ángel que renovó la escultura griega. Ni Rodin, ni Giacometti.
 Hay una "forma", pero lo que veo no es una "forma externa".  Entonces, ¿se expresa la “forma interna”? En otras palabras, ¿representa el corazón y el deseo? No, aquí no existe tal cosa "espiritual". En primer lugar, no existe el "adentro". Desde el momento en que se convierte en una "forma", se convierte en una "forma externa".
 Veo una "contradicción", por así decirlo. Estoy viendo cosas que no debería ver.
 Aún así, qué bonitos son los pechos firmes y tensos de la mujer. La belleza de la boca que grita, de los ojos que son más grandes que la boca, que rechaza a los demás. Y el sol brillando sobre ellos, la intensidad de la sombra. La luz y la sombra también tienen sexo.

 セックスする男と女。古代ギリシャの彫刻家は、たとえセックスする男と女をつくったとしても、こんな形をつくらなかっただろう。ギリシャ彫刻を破壊することで彫刻を一新したミケランジェロも。ミケランジェロを超えようとしたロダンも。ジャコメッティも。
 「形」はあるのだが、私が見るのは「形」ではない。「外形」はあるが、それは「外形」ではない。それでは「内形」が表現されているのか。つまりこころ、欲望を表わしているのか。いや、そんな「精神的」なのものは、ここにはない。そもそも「内部」などというものは、存在しない。「形」になってしまった瞬間から、それは「外形」である。
 私は、いわば「矛盾」を見ている。見てはいけないものを見ている。
 それにしても硬く張りつめた女の乳房の、何と美しいことか。絶叫する口の、口よりも大きく見開かれた目の、他人を拒絶する美しさ。そして、それを照らす太陽、影の強烈さ。光と影もセックスしている。

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九段理江「東京都同情塔」

2024-02-10 21:52:53 | その他(音楽、小説etc)

 

九段理江「東京都同情塔」(文藝春秋、2024年03月号)

 九段理江「東京都同情塔」は第百七十回芥川賞受賞作。AIの文章が活用されているとか。そのことへの「好奇心」で読んだのだが。読んで、時間の無駄だった。
 この作品は「ことば」が重要なテーマになっているのだが、そのテーマは「ストーリー」として動いているだけで、哲学の深みに降りていかない。

名前は物質じゃないけれど、名前は言葉だし、現実はいつも言葉から始まる。

 という一行がある(306ページ)。小説のタイトルにもなっている「東京都同情塔」という名称に関する考えを述べた部分だ。登場人物のひとり、女の建築家の口をから出ている。九段が思いついた一行なのか、借り物の一行なのか、わからない。わからないが、私は「借り物」と判断している。「現実はいつも言葉から始まる」というのが九段の、あるいは登場人物の考えていることなら、もっと真剣にその論を展開するだろう。つまり、持続的に、そのことばを展開しつづけるだろう。しかし、その重要な問題は、単に「ストーリー展開」のための「道具」になってしまっている。
 それにしても。
 この小説には主要な人物が四人出てくる。人間は三人だが、ことばをあやつるAIがいる。私は「ことば=人間(肉体)」と考えているので四人と「定義」しておく。問題は、その四人の「ことば」が「同質」なのであある。別人に感じられない。女、若い男の日本人、アメリカ人(だったかな?)とAI。これが「目の前」にいたら、すぐにこれが女、これが若い男、これがアメリカ人、これがAIとわかる。それが小説では、「主語」を探さないと、だれの「ことば」なのかわからない。(AIのことばは、ゴシック体で印刷されているので、それは「見かけ」でわかるといえばわかるのだが。)
 「現実はいつも言葉から始まる」というのなら、女である現実、若い男である現実、アメリカ人である現実、AIである現実は、そのことばとして、小説の中に明確に存在しないといけない。「選評」を丁寧に読んだわけではないが(つまり、読み落としているのかもしれないが)、選者のだれひとりとしてこのことを問題にしていない。「ことば」を商売にしている作家が、こんな肝心なことを問題にしないのは、どういうわけなのだろうか。
 あらゆる賞が商売のためである。芥川賞は本を売るための「道具」である、ということを理解していても、ちょっと、これはひどい。ひどすぎる。AIを小説に持ち込んだ、それをアピールすれば売れる、ということで選ばれたのだろう。もちろん、だれもそんなことを露骨に書いてはいないが。そして、この作戦は見事に的中しているのである。ミーハーの私は、その作戦に乗って、文藝春秋を買ってしまった。
 前回の作品も、かなり「商売気」の強いもので、ミーハーの私はセックス描写の覗き見的な感じにつられて買ってしまったが、読んでもまったく性的興奮を感じなかった。まるで、「セックス説明」のような味気ないものだった。この「東京都同情塔」にもセックスらしきものは出てくるのだが、これもまたぜんぜん興奮しない。これって、結局、人間の肉体が描けていないということ。肉体のない人間なんていないはずなのに、作者の九段も、選考委員の作家たちも、そのことに気がついていない。
 いっそう、芥川賞の選考をAIに任せてしまえばいいのではないか。「AIが選ぶ芥川賞」の方が、もっと本は売れるだろう。

 

 

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こころ(精神)は存在するか(9)

2024-02-10 13:02:38 | こころは存在するか

 父が死んだ年齢に近づいてきたせいか、しきりに死について考えるようになった。私は父の死に目(臨終)には立ち会っていないのだが、葬式のあと、いや焼骨のあと自宅に帰ったとき、姉が「父が自宅の前の道から碁石が峰を見ていた」とぽつりと漏らした。それは死ぬ直前のことではなく、たぶん手術後、いったん退院したときのことなのだろうが、まるで碁石が峰を見ながら死んでいったという具合に聞こえた。私はすぐに父がいただろう道に出てみた。道の向こうに田んぼが広がり、その向こうに山が見える。いつも見える山である。見慣れた山である。しかし、驚いた。それは変わらぬ山であったが、何かが違う。違うものが見える。山を見ていた父の姿が消え、父が隠していたものが見える、と感じたのである。父の肉体の形が透明になり、その透明ななかに碁石が峰が見えた。それは碁石が峰というよりも、「透明」としか呼びようのない光のようでもあった。何かはっきりとはわからないが、そういうことが起きる。

 いま、それを「死から始まる世界」と感じている。
 これは、唐突な考えだが、すべては「死後」から始まるのである。
 私はいま和辻哲郎を読み返しているが、読み返しながら、和辻が考えたことはなんだったのかは、和辻が死んで、もう和辻が何か新しいことばを書かなくなったからこそ、私にとって問題なのだ。和辻が生きていれば、和辻が考える。しかし、和辻のことばはすでに本のなかで完結している。その終わったところから、私は考える。そのとき、和辻の「隠していたもの」が見える。私が、私自身で見なければならないものが、その「透明」が見えると感じる。
 これは、私が和辻を超えるという意味ではない。
 何も理解できずにただ和辻のことばのなかをさまよい歩くだけなのだろうけれど、そのとき見るのは、私にとっては、やはり「和辻のことばが隠していた世界」なのである。私が見なければならない「透明」なのである。

 どこに書いてあったのか忘れたが(いま読んでいる第七巻を読み返してみたが、傍線を引いた部分に出てこない)、和辻のことばのなかに、「死は、直観的な何か(たとえば魂)が存在することを求める」ということばがある。このときの「死は」というのは主語ではない。主語は書かれていないが「生(いのち=肉体)」である。その「肉体」が本質=思惟の純粋直観がとらえるものを求める。純粋直観が何かを探しに行くのである。
 死んでも動くものはある。しかし、それは「死」のなかにあるのではなく、また「死」から分離してあるのではなく、ただ「死んでも動くものはある」ということばのなかにこそある。そういうことを超越的に直観する、と書いて……。
 私は、これを「直観は超越的である」と書き直したくなる。書きながら、そう書くべきだったと思いなおす。
 このとき、なぜか私は道元を思い出している。道元は、たとえば「超越的に直観する」という文章に向き合ったとき、ことばの順序を入れ換えて「直観は超越的である」という風に書き換えていないか。「直観即超越」「超越即直観」。ことばは、いれかわることでさらに強く結びつく。区別がなくなる。融合する。「即」は「透明」かもしれない。
 「父は碁石が峰を見ていた」を私自身の肉体で反復し直したとき、「死」を破壊して、何かが瞬間的に見えた。それが、私の父が私に残してくれたものである。

 


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ビクトル・エリセ監督『瞳をとじて』 (★★★★★)

2024-02-09 21:22:48 | 映画

ビクトル・エリセ監督『瞳をとじて』 (★★★★★)(キノシネマ天神スクリーン3、2024年02月09日)

監督 ビクトル・エリセ 出演 マノロ・ソロ、ホセ・コロナド、アナ・トレント

 アナ・トレントが、また「アナ」という役で出演している、というのは、もしかするとどうでもいいことではなく、とても重要なことかもしれない。テーマが「記憶」だからね。私は、アナ・トレントはいつ出てくるんだ、出てこないんじゃないかと、半分不安な気持ちで見ていた。というのも、最初の部分は、なんといえばいいのか、いかにも「仕掛け」という感じのつくり方になっているからだ。人間を見せるというよりも、「ストーリー」を仕掛けの新しさで見せるという映画に見えなくもないからだ。「哀れなるものたち」を、ちょっと思い出してしまったのだ。
 しかし。
 後半がすごいなあ。映画であることを忘れて、どきどきしてしまった。不安になってしまった。いったい、どうなるのか。
 どんな人間でも、死んだときからほんとうの「物語」が始まる。だから「渋江抽斎」で渋江抽斎が途中で死んでしまうのは必然なのだ。ソクラテスも、死んだところから始まる。プラトンがソクラテスのことばを書き始める。キリストも、死んだところから「物語/新約聖書」が始まる。しかし、この映画では、主人公は死んでいない。生きていることがわかる。そこから、ほんとうの「物語」が始まるのだが、生きているから語り手の思う通りにはならない。「脚色」ができない。「生きている主人公」と交渉が始まり、その交渉が新しい人生になるのだが、その新しい人生というのは「過去(記憶)」を取り戻すということなのだ。そしてそれは「死んでいたかもしれないひと」の「過去」だけではなく、いまを生きているひとの「過去」を取り戻すこと、「過去」を生きなおすことなのだ。だれも知らない「いま」が始まるのだ。
 こんなことを書くとややこしくなるから、もう書かないが。
 何がびっくりといって、映画なのに映画であることを忘れてしまう。ドキュメントというのとも違う。現実に参加させられてしまう。この映画を見るとき、私はマノロ・ソロなのか、ホセ・コロナドなのか、アナ・トレントなのか。あるいは、他の登場人物なのか。そんなことは、どうでもいい。スクリーンに展開する「時間」に引きずり込まれてしまう。「記憶」はどのようにして現実(現在)の中に噴出してくるものなのか、噴出してくる記憶(過去)はほんとうに過去なのか、あるいは新しい現在(現実)なのか。
 好きなシーンはいろいろあるが、やはりクライマックスがすごい。ホセ・コロナドが瞳を閉じる前、スクリーンを見ながら、一瞬「つばを飲みこむ」のように喉が動く。何の説明もないのだが、このときの肉体の緊張感がたまらない。思わず、私もつばを飲み込んでしまう。そして、最後のシーンで、つられて瞳を閉じてしまう。そして、あわてて目を開けて、まだホセ・コロナドが目を閉じているのを見る。「ああ」と声が、こころのなかで漏れてしまう。
 音楽もとてもいい。「バックグラウンド」でありながら、「現実」そのものとして動く。その関係は「記憶」と「現在」の関係のように、動き始めた瞬間に「バックグラウンド」ではなく「現実」を深くえぐる力になる。「現実」をえぐり、過去(背景)を引っ張りだす感じだ。
 今年のベスト1、と私は思う。まだ2024年が始まったばかりだが。(私はせいぜい10本くらいしか見ることができないだろうけれど。)

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇432)Obra, Jesus Coyto Pablo

2024-02-08 23:02:42 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo
"Paisaje interior" serie, Acrílico lienzo, 70x70 cm.

 "¿Qué es el interior? Cuando el interior existe, ¿dónde está el exterior?"
 "Existe al mismo tiempo que la conciencia del interior. El exterior es el interior consciente".
 "¿No existe el exterior?"
 "Cuando el interior rechaza el ser interior y brota del interior, nace el exterior".
*
 Una nota que quedó profundamente grabada en la memoria. De vez en cuando alguien venía a leerlo, por lo que el pintor lo pegaba a un lienzo y lo cubría de color. Sin embargo, la memoria se mueve con venganza contra los colores. Rojo, negro, azul, todos mezclados, gritando: "Los recuerdos existen para recordar". Es cierto que lo que se esconde en el interior siempre se revela al exterior. Tal como predijo el pintor.


 「内部とは何か。内部が存在するとき、外部はどこにあるのか」
 「内部という意識と同時に存在する。外部とは意識化された内部である」
 「外部は存在しないのか」
 「内部が内部であることを拒絶し、内部から噴出するとき、外部が生まれる」

 記憶の奥に置き忘れたメモ。ときどき、誰かがそれを読みにくるので、画家はキャンバスにはりつけ、色を塗り重ねて、その文字を隠した。だが、文字は色に対して復讐するように動く。赤く、黒く、混じり合って「記憶は思い出されるためにある」と叫んで。たしかに、隠された内部は、かならず外部にあらわれる。画家の予言そのままに。

 

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